山崎の戦い①
西から進軍し続けてきた羽柴秀吉軍は尼崎から街道を北上して京を目指し、対する明智光秀は、天王山と淀川に挟まれた街道上で最も狭隘の地山崎にてそれを迎え撃つ形で布陣する。
六月十二日、羽柴秀吉は一度軍を停止させ、大阪から合流してくる織田信孝と丹羽長秀の軍の到着を待った為、丸一日明智軍に準備の時を与えるに至った。
しかし、山崎の地に先に到着した中川清秀、高山重友のそれぞれ一千、黒田孝高二千、池田恒興二千の計六千の軍に対して明智軍は攻撃する事をせず、あえて羽柴秀吉の主力が到着する時をじっと待ったのである。
円明寺川に沿って柵を巡らし櫓を建て、ここから先へは一歩も通さぬという確固たる意思を感じる程の防御の構えにて布陣する明智軍の指揮を執るのは斉藤利三である。
彼が羽柴軍のこの先鋒部隊を叩かなかったのは、この戦で羽柴軍全体に大きな痛手を与える事が目的であり、要衝天王山を奪った羽柴軍が有利という形でこの地に羽柴軍の全てを引き込む必要があったからだった。
明智軍の布陣は右翼四千、左翼に四千、中央に六千と円明寺川に沿って巡らせた柵に二千を配し、後方御坊塚砦の本陣には主君明智光秀の約五千がある。
但し本陣五千の内の四千は荷駄人足達を集めた偽兵であり、あとは伏兵として隠した二千を加えて実質二万に満たぬ数での開戦となる。
後方勝龍寺城には城兵一千があるが、彼等はこの戦に於いては明智側に協力はしているが羽柴軍と一戦交える腹づもりは無い。
六月十三日の早朝、羽柴軍本隊の到着を知らせる合図が円明寺川南岸から上がると、それに合せて明智軍内にも緊張が走るのが伝わる。
山崎村の手前に位置する中川清秀と高山重友の二千の軍が慌ただしく動き始める姿が、物見櫓に登る斉藤利三の目にも見える。
しかし、羽柴軍の本隊が山崎村へと入った事を知らせるもう一つの合図はまだ上がらない。
六月十一日、羽柴軍の一隊が山崎村にて略奪を行い、その際に多くの村人を殺した。生き残った者達の内の数人が明智軍への協力を申し出て、今も羽柴軍の動きを細かに伝えてくれているのだ。
斉藤利三は櫓の上で静かに攻撃開始の合図を出す機を見ている。
彼が羽柴軍を破るに用いる策は三つ、その一つ目が防御の布陣と見せての速攻による攻撃。
羽柴軍が明智軍の布陣が円明寺川を天然の水堀とした防御にあると思わせ、それに正対する陣を組むためにのこのこと兵を進め来る時がこの戦の幕開けとなる。
それに続く策として用意し、数日前より山中に潜ませている並河易家と松田政近率いる二千も敵に補足された様子は無い。
最初の合図から随分と時が過ぎたが、ようやく協力者達の振る布の合図が向こう岸に見えた。
「右備え、かかれ」
斉藤利三の声が響くと、押し太鼓の音が響く。
それに合せて明智軍右翼四千が円明寺川に一本だけ落とさずに残した橋を急進して渡り、羽柴軍の先鋒、中川清秀と高山重友と二千に向けて突き進む。
この右翼部隊は御牧景重率いる鉄砲隊一千を含む伊勢貞興、諏訪盛直に率いられた非常に攻撃力の高い軍である。
彼等が担う使命は二つ。
この右翼部隊で押しまくり、進み来る羽柴軍の頭を押えて山崎村の中で立ち往生させる事で大軍の利を殺してしまうことが一つ、そしてもう一つは天王山を占拠する黒田孝高の軍を誘き出す事である。
円明寺川の対岸、一千の明智鉄砲隊が火を噴くと、中川、高山両軍の旗が大きく揺れて大きく退がりはじめる。それを追い更に前進していく味方の姿を見ながら、「よし」と斉藤利三は心の中で呟いた。
まずは上手くいった。
彼等の正念場はここから。敵の全ての攻撃をあの四千で退け続け、事態回復の為に天王山の黒田軍が下りるまで耐えねばならない。
左翼の津田信春からも池田恒興率いる二千との会敵の伝令。
予想より早く敵が左翼攻撃に出て来たが、左翼前衛に位置する津田信春二千の軍には川幅の広くなった円明寺川の河口の地形を利用して防御に徹せよと命じてある。加えて彼等の援護の為、その後方には山崎片家、多賀常則、小川祐忠の近江衆二千を配してある。
明智軍右翼は攻撃、左翼は防御にそれぞれ徹する。
山崎村の東側、円明寺川河口までは葦の生い茂った沼地が点在し、足場も視界も悪く軍の動きが制限される。山崎村で立ち往生している羽柴軍の本隊は西は天王山の斜面に邪魔されその殆どが東側の沼地へと湧きだし、斉藤利三の思惑通り身動き出来ぬ有様となっている。
あとはいつ天王山が動くか、それを待つばかりだった。
* *
この時、黒田孝高は天王山の自陣への帰路を急いでいた。
葦の不自由な彼は時に兵に支えられ、また抱きかかえられながら山道を登って行く。明智軍の陣からは陣太鼓の音が響き、何らかの大きな動きが起きているのを感じる。
急がねば、それだけを胸にひたすら山上を目指した。
織田信孝、丹羽長秀軍六千との合流を果たした羽柴秀吉の本隊はその場で停止し軍議を執り行い、そこに黒田孝高も招集されたのである。
