鈴木孫一
土橋重治は紀ノ川を流されていく燕を追い走っていた。
まず黒人の侍を一人助けた。
高野山の地は三人のみで踏み入るのは危険だという自分の予感が的中したのだ。
そして燕という名の少女にも危険が迫っている事を知り、すぐに追い払った高野山の兵の後を追ったが、急造の船渡しらしき場所には二百人からの兵がいて、土橋重治の連れた二十人ばかりでは強引な救出は出来ない。
隙は無いかと覗っていると、竹中重矩と燕の二人は船に乗せられ高野山とは反対側の対岸へと渡されようとしている。
我らも対岸へと渡らねばと思案している最中にそれは起った。
船から燕が川の中へと落ちたのだ。
しばらくして下流に現れたのは三人、燕と二人の男達だった。
増水した紀ノ川を流されていく速さは相当で、我々の足では中々追いつかぬ。一人黒人の侍だけが風のような速さで三人を追っていく。
「土橋の頭、俺達ゃ走ってばっかりだな」
口の悪い雑賀者が不平を漏らすが、それでも高野山へ向かうと告げた自分を放ってはおけぬと付いて来てくれた気の良い連中だ。
かなりの距離を走ったと思う。先に行った黒人の侍が川辺に立ち止まり対岸の下流を指差している。燕達三人が向こう岸に上陸していた。
川のこちら側は高野山の勢力下、向こう岸は根来寺の勢力圏となる。今どちらが安全かといえば向こう岸の方だ。
「土橋の頭、追っ手が来てる。まずいぞ」
雑賀者の指差す方向、対岸の紀ノ川上流側から馬に乗った兵が十騎程駆けてくるのが見えた。あの三人の元にそれはすぐにでも達するだろう。
「鉄砲で援護しろ」
土橋重治は配下の者達に命じて、対岸から騎馬に向け鉄砲を撃たせ、その間に自分は燕達三人に向けて目一杯の大声で「逃げろ」と叫んだ。
距離も遠く鉄砲の前を真横に通り抜けていく騎馬の群れに弾を当てられた者は一人もおらず全て討ち漏らした。だがその騒ぎで三人も追っ手の存在を知った様だ。
縄を解かれた燕も河原を下流に向けて必死に走っている。土橋重治も雑賀者達も「逃げろ」と神に祈りながら対岸を走った。
河原の石に躓き燕が倒れた。男達が燕の元へと駆け寄り刀を抜いた。迫り来る騎馬からは逃れられぬと覚悟を決めた様に見える。
土橋重治と雑賀者、そして弥助はその光景を目の当たりにしながら何も出来ず、ただ叫び声を上げるしか出来なかった。
一発の銃声が轟いた。
先頭を走る騎馬から兵が後方へと吹き飛ぶように落ちていく。それで騎馬の群れの動きが鈍り、その足が止まった。
西の下流から現れたのはもう一つの騎馬の一団。その遙か先頭を走る男が撃ち終えた鉄砲を並走する騎馬に投げ渡し、新しい装填済みの鉄砲を受け取ると速度を落とさぬ騎乗姿のまま銃撃して更にもう一人を撃ち倒した。
男は撃ち終えた鉄砲をそのまま片手で突き出し、高野山の兵の騎馬の群れと馳せ違う。二人の兵が馬から叩き落とされていた。
突然現れた二騎の騎馬の対応に馬を返す高野山の兵達、だが西から更に騎乗の者達が現れ、下馬すると次々に鉄砲を構えて撃ち始める。
高野山の追っ手はあっという間に蹴散らされ、一騎だけが逃げ去っていった。
最初の銃声、そして走る馬上から鉄砲を撃ち敵を仕留めた神業に近い技を二度もやってのける男。
この世でそれを成せる男を自分は一人だけ知っている。間違いはない。
「孫一」
土橋重治は対岸に向けてその名を思いっきり叫んだ。
かつて『雑賀の孫一』と呼ばれた鈴木孫一の名を、何度も叫んだ。
対岸の馬上で男が手の鉄砲を掲げて自分の声に応えるのが見える。
突然胸の奥から熱い何かが込み上げてきて、目から涙が溢れてきた。腕でそれを拭い、もう一度彼の名を叫んだ。
* *
助けたのは人相の悪い二人の男と男の様な姿をした女、それも少女だった。
「無事か」
馬上からかけた声に、三人はただ頷いて見せた。
「俺は鈴木孫一、雑賀ノ庄の土橋重治より加勢を頼まれた。その相手はお前達で間違いは無いか?」
たぶんそうだと男の一人が声に出した。
川の対岸から自分の名を叫ぶ声が聞こえた。
向こう岸で雑賀者らしき風体の男達が並んで手を振っている。その中の一人、不細工な顔から発せられるその響き、懐かしい声だと思った。
鈴木孫一は、手にした鉄砲を頭上で横に掲げてその声に応えて見せた。
