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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月十一日
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黒田官兵衛

 高山重友たかやましげともの軍一千を先導役にして黒田官兵衛孝高くろだかんべいよしたか率いる二千の軍は、山崎村そして天王山を目指した。

 後続の池田恒興いけだつねおきは摂津衆の高山重友、中川清秀なかがわきよひで軍の兵糧も運んでいるためその行軍速度は遅い。


 当初の予定より二日早い進軍である。

 本来ならば羽柴秀長はしばひでなが率いる姫路城からの羽柴軍本隊の到着を待ち、全軍を挙げて明智光秀との決戦に挑む腹づもりだったが、抜け駆けして天王山に陣を置いた中川清秀の行動によってその足並みは大きく乱れることになった。

 だが、山崎村と天王山を押さえる事は、狭隘の地となる山崎に於いては重要な地であり、中川軍が明智軍によって駆逐される前に兵を送る必要性が生まれたのだ。

 

 黒田軍の後列には天王山の峰を全軍の指揮所とすべく黄母衣衆の神子田正治みこだまさはるが陣太鼓や法螺貝などを装備した二百の手勢を率い随伴している。


 黒田軍の先頭を行く母里友信もりとものぶが騎馬を止め進軍する兵達を叱咤する。

 その顔に笑いかけたが、まだ表情が上手く作れない。

 摂津国での荒木村重の反乱の際に有岡城に一年もの間幽閉されていた生活は、黒田孝高の片足だけでなく体の至る所を不遇にし、それは今も回復していない。


 天正六年十月に起こった荒木村重の反乱。

 当時の黒田孝高の主君であった小寺政職こでらまさもとも織田家を離れてそれに加担し、軽挙を諫めた孝高に荒木村重殿を説き伏せ織田家に帰属させる事が出来たなら、儂もそれに従うと言ったのである。


 その条件を果たすべく黒田孝高は荒木村重の籠もる有岡城へと赴いたのであるが、すぐに城中にて捕縛され、自身の殺害を命じたのは主小寺政職であると伝えられたのである。

 主に裏切られたことを哀れに思われたのか、黒田孝高は命は取られず地下牢にて幽閉の身となった。荒木家の加藤重徳かとうしげのりの配慮で何とか命を繋ぎ、一年後の有岡城落城の混乱に際して黒田家家臣栗山利安(くりやまとしやす)によって救出されたのである。


 戸板に乗せられて運ばれていく死人の様な姿の自分の横を、騎馬に跨がり通り過ぎていく織田信長の姿を自分は今も覚えている。

 後に羽柴秀吉より織田信長公は自分の身を案じて涙した等という話を聞かされたが、その言葉は自分の心には届きはしなかった。

 織田信長は自分が有岡城へ入って戻らぬと知ると、寝返ったと見て黒田家の嫡男松寿丸(しょうじゅまる)(後の黒田長政くろだながまさ)を見せしめに殺せと命じていたのだ。

 結果として松寿丸は殺されてはいなかったが、それは羽柴秀吉の与力であった竹中重治たけなかしげはるの手により密かに匿われていたからであり、羽柴秀吉によって救われた訳では無い。

 その男は信長の飼い犬の如く忠実にそれを実行し、替え玉ではあったが事実名も知らぬ幼子が一人羽柴秀吉の手で殺され、松寿丸の首として織田信長に献上されている。


 竹中重治に感謝の気持ちは伝えられなかった。

 黒田孝高が有岡城より生還した時すでに竹中重治は陣没していた。長年の病が悪化したのだという。竹中重治には大きな借りが出来てしまった。

 そしてその恩を忘れじと黒田家の旗印には竹中重治が用いた黒餅の紋も掲げると決めたのである。

 

 羽柴秀吉に対する忠義心など自分には微塵もありはしない。そして織田信長に至っては言うまでもなきこと。自分が尽くすほどにその主達は決して報いてはくれない。

 黒田孝高に反骨の目が生まれたのは松寿丸の一件が直接的な原因ではなく、竹中重治亡き後の竹中家に対する織田家の処遇を知ったからであった。

 まさに使い捨て、そこに自分の、黒田家の未来を見た気がした。


 拾った命、これからは自分の道を生きると誓った。そしてそれこそが裏切り者の家来と罵られてきた黒田家家臣達に報いる事になるだろうとも。

 時をかけ少しづつで良い、自分が大きくなるのだ。

 いずれは羽柴秀吉、そして織田信長を超えるほどに。


 しかしこれ程早く時が訪れるとは、織田信長だけでなく織田信忠おだのぶただも倒れた事により、織田家中での羽柴秀吉の力の拡大という黒田孝高の描いていた当初の目的は、今や羽柴秀吉を天下人へと押し上げる野望へと一気に膨れ上がっていた。

