葬送
安土城本丸天守だけは織田信長ただ一人の為の場所。
鍋の方、そして市様が申したその言葉を明智秀満は素直に受け入れていた。
城の城主達は城の内外に居館を構えて普段はそこで生活するのが一般的であり、城の天守を住居としていたのは自分の知る限り織田信長という人唯一人であったからである。
安土城天守は坂本城の天守を元に考案されたと聞くが、坂本城の天守は元々湖上を見張る櫓を大きくしたものに外観の体裁を整えた物で、その内部は居住とはかけ離れている。
戦に於いて逃げ場の無い天守に籠もることは、確実なる死を意味している。
その様な場所を居として選び生活した織田信長公は、この城を戦ではなく世の統治の為のものとして捉えていたに違いない。
この安土城の天守を『天主』と信長公が称したのも、そんな考えがあったからなのかもしれない。
そして今自分は、織田の治世の象徴とも言えるこの場所を地上より消し去ろうとしている。
明智秀満が予想した通り、織田信長公をここ安土城にて葬送すべしという鍋の方と市様の願いに対する主君明智光秀よりの返書を携えた伝令は昼前にはここ安土城へと到着した。
すでに曲直瀬道三が京へと去り、織田信長公の遺品と共に鍋の方を乗せた籠も城警護の織田兵四人に守られここ安土の城を後にしている。
市様は警護役につけた明智者に指示を出し、織田信長公の遺品数点を持たせて京の寺社へと送り出し、自身は兄信長の葬送を見届けた後に馬にて日野城へと駆けるので、警護も騎乗の者を付けて欲しいと自分に申された。
陽が落ちるとそれまでに集めた大量の水桶の一部を手に取り数十人の兵士が本丸内の帯曲輪や周辺の屋根に登り水を打ち始める。天守に火を掛けた場合の延焼への備えである。
織田信長公の葬送はただ城に火を掛ければ良いというものではない。
天主土台から燃やせば大火となり城が大きく崩れる事になる。そうなれば城の至る所へと延焼し取り返しの付かぬ事態にもなりかねない。
明智秀満に与えられた命は安土城全てを焼き尽くす事ではなく、織田信長公の居室を含む本丸天守の一部を焼くことだけなのである。
最も延焼しやすい位置にあった本丸内の御殿は先の襲撃時に焼け落ちており、今そこには大量の水桶が運び込まれ並べてある。
軍の性質は破壊を主とするものであり、他を傷つけずにその一部だけを壊すという行為は明智秀満にとっても苦手な分野である。
当然ながら織田信長公葬送の為の儀礼や儀式の様なものは一切手配できず、溝尾茂朝や明智光忠であればどうした等という事を考えるのはもう止めた。
そして今夜の内に天守最上部六層に安置された織田信長公の亡骸と共に四層までは焼くと明智秀満は決めた。そうしなければ市様がいつまでも安土城を出ようとしないからである。
織田信長公が亡くなった以上、ここ安土城に三千もの兵を置き守る意味は今の明智には無い。すでに我らは琵琶湖の水上を完全に掌握しており、東からの敵に備えるならば瀬田の唐橋を落として坂本城を拠点に守る方が容易であり、一千の兵もあればそれは事足りる。
そうすれば二千の兵を山崎の地の本体へと更に送る事も出来る。
ただ一つ懸念されるのは、安土城を放棄する事で恭順してきた山崎片家、多賀常則、小川祐忠といった近江衆の明智軍からの離脱である。
「全ての準備、整いました」
兵からの報告を受け、明智秀満は二ノ丸の市様にもそれを伝えよと命じた。
明智秀満は火の見張りのために本丸に配した二百の兵を除く全軍を二ノ丸へと集め整列させた。
旅装束に身を包んだ市様が警護の武者二人を従えて皆の前に姿を現したのは、それから程なくの事である。
明智秀満は開始の合図を出すように命じた。
松明に照らされた二ノ丸から見上げる夜の安土城は鮮やかな色を失い星空の中に大きな影としてその姿を映している。
明智秀満のそばで灯りが大きく振られると、それに応えるかの様に天守の影の中から灯りが振られ、次の瞬間天守六層に当たる部分が赤く激しく輝いた。
整列する兵達から声が上がる。作業に加わらず城の警備に当たっていた者達は、何も知らされずにこの場に集められたのだ。
目の前の光景を唖然と見つめる明智の兵達。炎が激しさを増していく。
「兄様、さようなら」
市様がそう語りかけるように言葉にすると、明智秀満の背後からも兵達のすすり泣く声が聞こえてくる。
京より織田信長公を救い出し、我らは安土城で織田信長公を守り抜くのだとそう兵達には伝えていた。
それは一時的な事で、またこれまでと変わらぬ日常が訪れるのだと誰もが信じていたに違いない。
しかし今、彼等は自分達が守るべき者の死の事実を知ったのだ。
そしてそれは織田という大国の頂点に立つ者の死でもある。彼等は明智の兵としてではなく、織田家に属する民の一人として抑えきれず溢れた無念の思いに涙しているのである。
「これから日野の城へと参ります」
目に涙を浮かべながらも凜として言葉を発する市様の姿を明智秀満はただ見つめているしか出来なかった。
我らでさえ耐えきれぬ無念の想い。兄妹の絆という深い血のつながりを持つ彼女の胸中は自分には推し量る事さえ出来ない。
見送りに出ようとした自分を彼女は制し、後の事を頼みますとだけ言い残して警護の二人を伴って市様は夜であるにも関わらず安土城を去って行った。
天守最上部の屋根が崩れいくつもの瓦が降る。一時弱まった火勢は下の五層部に燃え移ると新たな命を得たように息を吹き返す。
明智秀満は火の勢いを見極めてから鎮火の命を下した。
屋根に水が打たれ、炎に向けて桶の水が次々に投げ込まれていく。整列していた兵達も散会して水汲みに回り、天守内部からの消火に当たるために数隊が水桶を抱えて建物の中へと駆け込んでいく。
明日夜が明け、周囲の安全を確認出来る状況下で残りの作業を継続し、全ての完了を以てこの地の三千の明智軍は山崎の地の明智軍本隊に合流する。
本来あるべき自分の居場所に戻れるのだという安堵と、重責からの解放に気が緩み笑みを漏らしている自分に気付き、明智秀満は頬を両手で打って気を引き締め天守の消火作業を見守った。
夜の安土城に灯った炎は、閑散とした安土城城下町に目的を持って留まっていた者達や安土城周辺の城でも目撃され、その事を告げるための早馬が京そして山崎の地へと発って行ったのである。




