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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月十日
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周辺情勢六月十日(羽柴秀吉)

 六月十日、津田信澄つだのぶすみの死によって詰めていた津田軍が放棄し廃城となった尼崎城に羽柴秀吉は入城した。

 先んじて城に入っていた高山重友に出迎えられ、羽柴軍二万の兵は城外に留めたままである。城とはいっても名ばかりの柵城で、これと急造の二万の兵では明智軍に対するに何とも心許ない。

 明智軍は既に我らに対する陣を京の西、勝龍寺城付近に敷き、今尚防御を固めている。どうやらこちらの動きを既に掴んでいる様だった。


 羽柴秀吉は本丸主殿の廊下を腕組みしながら何度も往復していた。

 その背に黒田孝高くろだよしたかの低い声が流れた。

加藤光泰かとうみつやす殿、中村一氏なかむらかずうじ殿の二将が到着されました」


 到着した兵力の内訳は加藤光泰二千、中村一氏一千に黒田孝高の手勢二千の計五千の軍。これで烏合の衆の二万の兵に軍としての核が出来た。

「官兵衛、明智光秀に勝てるか?」

「勝ちますとも。明智光秀を破りし後は兵を美濃国、尾張国にまで進め、織田家の全てを殿のものと致しましょう」

「出過ぎ者めが、お前は当面の戦に勝つことだけを考えておればよい。儂はただ織田信長公の仇が討てればそれでよいのだ」

 そう、それだけでいい。


          *          *


 十日の内に大阪の神戸信孝かんべのぶたか丹羽長秀にわながひでの二人の到着が告げられた。

 堀秀政ほりひでまさ池田恒興いけだつねおきを送り出してまだ一日、到着が早すぎる。二人は兵を大阪に残したまま僅かの供回りだけを連れてやって来たという。

 それはどういうことだ?

 

 神戸信孝の尼崎城入城に歓声が上がる。池田恒興の兵が整列して彼を出迎えているのだ。遅れて出迎えの列に並んだ羽柴秀吉の姿を目にし、神戸信孝は馬上から声を上げた。

「筑前、大義である」

「信孝様のご到着で兵の士気も上がるでしょう。まずは主殿にて休息を」

「時が惜しい、すぐに今後の事を聞いておきたい」


 神戸信孝は下馬すると、深々と頭を下げる羽柴秀吉をその場に置き、堀秀政と池田恒興の二人だけを伴って歩き出す。

 これだけの軍を揃えたは儂、それでも織田家中の序列はここでもまだ生きている。しかし織田信孝の丹羽長秀に対する態度もおかしい。大阪で二人の間に何かがあったのは察しがつく。

 遅れて馬を降りた丹羽長秀に羽柴秀吉は声を掛けた。


「丹羽殿、明智光秀との決戦を控えた今、なぜ兵を率いて来られなかった」

「本隊の兵は十分と聞き及び、側面を突く兵力も必要と思いましてな。それはこの丹羽長秀が引き受ける。羽柴殿は心置きなく明智光秀を打ち破るがよい」


 丹羽長秀は手柄を自分に譲るような口ぶりだが、神戸信孝をこちらに押しつけて身軽になり、自分が戦の帰趨を握るつもりではないのか。丹羽長秀の態度を不審に思いながら主殿への道を上った。



 決戦の地は山崎の地になるであろう事は予測がつく。軍議の細かな所は先行して物見に出た中川清秀なかがわきよひでの帰還を待ち詰める事で一同合意し、それぞれの陣立てだけがまずは話し合われた。

 ここでこの戦の総大将が誰かを決めるべきと堀秀政が進言する。

 神戸信孝にその大役を引き受けて頂くのはすでに暗黙の了解がなされている。一同の視線は羽柴秀吉に集まった。つまり儂の口からそれを申せと皆が言うのである。

 全く、実のない所でばかり儂を持ち上げる。

 

