周辺情勢六月八日(羽柴秀吉)
目を見開いた。
明るい建物の中、天井が目に映る。暖かく柔らかな物に包まれていた。まだ記憶が曖昧だが見覚えのある室内だ。
ここは姫路城なのか、安堵の気持ちが羽柴秀吉の頭から全身へと伝わっていく。
「誰か、誰かあるか」
羽柴秀吉が発した声を聞き、襖の向こうをすり足で去る音が聞こえ、それは違う慌ただしい歩調となって引き返してきた。
「殿、お目覚めでございますか」
襖が開かれると、小出秀政がその声に答え、平伏する。
「今日は何日だ?」
「六月八日でございます」
良し、意識の無いまま数日を過ごしてはいない。
羽柴秀吉はすぐに部屋を飛び出し、追従する者達を振り切る勢いで城の物見櫓へと登った。城内には無い。どこだ? 城外へ目を凝らし周囲を見渡す。
城下町の外れに陣小屋の列が出来ていた。
蟻の如く動く無数の兵士の数がそこに見て取れる。五千、一万、いやもっとだ。
「小六、でかした。でかしたぞ」
羽柴秀吉は大声で叫び、その場で何度も飛び跳ねた。
羽柴秀吉の本隊二万の軍は未だ姫路城への帰路にあるが、ここ姫路城下にはすでに二万の兵が集結していた。その姿を近くで見れば全てが寄せ集められた徴収兵だという事が分かるだろう。
姫路城に先行して送った蜂須賀正勝の大手柄、わずか三日足らずでそれだけの兵を整えたのは驚愕すべき成果である。
兵は二千か、五千程度も集まれば上出来と羽柴秀吉は考えていたからだ。
羽柴秀吉が目覚めたと聞き、城の広間には高松城より追従してきた黄母衣衆や近習の者達が参集していた。
小出秀政がそれを伝えたのだろう。普段ならば気の利いた事をと喜んだかも知れぬが、今はまだその時では無い。全ての情報が不足していて、彼等に語る材料を秀吉は何も持ち合わせていなかったからだ。
身なりを整えた羽柴秀吉は、集まった彼等にまずねぎらいの言葉をかけた。
この場で初めて姫路城へと急ぎ帰還した理由、明智光秀の謀反と織田信長公の最期を皆に聞かせた。すぐに場は騒然となったが、羽柴秀吉が明智光秀討伐の意を伝えると、皆声を上げてそれに賛同の意を示した。
「殿、明智光秀めに対抗する策は如何に」
今、誰が申した。
その者顔に羽柴秀吉は冷たい視線を送った。津田、名が出てこぬ。
明智光秀に対して自分が未だ無策であるなどと、この場で言えるはずもない。
「津田信任殿、逸る気持ちは分かりますが明智軍は精鋭揃い。ここには大軍を指揮した将は数える程しかおりませぬ。まずは後続の本隊の到着を待ち、必勝を期すが得策ではないでしょうか」
自分の今の心情を意図してでは無いであろうが、良く言った三也。
皆の注意は羽柴秀吉ではなく、急に発言した石田三也に注がれた。立ち上がって咆えたのは加藤清正。
「知った口をきくな三也。我ら皆、一軍を預けられれば十分に働いてみせる。人無しとは無礼にも程がある」
「清正殿は耳が悪いのか。私は人無しとは申しておらぬ。数える程しかおらぬと申しただけ」
二人が本格的に言い争いを始める前に羽柴秀吉が間に入った。
「お前達は互いの姿をまずは見て見よ。汚れた身なりでは気持ちも荒む。儂はこれより風呂に入り身なりを整える。後に皆にも風呂の使用を許そう」
ここが逃げの潮時じゃ。羽柴秀吉は立ち上がった。
羽柴秀吉は風呂に入るとの名目で、蜂須賀正勝と黒田孝高を呼び出し情報収集及び各種報告を受けることにしたのだが、この行為が集まった皆にとっては羽柴秀吉の余裕として受け止められ、図らずも彼をより大人物として見せることに成功したのである。
* *
姫路城の主殿横、造営途中の庭を見渡せる場所に風呂はある。
洗い場に湯帷子姿で座し、灰でまずは髪を洗い湯でまずはそれを流す。扉を開け床板から白い湯気の上がる風呂場に入り、洗い場の方に空いた窓に乗り出すように半身をのぞかせた。
この時代の風呂とは現代でいう所のサウナである。
洗い場の方にまず裸で入って来た蜂須賀正勝がそこに座り報告を始める。
この男は飾り立てて物事を言わない。
まず二万もの兵の募兵大功であると羽柴秀吉が述べると、彼はそれは自身の功ではないと否定した。
「小六、その功は全て官兵衛にあると申すのか」
六月二日の時点で姫路城に黒田孝高の使者が留守居の小出秀政を訪ね、募兵開始の命令を伝えていたのだと言う。
六月五日に蜂須賀正勝が姫路城へと到着した際にはすでに一万以上の兵が姫路城下に集結しており、自分はその役目をただ引き継いだにすぎないのだと。
「黒田孝高殿、恐るべき慧眼にございます」
蜂須賀正勝はそのように申すが、何か釈然としない。
それが事実であるならば、高松城包囲の我が軍に伝令が届く前に姫路城下で募兵を開始したことになるからだ。その件は、後だ。
「明智光秀めは今どこにおるのか?」
