信長と信忠
この頃、織田信長は明智光秀を『禿げ頭』と呼んでいた。
「明智光秀がですか」
「信忠、明智光秀をお前はどう見る?」
「謀略に長け狡猾で残虐な男と影で評されておりますが、私には光秀は常に一歩退いた位置に自分を置く生真面目な男という印象しかありません」
「奴は武人、戦場の駆け引きで力を発揮す男よ。
加えて公家共に勝る教養を持つ異能でもあり、家中で唯一公家言葉を操り朝廷での聞こえも良い。
何より命に忠実で敵に対しては徹底的な攻めを行う。その事が残忍と映るのであろうな。しかし光秀が敵視するのは織田の外敵のみで家中の争いには全くの不得手だろう。
内政手腕だけでなく家臣や民に対する慈愛にも満ち、統治者としても一級よ。根は優しい男なのだろうな」
「家中の風評とは随分と違いますね」
「新参で能力が抜けておれば必ず悪言は飛ぶ。その者の根を知れば風評に惑わされることも無い」
「人材を見出すのは国の大事、父上はどの様にしてそれを成したのですか」
「儂が家中に競争を促したのはなぜか。それは織田が生き残るに新旧を問わずに有能が必要であったからだ。今の織田があるのは優れた人材あってのことぞ」
「父上の申される競争と光秀の風評とどう繋がるのですか?」
「儂が求めた競争は自らを高め優劣を競い、互いに高みを目指していくという事。互いを貶め潰し合う事では無い。
だが、多くの者が自身はそのままに他者の悪言を広める事で自らを優位に見せようとし、それが競争であると錯覚しておるのだ。
その歪んだ認識で作られた競争を勝ち得た者は、その時点で既に腐りきっている。そんな者達に儂は用は無い」
「そうか、その様な風評を私にわざわざ伝え来る者こそが織田を蝕むのか、信忠心しておきます」
「信忠心せよ。
儂が見出し大権を与えた各地の重臣達は総てが織田家に従っているとは限らぬ。儂個人に忠義を誓う者、織田家に仕えるを是とする者と様々、もし仮に儂が倒れることがあっても重臣達の忠義が揺るがぬ様、如何にして彼等の忠誠を掴むかをこの遠征中にも考えよ」
「重臣達と接し、自分の目で彼等を見極める事に致します」
「話が逸れたな」
織田信長は各地で戦う重臣達の姿をしばし思い浮かべた。
織田信忠に向かい呟くように一人一人の名を挙げていく。柴田勝家、滝川一益、そして明智光秀の名を口にしたその時に口元が少し綻んだ。
「禿げ頭、禿げ頭のくせに奴は賢い。
今更織田を潰して新たな大乱を制するよりも、終息に向かう天下平定後の一族の繁栄を掴む方が容易であり利がある事を理解している。
奴め、儂が申し渡した岩見国と出雲国二国の加増では不服だと申し、西国平定後は九州の北半分ぐらいは寄越せと言いおったわ」
「何と大それた事を、あの光秀がですか」
「愉快であろう。あの男が儂に初めて己が欲を見せたのだ。
すでに恭順の意を示している大友家に竜造寺家、それらを従え九州一円に睨みを効かせるに明智は必須であろうな。
しかもあやつは戦働きはそこまでとも儂に言い切り、何と言ったと思う」
織田信忠も村井貞勝も顔を見合わせて首を横に振る。
「その地を手に入れたら隠居して『海釣り』というものをして暮らすのだそうだ」
「あの光秀が漁師の如く釣り、釣りをですか」
「あの男も老いたということだな」
明智光秀の厳つい体格と教養の士として知られる日常の振る舞いからは思いもしない内容を告げられ、織田信忠も村井貞勝もこれには大声を上げて笑った。
織田信長自身の甲高い笑い声も加わり、その声は御殿の間の隅にまで届くほどであった。
この時代、漁師でさえ釣り糸を海に垂らさず網を用いて魚を捕る。水面に釣り糸を垂れて釣りに興じるなど余程の変わり者しかしない行為。だから彼等はそれ程に笑ったのである。
「何よりあの男は儂の天下よりも信忠、お主の代に肩入れしている所がある。二人で日ノ本の今後について語るとき、『我が息子をいずれは信忠のお側に』と口癖の様に言う。そんな男が儂を殺す兵を挙げると思うか?」
その後は一通りの雑談を交して、村井貞勝は森蘭丸等との明日以降の打ち合わせのために別室へと下がった。
残った信忠を前にし、織田信長は続けての内容を小声にて話した。
「今、最も警戒すべきは狸よ」
「徳川殿ですか」
「徳川家は既に織田家の属国に近い状況にある。
このまま時が流れれば徳川家が織田家に吸収されるは目に見えておる。徳川家として一つの独立勢力の維持を考えるならば、織田を混乱させその隙を狙うのが最も効果的であろう」
「では父上は徳川家康をお討ちになる腹づもりで?」
「徳川家康という男はまず人格者と言って良い。
野心よりもまずは信義というものに縛られるのだ。その意味で盟友である我らを狙うとは考えにくい。だからといって油断は出来ぬ。爪を隠し耐えているのも事実であるのだからな。
儂が倒れる事があれば、儂個人と交した信義は消え、残るは野心のみとなろう」
「今回、徳川殿を安土に呼び寄せ、京や堺見物などをさせているにはどのよ様な意図があるのでしょうか?」
「既に織田と徳川の力の差は歴然としている事を改めて見せておくためであった。それに加えて十日後に揃う織田軍本隊十万の軍勢の姿を見れば、儂が西に出向いている間に東で事を起こすなど考えもせぬであろうからな」