「信孝様には今この時より織田姓を名乗って頂き、織田信孝おだのぶたかとして我らの旗頭となって頂きます。一同もそれでかまわぬな」

「筑前、お前は私に織田の名乗りをせよというのだな。それ程までに私の事を、分かった。私は今より織田信孝だ。織田家の頭領としての役目、必ず果たしてみせる」


 喜びの笑みを隠せない信孝様には悪いが、これは織田家の後継者に選んだという意味ではない。明智との戦の間だけ、我らの大義名分が立つように旗頭となって頂くだけのこと。

 早とちりしているのは信孝様の方、後で何か言ってきても儂には関係ない。

 そして山崎の地での陣立ても、ほぼ羽柴秀吉を無視した形で進んで行った。


          *          *


 軍議が終わり中川清秀の帰還まで散会となった。

 奥の一室に一人座る羽柴秀吉の元に、黒田孝高が急使の到着を告げに来た。弟秀次の率いる後続の軍の事だろうと思った。


 陽が落ち始めていた。

 羽柴秀吉は一人薄暗い一室で急使から手渡された書簡の内容を一通り確認すると、それをすぐに火にかざして燃やした。

「一体これはどういう事なのだ」


 『山陰方面で毛利家に不穏な動きあり』その事はすぐに頭の隅に追いやった。

 問題はもう一つの方の記述、『織田信長公安土城にて生存。明智と共に織田の混乱収束に当たれ』と長浜城を退去した妻のおねがそう伝え来たと弟の秀長が書き留めている。

 

 安土城はすでに明智光秀が掌握している。

 それはつまり、明智光秀と織田信長公が共に安土城へと入られた事を意味する。明智光秀は謀反など犯してはいない。

 儂は何故明智光秀が謀反を起こすはずが無いとまずは考えなかったのか?

 明智光秀謀反を伝え来たのは黒田孝高、儂は官兵衛に頼りその言葉を鵜呑みにした。改めて呼び出した黒田孝高にその事を伝えると、彼はそれを大声で笑った。

「官兵衛、おねがそう申しているのだぞ。それを作り話と笑うのか?」


「明智光秀は信忠様の籠もる二条御所で攻め滅ぼし、近江国では丹羽殿の佐和山城、殿の長浜城を攻めたのですぞ。それに京では天下人は明智光秀であると朝廷が宣しています。とても織田信長公を擁している者の所業ではありますまい」


 おねが老練な明智光秀の策に乗せられたと官兵衛は言うが。

「明智光秀に必要なのは、自身の力を蓄える時を稼ぐ事、私にはそれが光秀めの苦渋の一手にも見えますな」


 もし、という思いが羽柴秀吉の体を駆け巡る。血の気が引くというのはこの事を言うのだろう。

 今の状況は一人を罪人と決めつけ大勢で袋叩きにしている状況に似ている。

 そしてそこへ待ったの声がかかり、その者は無罪であったと告げられたも同じ。

 一人を叩いた大勢が今度は罪人へと変貌する瞬間である。

 それを防ぐ手立てはただ一つ。その声は聞こえなかった。知らなかったとして、その一人を罪人としたままこの世から葬り去ること。


 羽柴秀吉は蜂須賀正勝はちすかまさかつを呼び出し、最新の情報を問うと、安土城城下町は炎に包まれ安土城内の織田の譜代衆は美濃国や尾張国に逃げ散っているという。

 明智光秀のこれまでの一連の動き、そして安土城の現状。どう考えても明智光秀が織田信長公を擁しているとは思えない。そもそも織田信長公が姿を現してさえいればこんな事態にはなっていない。

 つまり明智は織田信長公が生きていると我らに思わせるという策を弄している。

 だが、それでも、おねの言葉が頭から離れない。


 他の将達はどうなのだ?

 摂津国の小身達はともかく、神戸信孝や丹羽長秀、柴田勝家しばたかついえ滝川一益たきがわかずますといった方面軍規模の武将の元には正確な情報が伝わっているのではないのか?

 そして毛利家と対峙していたこの儂だけが蚊帳の外であったとしたら。

 あり得る事だった。


 堀秀政と池田恒興は儂を外して神戸信孝軍を主力とした明智討伐軍を画策していたが、その目論見は大阪での争いで消えた。

 それに明智光秀を謀反人として討とうとする動機の部分。

 神戸信孝と丹羽長秀は織田一族の津田信澄を殺害しているし、池田恒興は明智の輜重隊千の首を刎ねて街道に晒した。

 この三人は明智が謀反人でなければ自分が裁かれる立場になるし、その罪も重罪、処断される可能性が高い。

 堀秀政の事情は異なるが、彼は織田信長公亡き今、側近としての立場から一家臣へと転落する。約束されていた一国の大名への道は閉ざされ、新たな織田政権で力を得るためにも、明智謀反に乗じて大功を挙げねばならぬと必死である。

 丹羽長秀が大阪に軍を留め置いたのも、罪を減じるために日和見を決め込むためかもしれぬ。


 この儂とて毛利家との独断講和という罪はあるが、他の三人に比べれば軽い。今なら明智との戦は止められる。だがそうなると、この儂があの三人に謀殺される可能性も出てくる。

 とにかくここに集まった者達の誰も明智光秀の謀反の確固たる証拠を持ち得ていないという事は分かった。このまま進むのであれば、そして明智と戦うのならば、明智謀反と言い張れる明確な証拠がこの手に無ければならない。