土橋重治の使いとして土橋平次を名乗る若者が自分の元を訪れて来た時、鈴木孫一は貝塚の寺内町に潜伏していた。
織田家が自分を裏切り雑賀の地は焦土と化した。
神戸信孝との約定は、自身が雑賀の実権を掌握する事で雑賀侵攻を取り止めるというものだった。
雑賀を出奔して山中に潜みながら配下の者達を少しづつ呼び集めた。
狙うは神戸信孝の首、そう思い定めたが信孝はすぐに手の届く場所にはいない。
まずは雑賀を攻めている実質の将である蜂屋頼隆を討つべく岸和田城襲撃の機会を覗ったが、織田信長が京にて倒れた事で雑賀を占拠していた兵の全てが岸和田城へと戻ってしまい、蜂屋頼隆を討つ事は難しくなってしまった。何とか織田信長の死による混乱につけ込めないかと、そんな事だけを考えていた。
そんな時、土橋平次が自分に助けを求めて来た。
土橋重治を自分が助けるのは筋違いではと思ったが、「あの人の為に手を貸せ」というのが土橋重治の言葉だった。
彼がそう呼ぶのは唯一人、しかし蛍火は死んだのだ。
それでも自分はその言葉に動いた。心が動いたとしか今でも表現できない。
すぐに総勢八十人の配下の騎乗の者だけを率い、残りを息子の鈴木孫六に任せて根来寺の勢力圏である風吹峠を半ば強引に突破して駆け抜け、紀ノ川沿いを東へと進んだ。
途中先行した物見に騎馬の一団が来ると告げられ、やり過ごすために街道から逸れ丘へと寄ったが、その騎馬の群れが街道を外れて河原を逃げる三人に向かったのを確認した。
追われる三人の内の一人が女と気付いて馬腹を蹴っていた。
三人を助けたのは偶然であったが、それが土橋重治が助けを求めて来た理由だと知ったのはそのすぐ後の事だった。
土橋重治の手の者が近くの村で見つけてきた船を使い黒人をこちら側に渡すと、助けた娘が彼に飛びつき互いに笑顔を見せている。
彼女の顔には確かに蛍火の面影がある。彼女の双子の娘の一人という事なのだろう。あの重治が世話を焼くのも分かる気がする。
土橋重治は直接こちらに渡って来る事はせず、使者に用件だけ伝えてすでにこの地を去った様だ。
「後の事を頼む。儂は雑賀に戻り雑賀五組の代表として高野山に圧力をかける」
使いの者はそう申し、燕と弥助、そして高野山に捕われた竹中重治という三人の力になってやってくれという。
無責任な話だが、それが雑賀を救う事にもなるのだという。
どうやらその三人は京での織田信長襲撃の主犯を捜しているらしく、高野山の関与が疑われるのだという。これを明らかにせねば、織田信長を襲ったのは本願寺の残党と雑賀衆という事にもされかねず、もしその嘘が広がれば復讐に燃える織田家によって雑賀は今度こそ確実に滅びるというのである。
燕と弥助の微笑ましい再会の姿に水を差すような声が鈴木孫一の耳に入る。
「明智家家老溝尾茂朝様の手の者で石川五郎左衛門と申します」
「お前のその面、相当な悪だな」
燕と申す娘を助けた二人の男の内の一人がそう名乗った。
目を縁取るクマの様な線と眼光の輝きはおよそ常人には現れないものだと感じた。男は孫一に悪と呼ばれた事に平然と頷いて見せる。
「悪でございますな。悪事で国を治める手助けをさせて頂いております」
明智家中には頭の切れる者がいる様だ。国を治めるに裏の犯罪にまで目を光らせ統制しようと考える者はそうはいない。明智光秀の丹波国はよく治まっているのだろう。
しかし、明智の手の者がなぜいるのか、燕と申す娘とどんな関係があるのか。
「その娘の命を守れと我が主より命じられております」
「その理由は?」
「あの娘の目指す先に明智の敵もある。そう聞き及んでおります」
「詳しい話は後で聞く。とりあえずお前の事は何と呼べばいい?」
「ただ五郎とだけ」
「では五郎、そちらの手勢は何人だ?」
「五人でこの地へ入り二人を失いました。一人は連絡役として雑賀に残してあります」
「そうか、こちらは俺を含めて五十人、あと三十ばかりは遅れて来る。皆腕は立つから人数の三倍の戦力と思ってもらっていい」
「上流の船渡しには高野山の兵約二百がおりました。周囲の砦を含めると一万近い数の敵がいるようです」
「多いな、ともかくここに留まるのは危険だ。どこか身を隠す場所はないか?」