「そうでしたか。徳川殿は父上が今ここにおられる事を知っているのですか?」
「昨日、儂の方から伝えておいた。家康が儂を亡き者としたいなら今この時が千載一遇の機会。あの慎重な男が命懸けでここに討ち入るかどうか試してみようという気持ちもあった」
笑いながら織田信長は付け加えた。
「しかし偶然にせよ今回は信忠、お前が家康の先手を取った。
護衛としてとはいえ数百の織田者に囲まれていてはその気も起こせぬだろう。今あの男は逆に自分が害されるのではないかと恐ろしくて眠れぬのではないかな」
織田信忠のきょとんとした顔に織田信長は未熟さを感じた。
「天下統一後は徳川家康を織田一門に迎えて徳川家を併合し、中央を織田家、東に徳川家康、西には明智光秀を置いた統治基盤を作る。関東管領の名声より茶器が欲しいと申す滝川一益では東の押さえにはなりそうにないからな」
「四国は弟信孝が治めるとして、柴田勝家等本国衆もそれでいいでしょう。しかし羽柴秀吉の名がありませんが、どうされるのです?」
「ハゲ鼠か、そうだ奴は恐ろしい男ぞ」
織田信長は羽柴秀吉をサルと呼び、彼が年を取るとその容姿を揶揄して『ハゲ鼠』と呼ぶ様になった。
羽柴秀吉もそれを笑って受け入れ、妻のおねにも『ハゲ鼠殿』とそう呼ばせていた。
「ハゲ鼠は権威に従順で使いやすい。
だが、今のあの男は政戦両面では凡庸となっている。元々あの男の能力は味方として近づき他人を利用する才というべきか、商人に近い利害の駆け引きの才がある。
その能力は味方にとっても毒、有能な配下の功績を過小に評価し、功を自分のものとして奪う姑息な一面もある。故にハゲ鼠の口車に乗った者は敵味方を問わず、僅かな利と引き換えに大功を奪われるのだ。
こういう男が治世で権力を持つと有能は腐るか消される」
「ではいずれは秀吉を」
「勘違いするな信忠、儂はあの男を嫌いでは無い。
あやつは元々は珠玉であった。それが家中での醜い競争の中で濁りを見せ織田を蝕む不安の種になりつつある。
西の戦が終われば秀吉の軍権を奪い吏僚として我が元に置く。そこでもう一度儂の元で磨き上げ、かつての様な我武者羅に突き進む輝きを取り戻すかもしれぬ。
儂の心届かずとも、奴めが背くこと無きように奴の最も大事なものを質として握ってもあるしな」
ここまで言うと信忠が何かに気付いたのか、「あっ」と声を上げた。
「あの男はその気質から孤独、それ故に人の情に飢えておる。奴の心の拠り所となるのは唯一家族のみ。これを我が手元に置くことで奴に気取られずに先手を打ってあるのだ」
「近江国長浜の地を羽柴家の所領として残してあるのは秀吉の母と妻ですか。父上の深慮未だこの信忠の呼ぶところでは御座いませぬ。
しかしそれでは羽柴軍を解体することになりませんか?」
「羽柴秀吉のみ儂の側衆として引き抜き軍事は奴の弟の秀長に引き継がせる。ハゲ鼠はこれよりは諸大名の調略に奔走し、いずれは海を渡り交渉を纏める事になるやもしれぬな」
気が逸り、つい『海の外』について言及した自分を織田信長は笑った。
「儂が後、この日ノ本はお前が束ねる。この信長が血を流し歩む覇道の後は、徳と慈愛の王道を持って国を統べよ。そして内に潜む敵をよく見極めるのだ」
* *
京の町は静かな夜を迎えた。
本能寺境内の茂みから聞こえていた虫の鳴く声も消え、ただ風になびく木のざわめきが織田信忠には少し心地良く感じた。
「では、私はこれにて」
父信長との対話を終え御殿から本能寺本堂へと向かう途中で村井貞勝が口を開いた。彼の屋敷は本能寺の東門を抜けた通りを挟んだすぐ向こう側に設けられている。ここで彼とは別れた。
父信長の住まう御殿の周囲には篝火が焚かれ、要所で小姓達が警備にあたっている。父が言う通り刺客の類いに対する備えはしてある様だったが、本能寺の他の場所については殆ど無警戒であり、村井貞勝の消えた東門も開け放たれたままで門番の一人も配されてはいなかった。
そして本能寺の正門でさえ篝火の用意も殆ど無く、門番が一名とすぐ側に来客の記録係の者がいるだけである。
織田信忠は供の者達と南正門側の厩舎で合流し、乗馬を受け取ると厩前で番をする者に寺の警備について尋ねた。
「寺の事は坊主達に任せよとの大殿の言葉であります。
暇を出していた馬廻りの者達がここ数日昼と夜とを問わずに到着し、門を叩く音や伺いの声で就寝中の大殿の耳を汚すわけにもいきませぬので、寺の各門は開けたままにしてあります」
配慮すべき点がズレていると感じた。
まず考えるべきは父織田信長の身の安全。しかし父に叱責されてその様にしているのかもしれぬと納得し、改めて寺の警備について織田信忠は彼に命じた。
「東門は封鎖して人の出入りは南の正門からのみとせよ。
本堂周辺にも篝火を設け簡単な巡回隊を編成し侵入者に備えよ。ここ正門にはせめて鉄砲を持たせた番兵を数名は配すこと。
今のままではあまりにも不用心である。
父上に警備変更について叱責されたならば、この信忠がそう命じたと伝えよ。よいな」
番の者は織田信忠に一礼すると、同僚達の休んでいる厩の中へと慌てて消えていった。