「正勝、備後国の鞆の浦で将軍足利義昭(あしかがよしあき)が鞆幕府なるものを開いておる。そこへ明智光秀の使者として決起の成功を伝え上洛を要請し、その返書を手に入れて参れ。送った使者の口封じも忘れるな」


 蜂須賀正勝はその命に対して、自分の顔をいつもより長く見つめていたが、何も申さずただ頭を下げて退出した。

 足利義昭と交した明智光秀の密書の存在。このまま明智討伐に進むのならば、後々これを儂が明智謀反と断定した証しとして家中には示せば良い。

 丹羽長秀は口を割りそうに無い。だからまずは織田信孝を揺さぶり彼等の考えを確認しておかねばならん。

 

 羽柴秀吉は主殿の主室に使いの者を出し、内密の話があると織田信孝を一人部屋へと招いた。主室の方は既に酒の席になっているらしく、杯を片手にその若者は現れた。

 酔っておるのか若者は自分を前に、織田信孝だと何度も繰り返し口にした。


「織田信長公は実は生きておられるのではないですか?」

 羽柴秀吉のその言葉に織田信孝の杯が微妙に震えた。彼は杯の酒を一気に飲み干すと胸の中にある何かを握りしめて助けを求める様に神の名を口にした。

 そしてポツリポツリと言葉を発し、安土城のお鍋の方からの書簡に織田信長公の生存と軽挙慎まれよと書かれた書状が届いていると話し出した。

 これで丹羽長秀の腹が読めた。

 我らに織田信長公生存の情報を隠してこのまま明智光秀討伐を仕向けておいて、自身は遊軍と申して実は一人大阪に籠り静観の腹づもり、そうはさせん。


 まずは織田信孝を自分の味方とせねば。

「信孝様、まずは明智光秀の家中での評判を思い出されよ。

 皆口を揃えて謀略に長ける男と言う。なれば信長公生存も奴めの謀でしょう。安土城の織田家譜代衆も何も言わぬ、お鍋の方も明智の虜囚となり、命ほしさにそのような文を出したのでしょう」


 そうかもしれぬ。そう織田信孝は小声で呟く。もう一押し。

「儂とで信長公に生きていて欲しい。ですが違うのです。

 明智光秀は二条御所にて織田信忠様を殺しています。その男がなぜ信長公だけは生かすのですか。ありえない」


「そうだ。明智光秀は兄上を殺した。筑前、お前の言う通りだ。これは明智の謀略に違いない」

 よし、これで織田信孝は儂の側に付く。


「明智討伐軍の旗頭たる織田信孝様が、一兵も率いずこの軍に加われば織田家当主の力量を疑われましょう。大阪に留め置いた六千の軍勢をすぐにでも呼び寄せて頂きたい」


          *          *


 主殿主室は各々の将が己が家臣達を呼び寄せ酒盛りの最中であった。当然そこに羽柴の臣は一人も呼ばれてはいない。

 笑いの弾ける場に気押され、織田信孝が自分の顔を見る。この場で丹羽長秀に出兵の話を切り出すのかと問う表情でである。

 酒が自分にも運ばれてくる。

 羽柴秀吉は一口含んで奥歯で噛みしめた。熱さが頬に響く。


 酒盛りの席に走り来る甲冑の男、その伝令の言葉に場が静まり返った。

「中川清秀殿、明智軍が占拠していた天王山を奪取、大至急皆様方の来援を請うとのことです」

 真っ先に声を上げたのは羽柴秀吉だった。

「明智との戦をもう始めてしまったのか」


 もう少し考える時間はあるだろうと思っていた。しかし現実とは残酷なもの、それは予期せぬ間に始まってしまったのだ。もう止められない。我らが生き残るには明智光秀を謀反人として葬り去る以外にもう道が無い。


「明智光秀との決戦の場が山崎の地になるのであれば天王山は必勝の地、であれば明智が奪取に乗り出す前に急ぎ兵を送らねば」

 堀秀政のその言葉ですぐに出陣が決定した。

 織田信孝がここぞとばかりに丹羽長秀に対して口を開く。

「丹羽長秀、総大将織田信孝として命じる。大阪の兵六千は私が率いて明智光秀に当たることにする」


 これだけの面前で総大将織田信孝が命じたのである。

 丹羽長秀は何も言わず、静かに頭を下げた。


 慌ただしく主殿を出て行く諸将を横目に、羽柴秀吉は手に持った杯をしばらくじっと見つめ、意を決した様にそれを一息で飲み干した。

  

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