疑念
六月九日、明智光秀は津田軍と共に近江国坂本城を発つと、大津の明智軍本隊と合流して筒井順慶との会合の地である洞ヶ峠を目指して進軍した。
京の手前で一隊を残して軍は南へと転進させ、京の南下鳥羽へに陣を敷くようにと命じた。
下鳥羽の地は桂川を西へ渡河し勝龍寺城方面へと進めば摂津国に至り、南下して淀城を抜け洞ヶ峠を越えれば大阪のある河内国に至る分岐点であり、現状で考え得る神戸信孝と羽柴秀吉の両面に即応出来る位置にある。
それに加えて兵士達の懐は恩賞により暖かく、京へと入れば必ず羽目を外して問題を起こす者も出るだろうとの危惧もその理由の一つであった。
残した一隊は吉田郷の吉田兼見邸へと派遣し、同地の警備を命じた。
この行為は、これから起こす戦を停戦に導く助力を朝廷に依頼する為の会談を、公家の吉田兼見と行いたいと明智光秀が考えていたからである。
まずは京での所用を済ませることが先決、明智光秀自身は僅かの供回りと一両の荷駄従えて京の都を目指した。
京の白川口の手前で明智光秀を早々に出迎えたのは血相を変えた吉田兼見自身であった。おそらく安土城の我が軍の動きを従者にでも探らせていたのだろう。
それと吉田郷へと送った一隊が彼に対する敵意と思われたのかも知れない。
吉田兼見はあたふたとしながら、明智光秀の入洛を京の公家家が総出で出迎えに出ているのだと告げ、公家の家格の中では最高位の摂家とそれに次ぐ清華家の面々もそこに名を連ねているのだという。
まさに織田信長公入洛に匹敵するほどの儀礼での出迎えである。
安土城での吉田兼見との会見がすぐに思い出された。
吉田兼見は安土城で知った事実、織田信長公の生存を既に朝廷に伝えたはずである。
その為此度の明智軍の出陣が朝廷を滅ぼす為のものではないかと上を下への大騒ぎになったのかもしれない。
そうでなければ、一家臣の身分の者にこの対応はあり得ない事だった。
明智光秀は分不相応の思いと言うより、勘違いした公家達の命乞いの機嫌取りに付き合わされるのを嫌った。何よりそんな事に対応している時が惜しい。
すぐに皆の出迎えは不要として解散する様にと伝え、今回の進軍は朝廷に対するものではないと告げ、吉田兼見個人には吉田邸に一隊を配したことをまず詫びて、京での所用が終わり次第その場にて会合を行いたいのだと伝えると、彼はようやく安堵の表情を見せたのである。
京に入るとまず明智光秀は内裏を訪れ、朝廷を頼って仮小屋で暮らす焼け出された民の姿を一通り見て回り、吉田兼見の言が事実である事を確認すると、依頼のあった朝廷救済のための当面の金子を配下の者達に命じて荷駄から降ろしたのである。
迎えに出て来た公家達には内裏にも立ち寄らぬと告げ、更には当面の金子だけでは足らぬと判断し、京の五山にも京の民への救済の助力を請うための使者をそれぞれに送った。
ここで荷駄と護衛の数騎を明智兵の負傷者の治療に当たってくれている知恩院へと向かわせ、光秀自身は騎乗の者を連れて下京を目指した。
途中、二条御所の門前に立ち、亡き織田信忠様の霊に一礼した後、村井貞勝邸へと立ち寄り、京都所司代代行の三宅秀朝よりの政務の確認の他各種報告を受けた。
竹中重矩の情報を元に三宅秀朝が調査した南部但馬屋敷や不審な行方不明者の事、そして公家の近衛前久の関与についてもこの時に報告を受けた。
そして竹中重矩、燕、弥助の三人は、紀州国へと向かったと知らされた。
やはり現時点ではまだ、雑賀衆と石山本願寺の関与が濃厚であるが、それと南部但馬、つまり元織田家家臣の林秀貞の関係が繋がらず、それはまだ一本の糸とはなっていない。
全てを判断するのはまだ早いという事なのだろう。
明智光秀一行は村井貞勝屋敷を後にすると、東の鴨川を渡り知恩院を目指した。知恩院へと辿り着くとこれまでの事への礼金を寺に納め、明智軍の負傷兵達には安土城で配られたのと同額の恩賞がそれぞれに手渡された。
ここには一命を取り留めた重臣の明智光忠がいる。
兵達の療養所とは少し離れた建物の一室で、彼は一人横たわっていた。
「この一大事に真に不甲斐なき事、お許し下され」
明智光秀の訪問を知り、動かぬ体を無理に起こそうとするのを制すると、彼は仰向けのまま悔しさを噛みしめながらそう述べた。
明智光忠は肩に受けた銃創が未だ塞がってはおらず、巻かれた布からは今も血が滲んでいた。
「殿、我らの敵は一体何者であったのでございましょうか?」
