暗雲
安土城内は完全武装の兵達が行き交い戦陣の様相を呈しているとはいえ、兵達の顔は穏やかな表情をしている。ここ安土城に戦の気配はない。兵達もそれを感じているのだろう。
明智秀満は大手道の長い石段を登り切ると、額の汗を拭った。
明智光秀率いる明智軍本隊が安土城を出てから四日、近江国の状況は平穏そのものである。
明智秀満が命じられたのは主に二つの事、一つは当然安土城を守ること。そしてもう一つは近隣諸国から安土城を目指す軍の動きに目を光らせる事である。
美濃東部で発生した一揆は収まる気配を見せず、岐阜城を占拠した斉藤利尭は沈黙を続けている。
やはり安土城に直接関わる動きを見せているのは伊勢国の北畠信意の軍のみである。
その北畠軍は六月八日にその先陣が土山に陣を敷き蒲生家の日野城に開城を迫るも、蒲生賢秀は頑なに中立の姿勢を崩さず、かつ開城も拒否し続けている。
北畠信意のこの行為は安土城を攻める際に日野城に背後を突かれる事を恐れての事だろうが、どうにも不可解なのが日野城に圧力をかけるには本隊の位置があまりにも離れすぎているのである。
京での織田信長公襲撃より一週間も経過しているのに、羽柴秀吉と柴田勝家の二人を除く織田家の諸将や各地の城主達から詰問の使者が誰一人安土城へと到着していない事に明智秀満は憤りを隠せない。
織田の正規の伝令が走ったとはいえ織田信長公が倒れた等という情報をああそうですかとすぐに信じてしまえるものだろうか、分別ある者ならば事の真偽を我ら明智に問い質すため、安土城の物見を兼ねた使者を送って来るはずである。
そう予想して殿からもその対応を教授されたにも関わらず、未だ唯の一人としてここ安土城を訪ね来る者はいない。
なぜ誰も使者を送っては来ないのか?
東国の諸将は美濃国の岐阜城や尾張国の清洲城まではすでに辿り着き、そこで得られた明智謀反の情報をそのまま主の元へと持ち帰ったのではないかと思えてならない。
岐阜城の斉藤利尭も美濃国や尾張国へと逃げ帰った織田家譜代衆も、明智謀反という事にせねば自身の行為を正当化出来ないからだ。
まあ良い。柴田勝家殿が安土城に入り、殿と手を結んだ暁には彼等はそれ相応の報いを受ける事になるだろう。
* *
明智秀満が本丸への階段を踏み出そうとした時、荒い息づかいで石段を駆け上がって来る伝令の兵に呼び止められた。
「徳川家の酒井忠次様が参られました」
「酒井忠次の使者が参ったのか?」
「酒井忠次様御本人にございます」
酒井忠次といえば徳川家の古参の重臣である。しかも、まさか徳川家からの使者とは。
酒井忠次はすでに人が消え火災の跡の残る城下町をすでに見て来たはずである。
安土城の様子を探りに来た彼にこの上本丸の流血の跡や全焼した屋敷などを見せる訳にはいかない。どのように弁解しようとも、それは明智謀反を裏付ける証拠と取られかねないからだ。
結果、二ノ丸の屋敷にて明智秀満は酒井忠次を出迎える事とした。
酒井忠次の使者としての口上は、明智秀満の想定していた明智謀反に対する詰問ではなく、それは既に起きた事実として捉えられている様であった。
「徳川家は今尾張に軍を進めており、これは清洲城城代からの援軍要請を受けての事、此度の出兵で我らは明智家と争う腹づもりが無いことをお伝えに参りました」
「それは何に対しての援軍要請であったのですか?」
「清洲城の開城を迫る伊勢国の北畠信意に対する援兵として派遣されました。一軍と申しても北畠軍八千に対して我らは一千程、我らに手出しすれば徳川との戦になるぞと言う脅しのようなものでしょうか」
「しかしなぜそう決断されたのでしょう?」
「我が殿徳川家康は、織田信長公が亡くなられた時堺におりましてな、伊賀国を越え伊勢国を抜けて三河国の所領にまで戻りました。その際に警護して下さったのが長谷川竹殿を初めとする織田信忠様の馬廻りの者達でした。