明智軍二万に対して万全を期すために明日には到着するであろう羽柴秀次率いる羽柴軍主力一万の到着を待って開戦に至るべしの進言には一同の合意を得る事には成功し、大軍の利を以て明智軍を揺さぶり防御の弱点を突くという自身の献策も受け入れられた。
しかし明智軍と正対する布陣についてはすぐにでも行うべきとの堀秀政の進言により、羽柴秀次の軍を欠いたままでの進軍となったのである。
羽柴軍の布陣と進軍状況は次の通りである。
天王山に黒田孝高二千、山崎村前方の街道上に中川清秀、高山重友の二千、右翼円明寺川河口付近に池田恒興二千と付近で伏兵として待機する加藤光泰、中村一氏の二千、本隊として街道上を進むのが掘秀政の一万五千、その後方に羽柴秀吉本陣五千、秀吉陣の右を並走する形で織田信孝、丹羽長秀の六千が移動する総勢三万四千の軍である。
尋常ではない数の鉄砲の発射音が響く、黒田孝高はようやく陣に辿り着くと眼下で繰り広げられる戦の様相を把握しようと努めた。
円明寺川に残された橋を渡り、明智軍の右翼が突出して中川清秀と高山重友の軍を倍する兵力と多数揃えた鉄砲の火力にて圧倒しているのが見える。
明智軍の布陣を見た時に違和感は感じていた。
橋を一つ落とさずに残しているのはなぜか、そんな簡単な事を自分は見過ごした。あれは防御に見せかけた攻撃の為の布陣。
明智軍の布陣を防御一点張りと思い込み不用意に進軍してきた我が軍は強力な一撃を初手で受ける羽目になり、中川、高山の軍が山崎村の出口となる北側まで追い返されたことで、山崎村の中を進軍中であった堀秀政の一万五千が縦列のまま立ち往生している。
このままではいずれ中川、高山の軍が崩壊し、後続の堀秀政の軍も山崎村を出た先から次々に討取られて数を減らしていく。
この窮地を救うには天王山の我が軍が動くしか手が無い。
だが、明智軍右翼は我らの存在など無視しているかの様に動いている。それは我らに隙を見せ誘っている様にも見えるのだ。
黒田孝高は思考を巡らせた。
天王山の我が軍二千が駆け下り明智軍右翼の後方へと回り込みその退路を断ちながら、中川、高山の軍とで挟み撃ちにしてしまえば、それは明智軍右翼を崩壊させこの戦そのものを勝利に導く鬼手になり得る。
だが、明智軍がそれを予測していないという事があり得るのか? 唯一の気がかりは我らが駆け下りもぬけの空となった天王山を奪取する明智軍の伏兵の存在。
物見を命じた神子田正治はその存在を否定している。いないと言うならその言葉を今は信じるしかない。
「我らこれより眼下の明智軍右翼の後方に躍り出てその退路を断つ。これが成功すればこの戦の勝利は決したも同じ。この場は神子田殿にお任せ致す」
天王山に設置した全軍指揮の陣太鼓を任せると告げると、神子田正治の顔が少し緩むのが見えた。
兵を集結させよと告げる黒田家の重臣達の声、集った黒田全軍を前に黒田孝高は目指すべき道を自らの刀で指し示した。
「黒田軍、突撃」
黒田孝高の声に黒田軍の兵達の声が続く。
足を引きずりながら進む黒田孝高を黒田の諸将が追い抜き天王山から一気呵成に攻め下る。
この一撃で、我らの勝利は決まる。
* *
「天王山の黒田軍動きました」
「打ち鐘を鳴らせ、右翼軍に全力後退の合図を」
斉藤利三が声を上げた。
天王山の黒田軍は食いついたが直接我が方右翼を襲うのでは無く、その退路を塞ぎ敵中に孤立させる腹づもり。急ぎ退却して黒田軍を防がなければ右翼軍壊滅からの全軍潰走に繋がりかねない。
前もって下知していたとはいえ、危険な賭けに出ていたのも事実。あとは伊勢貞興、御牧景重、諏訪盛直の三人に任せるしかない。
最初に動いたのは諏訪盛直の二千、彼等が急転して攻め下る黒田軍に相対する様に後退していく。
御牧景重の鉄砲隊が一斉射撃の後に退がり、伊勢貞興が殿を務める形で後退するのを再び鉄砲隊が援護しながら退がるというのを繰り返す。
明智軍右翼の反応に天王山を駆け下った黒田軍は足を止め、直接ぶつかる事を避けた。再び息を吹き返したかのように中川清秀と高山重友の軍が味方右翼を追うように前進し、これによって山崎村で立ち往生していた敵の本隊が姿を現し、中川、高山両軍に追従するように街道沿いを進み行く。
唯一残された橋に続く街道は山崎村の北を出ると西へと折れ、円明寺川に沿って続いている。つまりその街道上を歩く敵は、対岸に構える斉藤利三本隊に対して見事なまでに横腹を晒しているのである。
対岸にて防御の柵を巡らせた強固な陣地に籠もる明智軍、我らがこの場から動かぬと思いこちらに対する警戒心も未だ薄い。
一つ目の山場は乗り切った。
そしてその事により二つ目と三つ目の策のお膳立ては全て整った。
「これで決めます」
残り二つの策を以て羽柴軍に痛撃を与え敵を一時撤退にまで持ち込む。その後は対峙に切り替え時を稼ぐのだ。
斉藤利三が合図を下すと腹を揺さぶる様な法螺貝の長い音が、方々の陣から響き始める。そしてその音が途切れてはまた再びそれは繰り返される。
まるでどこか遠くにいる誰かに聞かせる様に延々と。