「根来寺へ、私の古い知り人がそこにおられるはずです。使者として我らが先に走りましょう」
根来寺、高野山を敵とするならそこに身を寄せるのは悪くない。
元々高野山内での対立によって山を追われた者達が開いたのが根来寺である。その関係は昔より改善されたとはいえ、今もその確執は根強く残っている。
「そっちじゃない孫一、敵は向こうだ。重矩の命が危うい」
紀ノ川下流となる西へと向きを変えた自分達に燕が言う。
「雑賀の土橋重治はお前達を雑賀が高野山へと送った使者という事にした。
それが不当な扱いを受けたと申し入れるはずだ。その竹中重矩とやらもすぐには殺されぬさ」
「重矩は大丈夫なのだな」
「今暫くはという意味だ。このまま進めば我らも危うい。一度体勢を立て直す」
燕は頷いては見せたが、途中何度も後ろを振り返っていた。
狭隘な紀ノ川流域を一気に下り穀倉地の広がる打田へと駒を進めた。かつての国分寺も今や根来寺の末寺、つまりこの辺り一帯はすでに根来寺の勢力圏。
朽ちた国分寺の七重の塔を燕が指差しあれが根来寺かと尋ねた。
「そこはこの日ノ本が一つの国だった頃の名残り、根来寺は右手の山一帯全てがそうだ」
孫一の指し示す右手の山の緑の間に幾つもの建築物や塔が頭を覗かせている。
黒人と共に馬に乗る燕が目を細め遠くを見る横顔を、孫一は懐かしげに見つめていた。自分の視線に気付いた燕が目を向けた。
思わず空を見上げて鈴木孫一は未練だなと苦笑した。
「日ノ本が一つの国だった。戦の無い幸せな世があったのだな。何で今は国が分かれて戦が絶えぬ世になってしまったのだろう」
民を幸福にするより税を搾り取る方法ばかりを考え、その富を中央の権力者が奪い合う。国の為民の為に働く者より私服を肥やし、富を我欲で浪費する者が増えすぎて滅びた。
太平の世が壊れる理由などそんなものだ。それを燕に対して自慢げに口にせず鈴木孫一は一言でかたづけた。
「さあな。昔の事など俺にはどうでもいい」
「孫一は冷たいのだな」
「戦の無い世なんてのが来ちまったら。俺達ゃ生きていけねえぞ」
雑賀者の一人が声を上げた。鈴木孫一が笑いながら言う。
「こいつらは日々の暮らしでは生きる実感が持てず、戦場に身を置くという生き方を選んだ大馬鹿者の集まりだからな」
「難しいのだな」
燕の物言いに周囲から笑い声がいくつも上がった。
* *
輜重を含めた後続の三十騎が根来寺の僧兵共に道を遮られて往生していると孫六から報告が届いたのはそれから間もなくの事だった。
鈴木孫一は五騎のみを率いて馬を急ぎ駆けさせた。
孫六率いる後続とは根来寺の大門前で発見した。その進路を五十人程の僧兵達が塞いでいる。
幼さの残る声、馬上の鈴木孫六が自分の名を大声で叫んだ。僧兵達が一斉にこちらへ視線を向ける。
「鈴木孫一だ。この騒ぎは一体何事か」
かつて織田軍を撃ち破った雑賀の大将、本願寺顕如の手によって広められたその風聞は今も生きている。僧兵達が気押され後退るのが見えた。
「こいつら俺達の馬も荷も置いて行けと言うんだ。出来ぬなら銭を寄越せと」
そう聞いて鈴木孫一は僧兵達が本気でそう言っているのではないこ事に気付いた。余所の者が我が物顔で根来寺の領内を駆け抜けた。
気持ちが収まらずちょっかいを出したと、そういう事なのだ。
孫六が頭を下げ許しを請えばそれで彼等も納得して去ったに違いない。それをこの未熟な若者に求めるのは酷だろう。
下馬して僧兵達の面前で頭を下げて見せた鈴木孫一の姿に、僧兵達の方が戸惑いの表情を見せ、三人四人と散っていき姿を消していった。
「天下の雑賀孫一が、あんな奴等に軽々しく頭を下げるのか」
孫六が馬上から自分を見下ろし不機嫌そうに言う。
「元々非は我らの方にあるのだ。お前が頭を下げていればそれで事は済んだ」
「俺は何も悪い事はしていない」
「だから俺が詫びた。それだけの事だ」
孫六と三十騎にはこの場に留まり本隊と合流せよと伝えた。
鈴木孫一が根来寺の大門前に現れた事はすぐに根来寺の院主達にも伝わり、程なく先行した五郎達が根来寺の使者を伴って現れたのである。
使者は鈴木孫一一党の入山は認ぬが、門前町坂本での自由は許すと伝え来た。本隊到着までの時を使い、鈴木孫一は五郎の知人の元へ向かうと決めた。