清洲城城代の長谷川可竹殿は長谷川竹殿のお父上、更に清洲城には織田信忠様の嫡男もおられると聞き、我が殿は尾張出兵を決断したのです」
彼の言葉で明智秀満が感じていた北畠軍に対する違和感、その理由が解けた。
北畠信意は謀反人明智を討つという姿勢を見せながら、その実尾張国を我が物にしようと狙っていたのである。
「もし北畠軍が我らに戦を挑んだ場合、我らは尻尾を巻いて逃げる事になるでしょう。此度の出兵は同盟国織田家が内紛に発展せぬようにとの配慮ですから。
それに今の徳川家は東の事で手一杯というのが現状でしてな、明智の方々とは後日改めて雌雄を決することになるかもしれませぬな」
「東ですか」
「北条と上杉、それと旧武田の家臣共が東国の織田領を荒そうとしています。
旧武田領の甲斐国、信濃国の国盗りには徳川家も多くの血を流してきました。その二国は同盟国の織田家が治めるから徳川家は黙って明け渡したのです。他国の者共に渡すわけにはいきませぬ」
「それは甲斐国と信濃国を徳川のものとするという事ですか?」
「あくまで織田家の混乱が収まるまでの一時的な処置だと考えています。この機に旧武田家の者達を蜂起させ二国を徳川家のものにと進言した武田家の旧臣穴山信君を我が殿は処断致しました」
「徳川家はあくまで織田家に対する義理を果たすということですか」
「今の所は、と申し上げておきましょう」
つまり織田家の盾となって東の敵を防ぐ徳川家に対して、織田家が今後どの様な対応を取るかで今後の関係を考えるという事なのだろう。
「徳川家、いや酒井殿は此度の明智の行動をどの様に見ておられますか?」
「我が殿の言葉をそのまま借りるならば、解せぬ。なぜ今謀反なのだ? でございましょうか。他家には分からぬ余程の事情があったという所でございましょうか」
「その事について、我らにも言い分がございます。
織田信長公は今、ここ安土城におられます。京にて正体不明の勢力に襲撃された織田信長公を我ら明智が救出し、ここ安土城へとお連れしたのです」
酒井忠次は確か水野守隆がそれと同じ事を口にしたが、徳川家康はその言を信じず彼に蟄居を命じたという。
家中を越えてのその命は、徳川家康の怒りを表すに足りた。
「織田信長公にお会いできますか?」
明智秀満が首を横に振ると、自分が苦し紛れの嘘を言っているのではとその表情を探ってくる。
「酒井殿が感じておられるのと同じく、我らの言葉を信じようとする者は織田家中にはおりませぬ。それでも今はこの私の言葉を信じて頂くしかない」
「明智殿の言葉が真実であれば、織田信長公の容体は悪いのではないですか?」
「全ての事は、柴田勝家殿が安土城に入城された後に語られると思います。それまで私の口からは今以上の事は申せませぬ」
あとは沈黙だけの時間がしばし続いた。退出の言葉を切り出したのは酒井忠次の方からだった。それでこの会見は終了し、大手道を下っていく酒井忠次の背を明智秀満は見送った。
酒井忠次の申した内容は明智にとっての吉報でもあった。
当面この安土城が外敵の脅威に晒される事はないだろう。この事を奥方様や市様に告げるべく明智秀満は本丸天守へと歩を進めた。
* *
本丸天守の入口は、僅か四名だけになったこの城本来の守備兵に守られている。天守への扉が開かれると、曲直瀬道三が丁度外へと出てくる所だった。
「私の方から秀満殿の所へ参る所でございました」
「いかがなされた?」
「織田信長公がお亡くなりになられました」
それは曲直瀬道三自身の無念の気持ちを表す様な口調であった。それに対して明智秀満の方もまさかという驚きでは無く、ついにこの時がという気持ちであった。
それでも湧き上がる無念さはとても言葉では表せない。
明智秀満はやり場の無い拳を壁に叩きつけた。
明智はどうなる。心の中でそう叫んだ。