「明智光秀は京で織田信長公を討ち果たした後、安土城へと入った様です」
「近江国へ向かったか。長浜の城はどうなったのだ」
「長浜城よりの伝令は姫路城へと辿り着いておりませぬ。ただ残念な事にすでに近江国全域はすでに明智の手中にあるようでございます」
その言葉が意味するのは長浜城が伝令を出せぬほどの攻撃を受けたという事ではないのか? 妻のおねはあの性格である。城と共に殉じたかもしれぬ。
いや、城を落ち延びどこかで生きている。悲観的な事は考えたくなかった。
羽柴秀吉は子供の様に首を振り、全てを打ち消した。
「織田信忠様は光秀討伐の軍をもう挙げられたのだろうか?」
「殿は高松城にて織田信長公が亡くなられたと私に申されましたが、織田信忠様も同日に京にて亡くなられておる事をご存じですか?」
「それは確かか、信忠様までもが亡くなられておるのか」
確かに織田信長公を倒しても、織田信忠様が織田を纏め上げるだけの事。
その二人を同時に討てる機会を得たからこその明智光秀の挙兵であったのだろう。しかしそれでは織田信忠様の明智討伐軍の元へといち早く大兵と共に参じるという目論見が崩れるではないか。
ならば次に織田家を継であろう者の動きが気になる。
「神戸信孝と丹羽長秀の動きはどうか? ここ姫路城にも使者が既に来ているのではないのか?」
「何もありませぬ。神戸信孝が動いた情報もありませぬ」
「どういうことだ」
「私に神戸信孝、丹羽長秀の腹の内は分かりませぬ」
蜂須賀正勝は腹の探り合いには向いておらぬ。
彼には大阪の神戸信孝、丹羽長秀の動向を探れと命じて下がらせた。
ここからは奴の出番か、羽柴秀吉は次に黒田孝高を呼び寄せた。
片足のきかぬ体、裸でひょこひょこと歩く姿をしばし見つめた。
「官兵衛、風呂へと逃げた儂を笑うか?」
「強行軍を終えたばかりで殿は未だ無策。しかし家臣一同、殿の余裕な姿に安堵しております」
「逃げたは正解であったか」
黒田孝高は苦笑を漏らした。
軍事面や謀略に於いて彼の手腕は家臣達の中でも雲一つ抜けている。それなくば決して自分の手元に置こうとは思わない性格の男である。
竹中重治も事ある毎に王道がどうのと小言を言い、使いにくい男ではあったが、それに比べればまだこの男の方が自分の性に合うのかもしれない。
羽柴秀吉が尋ねたのは六月二日に発した兵の動員令についてである。なぜそうも早く対応できたのかについて知りたかった。
「遠方で戦う我らが中央での出来事を知ることは重要ですので、私は毛利との戦の前に内密に京の空家を手に入れ手の者をそこに置いておりました。有事の際には姫路城へとまず走り、何はともあれ兵を動員させるようにと伝え、その後に我が元へと知らせよと指示しておりました」
「なるほどのう、お主の用心深さが今回は功を奏したということか。しかし京屋敷の事、なぜ儂に伝えておらぬ」
「郊外のあばら屋程度で言うほどの物件ではありませぬ。それに申し上げにくい事ながら、殿は以前京に建てた自邸を不要として織田信長公に取り上げられました。臣下の身で京に家を持てばお叱りを受けるとも思いました」
「確かに、知っておれば許さなかったであろうな」
羽柴秀吉の京屋敷は織田信長公に取り上げられ、今では公家の近衛前久の屋敷となっている。六月二日の早すぎる動員令、それについては理解出来た。
「官兵衛よ、これから我らはどの様に動くべきであろうか」
「殿は以前私に明智光秀を出し抜く為の策をいくつか整えよと御命じになられました。その一つがまずは活きてくるでしょう」
「長岡藤孝あたりの事か」
明智光秀の手柄を妨害する為に彼の管轄である山陰方面の戦を奪い取り、更には毛利との戦の最中に明智軍が引き上げざるを得ないように明智光秀の管轄の後方地で騒動を起こすことを画策していた。
それが活きると黒田孝高は申しているのである。
「のう官兵衛、我らは明智光秀に勝てるであろうか」
「織田信長公が亡くなられても織田信忠様が明智光秀討伐軍を挙げるでしょう。我らはそれに馳せ参じて大功を上げればよいのです」
「待て官兵衛、お主は信忠様も京で亡くなられておるのを知らぬのか?」
その言葉に黒田孝高はしばし沈黙した。
微妙な表情の変化であったが、確かにそこには驚きの色があった。
「申し訳ございませぬ。私の手抜かりであったようでございます」
「ならば今日一日お主に時を与える。我らがどう動くか急ぎ考え策をひねり出せ」
「必ずやこの官兵衛、殿の期待に応えてみせまする」
黒田孝高が退室してしばらくの間、羽柴秀吉は目を閉じた。
黒田孝高は京に家を構えて情報収集に当たっていたと申した。それで織田信忠様の死の報を知り得なかった。彼の手の者の落ち度という事なのか?
何かがおかしい。