大門からそう遠くない谷間に小さな村が見えた。
田畑も無い荒れた家屋が十程建ち並ぶ場所、その村の広場で二十人程の男達が戦支度の姿で馬に荷を乗せている。
中央に立つ中年の男に向けて五郎が親父と声を掛けた。
「親父、こちらの方々に休める場所を提供して欲しいんだ」
「わざわざ断りなどいらぬ。勝手にくつろげばいい」
「私は鈴木孫一と申します。場所を借りるに少しばかり人数が多い。八十名の人間を休ませて貰えるか?」
「儂は百地三太夫、しかし雑賀の孫一殿か。五郎よ、お前はえらいお人を連れて来たな」
「三太夫殿は織田軍と戦って死んだと聞いておりましたが」
「百地丹波、祖父が身代わりとなって死んだのだ。儂に一族の再興を託してな」
伊賀国も雑賀同様に大名の支配から脱した国であった。
雑賀者が鉄砲ならば伊賀者は間諜の腕を売る生業の者を数多く生んだ地。数年前に伊賀国は織田家に侵攻された。
その時に三百人近い人々を率いて百地三太夫は根来寺を頼り落ち延びたという。その人々の大半はすでに根来寺の民として暮らしている。
そして百地三太夫は五郎についても語り出した。
「そこの五郎は元々侍の家の子。だが何を狂ったか家を飛び出し今日で悪さをして伊賀国へと逃げ込んで来たのさ。野垂れ死ぬ所を儂の女房が見つけて命を救ったのだ」
「そうです。しばらくの間伊賀の里に住んでおりました。そこで親父達に仕込まれました」
「五郎には目をかけ里に留め置こうとしたが女房はそれを拒んだ。男には成すべき事がある。里のような山奥に閉じ込めず外へと出すべきだとな」
「ある朝突然里を出るようにと告げられました。二度と帰ってきてはならぬと」
「儂等も望んでそうしたわけではない」
その言葉に五郎は俯いた。昔話を語る百地三太夫の目はどこか優しげだった。
「女房は信心深い女、五郎は悪さばかりして生きてきた。そういう生き方しか知らぬに違いない。そのままでは地獄に墜ちると申してな、世で悪と呼ばれる場所でこそ出来る善行もあるはず。ただの悪人では無く心ある悪であれといつも言い聞かせていた」
鈴木孫一は百地三太夫に高野山、紀ノ川北岸に陣を構える軍について尋ねた。
分かったのはその地の織田軍を破ったのは橋口隼人という人物で、彼は織田軍から奪った脊山城にいるという事だった。
燕の連れの竹中重矩もそこに捕われているに違いない。
伊賀者達が出発の準備が整ったと百地三太夫に伝える。
「親父、何処かへ行くのか?」
「織田信長が倒れたと聞いた。ならばしばらく世は乱れよう。儂はこれから皆と伊賀の里へと戻る。ここには誰も残らぬから後は好きに使うとよい」
出発していく伊賀者達を見送る鈴木孫一と五郎の二人に、百地三太夫が馬上から大きく手を挙げた。
「親父達には恩を受けました。生きる技と一時のやすらぎ、人の暮らしを」
「このまま行かせてよいのか?」
「今生の別れは既に済ませました。今日会えたのはきっと神様の計らいでしょう」
既に伊賀国に彼等の土地は無い。
土地は既に民に再分配され、織田の支配が民にとって幸福であるなら戻ったところでなぜ生きていた。なぜ今更戻ったと民からも敵視される事になるだろう。
反乱を起こすと言った百地三太夫の表情にそれを感じさせるものは無かった。
この地へと逃れた民への責任を果たし、あとは愛する者達の眠る地で果てたい。そう考えている様に思えてならなかった。
小さくなる百地三太夫の姿を、五郎はただじっと見つめていた。
お気づきの方もおられると思いますが、五郎こと石川五郎左衛門は大泥棒石川五右衛門の事ですね。
彼の拠点は京の北の山奥。明智家と関係があったのではとしてみました。
彼は後に大阪城の金のシャチホコを盗もうとして捕えられたという話がありますが、秀吉の一つの謎として、莫大な財をどこから手に入れたのかというのがあります。
大阪城のシャチホコは安土城の宝物庫にあったものと言われ、それが証明できれば羽柴が織田家の財を盗んだ証拠にもなります。
もしそれを突き止めるための行動であったとしたなら、なんて考えると面白いじゃないですか。
そんな気持ちで五郎という存在をこの小説では登場させています。