「未だよくは分からぬのだ」
「溝尾茂朝より今の明智の窮状も知らされました。
私は体は動かねど頭だけは働かせる事は出来る。私なりに敵を探る方法を考えてみたのですよ。是非にも聞いて頂きたいのです」
「申してみよ。光忠」
「私は本能寺で行われた催しの出席者の中にその鍵があると見ました。
ただ該当者があるかは分かりませぬが、より遠隔地より訪れた者ほど織田信長公の入京日時を誰よりも早く知っていたと考えるべきだと思うのです。
その者か、その者に関わる者を調べれば敵に辿り着くのではないかとです」
「なるほど。理にかなうな。すぐに三宅秀朝に命じて調べさせるとしよう。よくぞ気付いてくれた。後の事は我らに任せ、お主は傷の治療に専念するのだ」
はいと答える彼の表情は寂しげであった。
外に出ると何とか体を動かせる者達が、槍や刀を杖代わりに明智光秀を見送りに出てきていた。
「今は皆、傷を癒やすことに専念するのだ。私も明智の皆も、お前達の帰りを待っているぞ」
殿、殿とあちこちから兵達の声が上がる。
明智光秀はその声を背に受けながら知恩院を後にしていった。
* *
正午過ぎの入京から時は経ち、日が沈みかける頃になってようやく一行は吉田郷の吉田兼見邸へと辿り着いた。
明智光秀の到着を警備に配した兵より伝えられ、待ち侘びるかのように迎えに出たのは吉田兼見だけでなくもう一人、朝廷部家伝湊の役目を担う勘修寺晴豊であった。
休む間もなく明智光秀は二人との話し合いに入った。
「此度の件は本当に肝が冷える思いであった。朝廷の中には織田に対して良い感情を持たぬ者がいたのは事実。その者達の声が大きく前に出てしまった」
「その通りじゃ。朝廷は織田信長公と共にこの日ノ本を治めていく気持ちに偽りはない。そこの所を光秀殿には知っていて頂きたいのじゃ」
この二人は自分の用向きが何かと尋ねるよりも、この席を朝廷の織田に対する弁明の場として使いたいようだ。ただ、毛利との関係、朝敵織田能長討伐の儀など、自分達に都合の悪いことは一切語らない。
その言葉一つ一つを問い質せば二人をやり込めることは出来るが、それが何になるというのか。
彼等はそういうことを当たり前とした世界で生きてきた生き物だと思うしかないのだろう。
「此度の朝廷の行動を私が織田信長公に報告すれば、織田と朝廷との関係は思わしくない方向へと向かいます。それは双方にとっての不利益と私は考えます」
「そうであろう。明智光秀殿は話の分かるお人じゃ。そういえば光秀殿は朝廷に何か頼み事があるそうだの」
「私を謀反人と信じた神戸信孝、丹羽長秀に挙兵の動きが見られるため、これを抑える為に安土城から軍を発しました。この戦を早急に収める為に朝廷のご助力を頂きたいのです」
「戦の仲裁をせよというのだな。さて、どの段階で朝廷の介入が必要となるのかの?」
「両軍が対峙して五日、これを目安に動いて頂きたいのです」
「何と言うかの、朝廷の内部に根回しするにはそれなりのものが必要となる。ある程度の資金があれば容易にすすむのじゃが」
「当面の費用は表にある荷車にあるものを使って頂きたい。お二方の功にはこの光秀特別な礼を尽くす所存でございます」
多額の礼金を約束すると申すと、二人の口元が僅かに緩んだ。
神戸信孝との戦は明日には開始されるであろうと聞き、勘修寺晴豊はすぐに朝廷へと働きかける為に京へと発って行った。
これと入れ替わりに下鳥羽の陣より溝尾茂朝の伝令が届いた。
溝尾茂朝の報告では、安土城の明智秀満の元へと柴田勝家からの返答が届いたという。その内容は安土城入城を受け入れ、明智謀反の真偽はそこで判断するというもので、盟にまでは至らなかったがそれが今の明智にとって朗報である事には変わりはなかった。
自分の上機嫌な顔を見てか、吉田兼見が用意した風呂を勧めてきた。この邸宅の風呂は吉田兼見の自慢の一つである。有り難く馳走になると伝えた。
立ち上る湯気を全身に浴びて吹き出す汗、薬草の香りが心を穏やかにする。ここ数日間の不安な気持ちの全てを吸い出していく様にも感じた。
全身が水滴を浴びたまま目を閉じ、しばらく息を止めては大きく何度も深呼吸を繰り返す。
家人が板壁越しに夕食の支度が整ったと伝え来た。
彼女は警護の兵にも主が何か振る舞いたいと申しているがよろしいかと訪ねる。
心づくし、有り難く頂戴すると伝えると、足音は遠ざかっていった。
