周辺情勢六月九日(羽柴秀吉1)
六月九日、羽柴秀吉は蜂須賀正勝に命じ姫路城下で徴兵した急造の二万の軍勢を尼崎へと向け進軍させた。
陣や隊伍を組んで戦う事は出来ぬ烏合の衆でも、並んで行進するぐらいはやってのけられる。
まともに装備を付けているのは前を歩く二千ぐらいで、残りの兵は農具を武器に鎧さえ着けていない者が殆どである。
それでも二万に達する兵が進むのである。
摂津国の池田恒興とその他の衆を併せても兵力五千という所、彼等にとってもその姿は大きな脅威になるはずである。
この時羽柴秀吉は未だ姫路城に留まっていた。
鎧に身を纏い兵と共に出陣すべく馬上にあった秀吉を引き止めたのは一人の来訪者を告げる黒田孝高の言葉だった。
急ぎ有利な状況を作らねばならぬという心の焦りを押しとどめ、姫路城に留まらせたその人物、それが本願寺教如であった。
教如を名乗る人物が四人の従者のみを従えて自分に対して面会を求めて来たのである。その名を聞くまで羽柴秀吉の記憶からその存在そのものが消えていた。
石山合戦と呼ばれる石山本願寺と織田との長きに渡る戦の終結後、一向宗の蜂起は沈静しその有力者達は地下に潜り歴史の表舞台からは消えた。教如もその一人である。
それが何故今ここに現れた?
摂津国の池田恒興と同じく摂津衆の中川清秀、高山重友を味方に引き込むため、彼等にだけは羽柴軍の所在が姫路城にあると知らせておいた。
それ以外の者は自分がまだ毛利家と対陣中かその帰路にあると思うはずである。
それでも教如はここへ現れたのである。まるで羽柴秀吉の動きを逐一知っていたかの様に。
「落ちぶれたとはいえ一勢力の雄、彼の一声があれば各地で多くの人間が動くでしょう。それは見過ごせぬ力。本願寺の拠点は越前の尾山国と河内国の大阪でありました。柴田勝家に対する手立てに使えるかもしれませぬ」
黒田孝高は自分にそう申した。柴田勝家に対するの言葉で羽柴秀吉は教如に会うことを決めたのだった。
教如との対面には黒田孝高のみを側に伴った。
姫路城の主殿に現れた教如の姿はかつて耳にしていた風貌とはかなり異なっていた。線の細い女の様な風体と聞き及んでいたが、どうして逞しき男子の体格では無いか。
織田の探索からの逃亡生活が、彼を本来あるべき姿に変貌させたのかも知れぬ。
しかし外に噴き出すような荒々しさは無く、端正な容姿と相まってその一挙一動が見る者の目を引きつける。
齢二十四、五であるという。
若さに溢れたこの若者が、数年前まで織田の最大の敵として立ちはだかっていた。こんな若造が、そう思えてならない。
しかし吸い込まれる様な彼の瞳の奥にあるのは、光とは正反対のものの様であり、この者の不気味さとして羽柴秀吉には感じられた。
侮るは危険、この若者にというよりその背後にある本願寺の影に対してそう感じたのかも知れぬ。
「戦時であるが故、このような姿で申し訳ござらぬ」
甲冑姿のまま羽柴秀吉は平伏する教如に声を掛けた。
「暫く教如殿の噂も聞くことが無かった。雑賀へと落ちられたと聞き及んでおったのだがな」
「織田信長との戦いを頑なに唱える私を紀州国鷺ノ森道場の父顕如は義絶致しました。それ故雑賀にはおれず、京の知古の助けを借りて美濃国の山中に潜伏しておりました」
「さて、わざわざ遠路、儂に対する用向きとは何であろうか?」
「私は羽柴様が明智光秀と一戦なさると聞き及び、そのご助勢が出来ればと駆けつけました」
「織田信長公の弔い合戦をするは臣下として当然の務め。だがの、石山本願寺と織田は和睦したとはいえ仇敵の間柄であった。ならば教如殿は明智光秀に助勢するのが筋ではないか?」
「あえて羽柴様の主を呼び捨てにしますが、仏敵織田信長は私のこの手で倒すと決めておりました。その戦いの幕は明智光秀によって突然降ろされてしまったのです。
それを運命と受け入れるほど私の織田信長に対する拘りは小さなものではなかった」
「つまり自分の倒すべき敵を討ってしまった明智光秀を許せぬと? 光秀めを倒せば教如殿のその行き場のない怒りも収まる。そういう解釈でよろしいか」