 結局の所、自分は織田信長亡き世というきっかけを羽柴秀吉に与えたに過ぎない。否、それを与えたのは高野山そして教如きょうにょ、いや橋口隼人はしぐちはやとと言うべきか。

 それは引き返せぬほどに大きな波となって織田家に襲いかかろうとしている。


          *          *


 黒田孝高は天王山退去の命を伝令に持たせて中川清秀の元へと送り出した。中川軍の陣の様子を詳細に調べよと言い含めてである。


 中川清秀の天王山占拠は我が軍に利する為では無く、明智と羽柴の戦の帰趨を高みの見物をしながら見極め、有利な方に加勢する腹づもりなのは間違いない。

 奴には既にその前例があるからである。

 中川清秀欠席の軍議の席で摂津衆の二人、中川清秀と高山重友には我が軍先陣の誉れを与えてある。

 その表向きの栄誉とは異なり、実際には明智軍と真っ先に戦わせる事で寝返りを防ぐという意味を持つ踏み絵でもあった。

 そして天王山は全軍の指揮所としてこの黒田隊が布陣すると決まっている。

 そんな訳で、中川清秀は早急に天王山から追い出さねばならない。

 

 黒田家の家臣達には中川清秀攻撃の意思はすでに伝えてある。黒田孝高は更に進軍速度を速めよと全軍に命じ、その速度にはついて行けぬと不満を漏らす池田恒興のなだめ役と称して口うるさい神子田正治にも消えて貰った。


「天王山の中川清秀、退去の命に従いませぬ」

 伝令の報告は黒田孝高の想定通りであった。それどころか伝者を通じて中川清秀は天王山の陣に兵糧を運び込めと催促までしてきたのである。

 黒田孝高はそれを了承したと嘘の伝令を再度中川清秀の元へと送り出した。中川清秀の手持ち兵糧は三日分、今日それは尽きるはずである。


 黒田軍が天王山を視界に捉えるほ程まで近づいた頃、山頂から多くの炊煙が上がっているのが見えた。

「殿、あやつら兵糧が届くと思い手持ちを食い尽くしましたな」

 母里友信と後藤基次ごとうともつぐの二人が大笑いしている。この二人に黒田孝高は中川清秀の攻撃を命じている。

 後藤基次はまだ家臣に加えていない新参者で、栗山利安が見所ある男と何処かから連れてきた男である。 

 中川清秀は明智軍と戦って貰わねばならぬ貴重な戦力。

 この攻撃は脅かして山から叩き出す程度の加減が必要であり、母里友信であればその加減を心得ている。後藤基次の将としての器を見るにも良い機会。


 兵糧の運搬と偽り母里と後藤の隊は中川清秀の陣へと接近し、一気に攻撃をかけた。味方からの突然の攻撃を受けて中川軍は大混乱に陥り、そのまま真下の山崎村方面へとまさに落ちていった。

 この攻撃で打ち倒された者は多いだろうが、刃傷での死者は出ていないはずである。死んだ者がいたとすれば運が無かったと言うしかない。


 占拠した天王山に黒田孝高の軍が陣を造り始めると、奥まった場所にある廃砦跡から資材を持ち出すなと神子田正治が悪態を付いてきた。

 なぜそんな奥地に彼が居座るのかは容易に想像出来た。

 砦の中には雨露を凌げる木造の建物がいくつか残っている。

 戦場に於いては優先的に武器兵糧を置くのに使わなければならないが、彼は地面に寝ることを嫌いそこを自身の寝床としたのだ。

 あの羽柴秀吉でさえ、陣の場所によってはそのまま地面に転がって寝るのに、この男はなぜか自身の体の汚れを極端に嫌うのである。

 それに羽柴秀吉の馬廻りの黄母衣衆であるという特別な思いがあるのか、神子田隊だけは陣太鼓を設置した後は武器兵糧を山頂に運び込み陣構築に忙しく動く黒田の兵達の中で、ただ突っ立っているという有様である。