木戸を開き風呂の外へと出る。熱した体を夏の夜風がさっと洗っていく。そのなんとも心地よい事か。体が軽い、そして清々しい。
この僅かな時が何時までも続いてくれたなら。今暫くはここままでいたい。
もう一度家人が声を掛けに来た。風呂はあまり長く入ると意識を失うこともある。それを心配して吉田兼見が遣わしたのだろう。
すぐに戻ると彼女に伝え、衣類を整えた。
夕食の整えられた座敷に戻ると、京の町衆の里村紹巴が遅れて吉田邸を訪ね来ていた。彼は今日の民の為に朝廷へと献上した金子の礼を述べに来たのである。
京からの早馬が到着したと伝えられたのは、その食事の最中であった。
三宅秀朝自らが明智光秀の依頼した調査内容を伝えに吉田兼見邸を訪れてきたのである。それは報告内容が非常に重要な事であるという事を暗に示していた。
これは他に聞かせる話ではない。
すぐに席を立ち別室にて彼の報告を受けた。
本能寺で行われた催しの参加者の記録で、最も遠隔地から訪れていたのは九州博多の豪商島井宗室と神谷宗湛の二人。すぐに三宅秀朝は二人の行方を捜索、彼等は京の商家に未だ留まっていたのだという。
「島井宗室に神谷宗湛か」
彼等は一度京を離れて堺を目指したが、堺海上にて戦があり九州への船が出せぬと知り再び京へと引き返して来たのだという。
「私が手勢を率いてその商家を訪れた際、二人は明智の手勢が本能寺より持ち出した織田信長公所蔵の品々を取り戻しに来たと思ったようです。
すぐに品々の目録を書き出して命乞いを始めました。二人を捕縛すべきであればすぐにそうさせますが」
「必要ない。織田信長公所蔵の品々はいすれは織田家に返却されねばならぬ。だが今は価値の分かる者が持っている方が安全であろう。何者が何を持っているのかを把握できていればそれでよい。
それよりも、堺海上での戦とは如何なるものであったのだ?」
「神戸信孝、丹羽長秀軍と津田信澄軍との戦の最中、堺海上の雑賀水軍が離反し、堺の物資兵糧を大量に焼失した様です」
「それが事実であれば、神戸信孝の封じ込めも上手く運ぶだろう」
今一番の問題は、島井と神谷の二人の商人が、如何にして本能寺の催しの日時を知り得たかである。
当然、この二人が呼び出されたのは毛利平定後の九州での戦に関する諸事の手配について話し合う為だったはず。
つまり偶然そこに居合せたわけではない。
この事について、三宅秀朝からは耳を疑うような回答が返ってきたのである。
「島井宗室、神谷宗湛と織田信長公の橋渡しをしたのは羽柴秀吉の手の者であったようです。そして四月の半ばには六月二日に織田信長公の入京を知らされ、途中毛利家と対陣中の羽柴秀吉本陣へと、これまでの橋渡しの礼を述べに立ち寄ったと申しておりました」
「羽柴秀吉だと」
織田信長公の入京という極秘事項を、羽柴秀吉は一ヶ月半も前に知っていた。知るという生温いものではない。
六月二日の京での会合そのものを羽柴秀吉が取り決めたと言ってもいい。
確かに事ここに至るまでの羽柴秀吉の動きにはおかしな点がいくつもあった。
明智の担当戦区であった山陰地方の戦を奪い取り、彼の兵糧買い占めにより明智軍の出兵は遅れに遅れた。
これら一連の動きが織田信長公襲撃の罪を自分に着せる為の明智封じ込めにあったとしたならば。
明智光秀の全身に粟立つような衝撃が走った。
いや、その様なことがあってはならない。全ては未だ推測の段階、羽柴秀吉はただその日時を知っていただけかも知れぬのだ。
だが、これが羽柴秀吉の画策であれば、彼はこの私を謀反人として葬ることで織田家中での地位向上を狙うだろう。
しかし、そんな事のために織田信長公を排した? ありえないだろう。
羽柴秀吉は狂ってしまったのか?
正と邪の二つの感情が明智光秀の中を掻き回す。どちらにせよ最悪に備えねばならない。
明智光秀は警護の兵全員を招集した。
「勝龍寺城へ伝令、物見を派遣し羽柴秀吉軍の位置を探らせよ。後続の斉藤利三にも伝令、本隊とは合流せず西からの羽柴軍に急ぎ備えよとな」
四人の兵が二人組の伝令となってそれぞれ駆け去って行く。
「すぐに出陣致す。羽柴秀吉に謀反の兆しあり、急ぎ神戸信孝を抑えねばならぬ」
甲冑を身に纏い乗馬する明智光秀に吉田兼見が慌てて駆けつけてくる。
「仲裁の件、お頼み申す」
その一言だけを伝えて、明智光秀は闇の中を駆けだした。