何とも青臭いことを言う。
それが儂に助力する本心であるなら、こんな者は我が元では使い物にならない。
義や大義と語る者ならばその言葉に多少は心震えるのかもしれぬが、この儂は羽柴秀吉。
気心知れぬ者を信じるにはまずその者の欲を知り弱みを握ること。
教如はずっと訝しむ自分の顔を凝視している。まるで我が心を読み取るかのように。そしてその目を閉じて軽く微笑んで見せた。
「羽柴様は石山本願寺の和睦の条件に賀州二郡の返還があったのをご存じでございましょうか? その約定は未だ果たされておりませぬ」
賀州、本願寺のもう一つの本拠地である越前国尾山御坊を擁する一帯の事である。今、その地は柴田勝家の勢力下にある。
「私は大阪石山本願寺の退去時に武力を以て四国の勝瑞城を奪わせました。彼の地に新たな本願寺の拠点を築こうとしたのです。
ですが長宗我部元親は邪魔者として我らを滅ぼした。本願寺一向宗の残された武力で新たな地を得るは無謀と知りました」
「織田と戦う拠点として尾山御坊が欲しいと申すなら、それは受けられぬ」
「仏敵織田信長が倒れたことで、私の戦いは終わったのです。これより後は宗門の徒としての本道を歩むつもり。その為の拠点となるべき地でございます。
信仰は心の中にあると申すは心強き者の言葉、弱き民にはこの世に目に見える形で心の拠り所となる場所が必要なのでございます」
尾山御坊が欲しいならば、儂ではなく柴田勝家に同様の交渉を持ちかければよいのではないのか?いや、柴田勝家が越前の要地を気前よく明け渡すわけがない。
東国の武将達や神戸信孝でさえ、織田家筆頭家老の柴田勝家の前では萎縮してしまう。柴田勝家に正面から喧嘩を売れるような人物。なればこその我か。
「なるほど、教如殿は信者達の心の拠り所となる寺が一つ欲しいと申すのだな」
「簡単に申せば、その通りにございます」
「具体的にはどのような助力をして頂けるのだろうか」
「越前国、加賀国、美濃国の三国で一向宗を蜂起させましょう。後方地に不安を抱えたまま明智光秀に対する不安を煽り、一揆沈静の為の交渉や兵力を割く者を現れるでしょう。それで大軍の乱れを誘い柴田勝家や東国の武将達の反転の足止めが出来ると思います」
「教如殿、その準備にどれ程の時を要する?」
「すでに準備は整っております。今日より三日の内には実行に移せるでしょう」
「申し分なし。この羽柴秀吉、事を成就した暁には我が領内に教如殿の寺領を一つ整備して差し上げましょうぞ」
羽柴秀吉のこの言葉に教如は深々と平伏してみせた。
なんとも言えぬ心地よさが羽柴秀吉の体の中を駆け抜けていった。
あの織田信長公が手を焼き討伐できなかった教如が、今我が前に頭を垂れて屈したのだ。寺一つ、そ柴田勝家や東国の武将の反転を遅らせられる。
羽柴秀吉の望んでいた一手がこの若者の出現によって解決されたのである。
ただ、その後に口にした教如の言葉に羽柴秀吉は目を細めた。
寺領寄進の一筆を認めて頂きたいと彼は申してきたのである。
気づきおったか。
筆と硯を取り出し彼の目の前で書を認めて見せた。その文面を確認すると教如はうやうやしくそれを掲げて受け取った。
このような場での口約束は後日知らぬで通すことも出来る。
だが、この教如の用心深さに羽柴秀吉は好感を覚えた。この程度の頭すら回らぬ者ならば、三国での一向宗の蜂起もそれほどの成果は出せぬ。
この後、簡単な歓談を二三交し、羽柴秀吉の発した教如来訪のねぎらいの言葉でこの会見は終了した。
羽柴秀吉は、心に何か違和感を覚えたが、それが何か分からぬまま黒田孝高に問いかけた。
「官兵衛、お主は本願寺の力侮り難しと申したが、結局の所儂に寺一つを寄越せと申して来ただけでは無ないか」
愉快に笑いながら語っていた言葉が突然止まった。
教如の言葉が不意に頭の中をよぎったのである。
美濃国の山中に隠れ潜んでいた者が京での明智謀反を知り、加賀国、越前国、美濃国の三国の一向宗蜂起の準備を進めた上で我の元に現れた?