 それが兵の目に止まれば士気にも影響するので、黒田孝高は、彼等に周辺の物見の任を与える事とした。

 戦場での物見は軍功帳に記される程の手柄であるが、その任も神子田正治は自身で行おうとはせず、配下の者十名程に山を下らせその報告を受けただけであった。


          *          *


 陣幕の中へと栗山利安が摂津衆が取り決め通りの布陣をしておらぬと報告に来た。どうやら中川清秀が山崎村に居座り、遅れてようやく到着した池田恒興の軍が村を兵糧置き場とする為に山崎村に入ろうとしたのを拒み、一悶着起きたというのである。

 池田恒興は山崎村へ入るを諦め、中川軍の為に引いてきた兵糧も全部持ったまま山崎の地の右翼側へと勝手に移動していったのである。

 黒田陣内に「静まれ」の声が響き、それが口々に伝えられていく。

 黒田孝高も耳に違和感を覚え陣幕から飛び出した。

 耳を澄ますと甲高い女の叫びや、群衆の悲鳴が山崎村の方角から聞こえてくる。


 羽柴秀吉に盾突く事になる為に黒田孝高に対して文句も言えぬ中川清秀の腹いせは、池田恒興へと向い、中川清秀が山崎村の門を閉じた事で今度は池田恒興が激怒し「お前達には米の一粒もやらぬ」と向きを変えてしまった。

 明日以降の兵糧を手に入れねばならなくなった中川清秀は、山崎村での略取に踏み切ったのである。そしてこれに反発した山崎村の人々二百名が武装して抵抗を始めたというのが実態であった。


「やむを得ん。高山重友に伝令。中川清秀と共に山崎村の一揆を即座に鎮圧せよ」

 明智軍との戦を前に中川清秀の軍令違反の乱取りを今は裁けぬ。

 黒田孝高は山崎村の方を鎮圧するようにと命じ、この無様な様に憤りを覚えながらも陣幕内へと戻って行った。

 この騒動は神子田正治により羽柴秀吉へと伝えられたが、その内容は更に山崎村へと進出してきた明智軍一千を退け多くを討取ったと修正され総大将織田信孝(おだのぶたか)へと報告された。


          *          *


 翌六月十ニ日、空が白み始めるとすぐに夜が明けた。

 天王山の北東、黒田孝高の見つめる先には整然と布陣を整えた明智軍の威容が広がっていた。

 

 眼下を流れる円明寺川に沿って明智軍は布陣し、山崎村を貫くように走る街道は途中二つに分岐してそれぞれが円明寺川に架かる橋を通り京へと至るのであるが、その一つを明智軍は落とし残った西側の一本のみを明智軍右翼が守っている。

 右翼に四千、左翼に四千、中央に六千、その後方の小山にある巨大な砦にもかなりの数の兵がいる。

 砦周辺を動く小さな点の動きの速さは騎馬武者、騎馬武者の小隊数個が警備する陣、その砦が明智光秀の本陣という事になる。

 明智光秀の本陣兵力を四千と見れば眼下には二万に達する兵力が展開している。

 軍議の席での想定通りであるとはいえ、正直その数には驚きを覚える。


 まず第一に兵糧の確保、織田領内には織田信長の命により摂津国の池田恒興の兵站庫に大量の兵糧を供出させている為、どの城も大軍を養える兵糧を持ってはいない。唯一の例外が安土城だけであり、まずそこを押えた点。

 第二に筒井順慶つついじゅんけい長岡藤孝ながおかふじたかの援兵も無く、更には東からの脅威にも備えているはずなのである。

 それでなお丹波国出立時の兵力が欠けるどころか兵力を増してこの地に軍勢を揃えてきているのである。織田信長公の最も信頼厚き軍、黒田孝高をしてもさすがは明智光秀という他にはない。


 どちらともが譲れぬ戦。

「激しい戦いになるぞ。備えよ」

 明智軍の威容を眺める家臣達を前に黒田孝高は、短くも重いその言葉を伝えた。

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