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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月十一日
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勝龍寺城にて

 六月十日の夜の内に洞ヶ峠の陣を払い、山崎の地に布陣する斉藤利三さいとうとしみつとの合流を果たすため、明智軍は京の西にある勝龍寺城を目指した。

 斉藤利三からの最初の伝令が羽柴軍の先鋒と接敵すと伝え来たのは明智光秀が京の南、淀城を通過中の時であった。

 この報告に明智光秀は羽柴秀吉に先手を取られたかと舌打ちした。

 

 すでに羽柴軍が山崎の地に到着し斉藤利三との戦が始まっていれば、こちらにとって圧倒的に不利な状況での開戦となる。

 しかし、時を経ずして届けられた第二報は詳細で、それによると羽柴軍の先鋒と称したは誤報、一千程の独立した一軍が天王山に配していた明智の物見を追い散らしたのみで、羽柴軍の姿は未だ見られずというものであった。

 斉藤利三の率いる兵力は勝龍寺城の城兵まで含めれば六千、彼が天王山の兵力を邪魔と判断すればすぐに排除する事は可能である。

 その事に触れていないのは天王山を羽柴軍に取らせるのが斉藤利三の策の一つという事なのだろう。


 当初の予定通り六月十一日の夕刻までには遅滞なく明智軍本隊は勝龍寺城へと到着し、明智光秀はすぐに軍議を招集した。

 狭隘の地である山崎の地形に於いて、天王山と山崎村を押さえる事は有利に戦をする上での常道。その天王山を羽柴軍に奪われたと知り、明智家の将達にも動揺が見て取れる。

「天王山は捨てます」

 斉藤利三は中央に広げた山崎の地の絵図を指し示し開口一番にそう申したのである。


 羽柴軍の総兵力は三万強、対する我らは勝龍寺城守備隊を入れて一万六千、天王山と山崎村を結ぶ線に強固な防御陣を敷いてしまえば、羽柴軍は数の利を活かして別働隊による丹波国攻めや南から京を突く事も考えられ、そうなった場合にこちらには割く兵力が無く対処出来なくなる為、天王山を放棄する事で、羽柴軍有利を印象づけた形で羽柴軍の全てをここ山崎の地に集めねばならぬのだと語った。


 斉藤利三の布陣を見るに、南から押し寄せる羽柴軍に山崎の地を渡し、そのすぐ北を流れる円明寺川を天然の堀として明智軍は北側に布陣する。

 円明寺側のすぐ後ろには現在巨大な御坊塚砦を築きつつあり、ここを本陣としてまず対峙し、羽柴軍に強烈な一撃を加えて戦線を押し上げ、前線を第一の備え、円明寺川と御坊塚砦を第二の備え、勝龍寺城を第三の備えとして羽柴軍との戦いを膠着状態にして時間を稼ぐというのが斉藤利三の立案した大まかな策であった。

 羽柴軍に痛撃を与える策について彼はこの場で述べなかったが、この軍議に参加していない明智の二将、並河易家なみかわやすいえ松田政近まつだまさちかが関係しているのだろう。


 天王山を捨てることが策であるとした事で諸将の動揺は抑えられたが、軍議を散会させ各将が布陣の為に動く中、明智光秀は先程の軍議について斉藤利三に思うところを述べてみた。

「策が当たれば上々、それでようやく四分六分といったところかな」

「はい、かなり際どい戦になると思います」


 先程の軍議の席では自信満々に語っていた斉藤利三も我が軍不利をあっさりと認めた。溝尾茂朝みぞおしげとも藤田行政ふじたゆきまさも合点がいかぬと説明を求めてくる。


「古の戦のように直属の家臣団同士の戦であれば、我らは全ての敵を打ち破れます。ですが戦の規模が大きくなるとそこに大量の徴収兵が入る。明智も羽柴も軍の大半はその徴収兵が占める為、兵の質は拮抗し数の多い方が有利になるのですよ」


「その為の利三殿の策ではないのか?」

「今回の策は奇襲による敵の混乱に乗じて敵を叩けるだけ叩くというもの。殿の申す様に四分六分に持ち込めれば上々という所です。私としては五分五分にまでは持ち込みたいのですがね」


「つまり利三の策が当たってぎりぎり五分か、もしその策が敗れたら」

「それは考えない方がいいでしょう」

 平然と答える斉藤利三に溝尾茂朝が渋い顔をしてみせる。

「我らがこの地で耐えねば丹波国や京にも被害が及び、羽柴秀吉の力も急増する。羽柴秀吉が大きくなると柴田勝家殿を迎えても抑えきれなくなるかもしれぬ。ここが踏ん張りどころということです」


 そこまで言い、斉藤利三が自分に問うて来た。

「殿ならば此度の羽柴との戦、どのように羽柴軍を迎え撃ちますか?」


「布陣はこのまま、羽柴軍本隊の到着と同時に勝龍寺城まで後退、城を背に全軍で野戦の構えを取る」

「今より更に敵を引き込むという事ですか」


「そうだ。この地を知る者はまず天王山と口にし、その地には強力な精鋭が配される。勝龍寺城まで敵を引き込めば天王山の精鋭が無力化し、更に城に寄るこちらとは違い、羽柴軍は円明寺川を背にした状態での対峙となる」


 天王山にこだわるな。

 それが明智光秀自身が行軍の最中に思い描いた羽柴との戦であった。

 羽柴軍がそれを不利と見れば距離を置いての対峙となり膠着する。あとは朝廷を介しての和議にて収める。

「甘いかな私は、羽柴秀吉は味方であって欲しいという思いがまだあるようだ」

「殿らしい采配だと思います」


「私の構えは機に応ずる流動的なもの、城を用いて縦横に動けるのが特徴だが、利三の指摘した別働隊による各地への攻撃には対処出来なくなる。まず大きな一撃を与えた後に対峙する利三の策の方が先を見ていると思った」