織田信長公の存在は明智の窮状を救う切り札であった。それを今我らは失ったのだ。分かってはいた。だがしかし、
「上の階でお市様が秀満殿をお待ちでございます」
そう告げ、曲直瀬道三は外へと歩を進める。
彼は明智秀満に自身の成すべき事はもうこの城には無いと城を去る旨を告げてきた。そして京までの警護も見送りさえいらぬと申すと、働きへの報償全てを固辞し、一人静かに安土城を去っていったのである。
明智秀満はお市様と二人きりで本丸天守内の一室にて相対した。
「兄が亡くなったというのは、もう秀満殿の耳に入っていると思います。
これからの事を話す前に、秀満殿にはまず鍋の方について申し上げておかねばなりません。奥方様は数日前よりおかしくなりはじめておられました。
奥方様の行動は日常と変わりません。ですから私も曲直瀬道三殿からそう告げられるまでそれに気づきもしませんでした。
奥方様は居もせぬ者達に対して声を掛け語らっておられます。おそらく幸せであった頃のの夢の中におられるのだと思います」
「元に戻られる事はないのですか?」
「いいえ、時折正気には戻られます。ですがその時は失意にただ塞ぎ込むだけ、とても会話が出来る状態ではありませぬ。
元々奥方様が兄の側室となられたのも一つは本能寺で亡くなった子息の栄達を願ってのこと。愛する者全てを奪われた悲しみに心が耐えられなかったのでしょう」
「曲直瀬道三殿は奥方様について何か言われましたか?」
「時が心を癒やしてくれるのを待つしか無い。そう申されておりました」
「そうでございましたか」
「これは数日前に奥方様が、兄の死後の事についての指示を記されて私に託したものです。秀満殿にはこの指示に従い行動して頂きたいのです」
「わかりました。この私に出来る範囲の事であれば何なりと」
「まず崇福寺へ兄の遺品を収めるようにと書かれています。奥方様は兄の死後、安土城を去り岐阜の屋敷に戻って兄の供養をなさるおつもりであったのでしょう。収める品もすでに整えられています。この兄の遺品と共に奥方様を岐阜まで送り届けて頂きたいのです」
「承知致しました」
「もう一つは兄についての事です。織田信長は埋葬せずこの安土の城と共にこのまま焼いて下さい」
「私に安土城を焼けと言われるのですか」
「本丸のこの天守だけでよいのです。この天守は兄信長の居でした。ここは織田信長唯一人だけのもの、次のこの城の主たる者は、自身でそれを築けばよい」
「本当によろしいのですか」
「織田信長は一代の英傑、死して土に還るのではなく天に還すべきであろうと。それが奥方様のお言葉であり、私も同じように考えます」
「この件は私の一存では決められませぬ。我が主の裁可を仰ぐまでしばらく時を頂けませぬか?」
「秀満殿の言われることも分かります。ただこの夏の陽気、兄の骸が腐り果て無残な姿になる前に決断して下さい」
「すぐに早馬を走らせます。明日には我が主よりの言葉も届くと思います」
明智秀満は先程指示された内容を復唱してお市様の確認を取り、それで二人きりの会談は終了した。
階上へと戻るお市様を呼び止め、明智秀満は自身の無念さを声に出した。
「明智は大義を失いました。
我が殿明智光秀なれば、我らに大義など必要なし、ただ織田の臣としての務めを果たすのみとそう申すでしょう。
ですが世の人々はそれをどう見るでしょう。我ら明智が世を乱す元凶、そして我らを討ち滅ぼそうとする者こそが正義だと」
「神戸信孝、北畠信意、丹羽長秀、羽柴秀吉。主たる織田家に刃を向けようとする者達が正義だとあなたは言うのですか」
秀満、とお市様は力強い言葉で自分の名を呼んだ。
「明智光秀に申せ。明智に大義が必要となるならば、この織田市を明智の旗頭として世に掲げるが良いとな」
その言葉に明智秀満はただただその場に平伏し、感謝の意を表した。