教如の行動にかかるべき日数がおかしいのである。如何に優れた集団とはいえ、そんなに早く事を進めることが出来るはずがない。
ましてこの儂がすでに姫路城にいる事まで奴は知っておった。
背に冷たいものが走り抜けた。
教如は京での明智謀反が起こることを事前に知っていた。その上での行動であれば説明がつく。
教如に対して優位に立った事で有頂天になっていたのは自分だった。
そこに心の油断があった。
この件についてはもっと深く追求すべきであったのだ。
「殿、どうかなさいましたか?」
黒田孝高の言葉に反応し、教如を呼び戻せと声を出しかけたが、それは何とか押しとどめた。
先程の会見の内容を振り返る。
自分が手玉に取られるような事は何もしていない。寺一つを約束しただけだ。
まあよい。既に明智謀反は起こっている。今さらそれを知っていたか知らなかった等の詮議はどうでもよい。今は目の前に事に力を尽くすべきなのだ。
「官兵衛、摂津国へ向かわせたは烏合の衆、あれでは明智の精鋭には勝てぬ。我が主力はまだ戻らぬのか?」
「もうしばらくのご辛抱を」
「むう、儂は神戸信孝や丹羽長秀よりも先に動かねばならぬ」
「その件でございますが、興味深い報告が入りました。神戸信孝、丹羽長秀は動けぬ様でございます」
「ほう、朗報であろうな」
「神戸信孝と丹羽長秀は明智光秀に同調したとして津田信澄を殺害しその首を晒したとか。その戦いの最中に雑賀船団が離反、その混乱で兵は離散、集積してあった物資も焼失したそうです」
「それは確かか?」
「淡路島の仙石久秀よりの早船での報告であれば、間違いは無いかと。
仙石からはもう一つ、淡路島の我が水軍に四国に送った一万の兵の撤退に協力せよと神戸信孝が申してきているが如何にすべきかと」
「奴等に一万の兵が加わるのは面白うないな」
「四国に送った一万は長宗我部の足止めの捨て石になってもらうが良いでしょう」
* *
黒田孝高が去ると羽柴秀吉は一人庭へと出た。
織田信長公亡き今、儂が明智光秀を他将に先駆けて討伐したとして、その功はそう報われるのだろうか。
柴田勝家や織田家の本国衆と呼ばれる者達よりも発言権が増すとして、それはほんの一時的な事、この日ノ本が織田によって統一された後に行われるのは軍備の解体。当然の事ながら儂の治める広大な領土も織田家の名の下に取り上げられるだろう。
織田による天下統一とは。
儂は自分の栄達の道を閉ざすために今こんなにも必死なのか?
それは違う。
今より上を目指す。それは織田から離れて自らの天下を目指すということか?
その様な事は今まで一度として心に描いた事は無い。
明智光秀が織田を滅ぼし、織田から与えられているものを全て奪われる事への恐怖。それに抗うためだとこれまではそう思っていた。
しかし結局の所、明智光秀が滅び織田が存続しても儂の力は奪われていく。
待ち受ける未来は、どちらも同じでは無いのか?
ではなぜ、儂は今ここにいる。
「お前様は怖がりながらも信様を好きで好きでしょうがないのですよ。
織田の他者がお前様を悪く言おうとも、信様だけはお前様をしっかりと見て下さっていますよ」
おねが自分にそう言った事がある。
儂はその言葉を馬鹿なことをと笑い飛ばした。
儂は確かに織田信長公に憧れ、それを追いかけた。その目的は織田信長公の持つ力を自分のものとするため、そう心に信じてきた。
高松の陣で悲報に接した時の儂の取り乱し様は何だったのか?
あおの感触、絶望感と怒りと悔しさの入り交じったやりようのない気持ち。
目を閉じた。そうか、そうなのか。
おねよ、お前の言う通りであった。
織田信長公の進む道、天下統一をこの目で見てみたい。
共にそれに力を尽くしたい。
儂はあれこれ頭で言い訳を並べ立てていた。
その気持ちを認めたくはなかったのだ。
心の奥に潜んで儂を突き動かすもの、それは大事な者を奪われた事への復讐心。
儂はこの気持ちに正直に、憎き明智光秀を討つ。
今はそれだけを考えればい。そうだろうおねよ。
歩を返した。
「出陣致す。馬を引けい」
羽柴秀吉の力強く大きな声が響いた。