 丁度そこへ二つの知らせがもたらされた。

 一つは河内国の三箇頼照さんかよりてるより大阪の軍六千が羽柴軍に合流すべく移動したというもの、三箇頼照の兵力増強は間に合わず、押えるべき軍が消えた事で如何にすべきかを問うて来ている。

 もう一つは大和国の筒井順慶つついじゅんけいの意識が戻り、援軍として島清興しまきよおき(島左近)を将とした二千の軍を送り出したというもの。

 この二つの軍をどう使うかを改めてその場で話し合った。そして三箇頼照に船を集めさせ、筒井軍と共に羽柴軍の後方地に上陸しての攪乱が有効だろうとの結論に至った。

 淀川流域の上陸場所はこちらの主導で神出鬼没に行える。これに対するに羽柴軍はかなりの数を後方地に割かねばならなくなるはずである。


 二軍についての協議の間に姿を消していた溝尾茂朝が、更に紀州国からの情報が届いたと告げに来た。使者に送った者の帰還よりも早く情報を得るとは、その方法として溝尾茂朝の手の者が鳥を使った手段で文を届け来たのだという。

 溝尾茂朝が手にした小さな紙を広げて読み上げる。

「京本能寺、一向宗残党、高野山」

 僅か三つの事柄ながら、その意味をその場の全員が理解した。

「この一連の騒動の背後に高野山の存在」

「本願寺一向宗の残党が南へと落ち延び高野山の兵となったという事か。織田と高野山は戦の最中、京での襲撃は高野山による起死回生の一撃と考えれば辻褄が合いますな」

「儂等は何をやっている。明智と羽柴の戦など無意味ではないか」


「藤田殿、羽柴秀吉の動きは速すぎるのだ。高野山に信長公の入京日時を伝えたのが秀吉ならば、高野山と羽柴秀吉、その二つの勢力が結託して行った事になる。我らはまず眼前の羽柴秀吉に力を尽くすべきです」


「たった三人でだぞ。つばめ弥助やすけ竹中重矩たけなかしげのり殿の三人だけが今まさに本当の敵に戦いを挑んでいる。それを遠くで座して見ておらねばならぬとは、何とも不甲斐ないではないか」

 

「伝五、すぐに使者を島清興殿の元へと出し、筒井軍全軍を以て高野山を攻めよと伝えよ」

「殿はあの三人を助けるために筒井軍を動かすというのですか?」


「羽柴秀吉との開戦から五日を目安に朝廷が和議に向けて動き出す。柴田勝家殿も必ず来る。時をかける程に我らは有利になっていくが、高野山はそれらを全て妨害してくるやもしれぬ。筒井軍によって高野山の足元に火をつけ、こちらの事に目を向けさせぬ一手が必要だと思う」


 明智光秀の命を受け、藤田行政が急ぎその場を出て行く。

 明智光秀は板壁を背にしてそのまま目を閉じた。溝尾茂朝と斉藤利三の退出していく足音を感じた。二人とも退出したと思ったが、まだ側に人の気配を感じた。

 無言のままそこに座す斉藤利三の姿があった。


「殿、申し上げねばならぬ事があります。もし私がこの戦に敗れたならば、明智軍の主力は崩壊します。此度の戦はそういうものです。その時殿には南へと落ち延びて頂きます」

「丹波国亀山城にて羽柴軍を食い止める。それが国を治める大名としての務めであろう。その責を放棄せよというのか?」


「丹後国に軍を再編する余力はありませぬ。ですから坂本城は秀満殿、亀山城は妻木殿に任せ、殿は南にて筒井、雑賀、三箇などの勢力を糾合する旗頭となるべきです。これは明智光秀の名でなければ不可能。その軍勢で羽柴軍に抗するしかありませぬ」

  

 そこに斉藤利三の名が無いのは決戦に敗れたその時は死ぬ覚悟だからだろう。

 彼は山崎の地にて敗れた後の最後の一手を自分に語ったのだ。

 そして自分に丹波国と坂本の地を羽柴軍が蹂躙する時を使いその背後に一大勢力を作り、柴田勝家と連合し羽柴秀吉を討てと言っている。


「これは軍命です」

 そう言い残し、明智光秀の返事を待たずに斉藤利三は退出していった。その事をもう一度思案しようと明智光秀はもう一度目を閉じた。



 慌ただしい足音が明智光秀を目覚めさせた。いつの間にか眠っていた。

 届けられたのは安土城の明智秀満あけちひでみつよりの書簡。伝者に口頭で伝えぬのは口外出来ぬ極秘事項と考えてよい。

 燭台を引き寄せその短い文面に目を通した。


 織田信長公死す。

 その葬送についてなべの方からの願いが記されていた。

 今、一代の英傑が世を去った。織田信長は本来なら織田に残されし全ての者達の手により盛大に葬られるべき存在。しかしそれが叶わぬのならば、せめて縁深き者達の願いで送られるべきなのだ。

「明智秀満に許可すると伝えよ」


 安土城からの伝者にはその様に伝えた。

 安土城を発つ時に主君織田信長との別れは済ませた。もう振り返らないと誓ったが、そんな思いとは裏腹にこの体は床に崩れ落ちる。

 自分の夢を賭けた男が遂に世を去った。これが本当の別れとなったのだ。

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