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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月八日
37/84

 時は少し遡ること六月五日。

 伊賀国、鹿伏兎かぶとと呼ばれる山中の道は敵味方の流した血で朱に染まっていた。

 二手に分かれた護衛の一隊を襲撃し互いに百名近い損害を出して勝利を得たが、我らの背後からはもう一つの一団が迫って来ている。

「動けぬ者には止めを刺せ。すぐにこの場を離れる」

 さとりと呼ばれる女の発した命令に敵味方の区別は無い。

 助命の叫び声が味方の負傷者を集めた一角からも上がるが、彼女はその声を気に止める素振りも見せず爪を噛み低い呻きを漏らした。

 この一団に標的とした徳川家康はいなかった。奴にまんまと出し抜かれた。


 徳川家康が安土城に入った時点でその供廻りが三十騎に満たないとの情報を得て、徳川家康討ち取りの命が自分に下された。

 与えられた手勢二百名のうちの百五十名を徳川家康討伐の為に堺へと走らせ、覚自身は五十名の配下と共に当初の予定通り比叡山の山中を目指した。


 六月二日、京の騒ぎに乗じて京の都を脱した協力者達も、その日の夕刻にはほぼ全員が合流場所に指定した比叡山山中へと辿り着いていた。

 そして我らはそこで逃れ来た彼等を全員その場で口封じのために殺した。

 同じ頃堺へ向かわせた一団からの報告が届く。

 徳川家康警護の人数が想定よりも遙かに多く数百にも達しており、襲撃を断念したと伝え来た。


 自身の護衛を務める手練れの者五名のみをその場に残し、討ち漏らした者がいないか数日その場で待機して確認してから合流せよと命じ、自分達は陽が落ちてから徳川家康の後を追った。


 徳川家康一行は織田信忠おだのぶただの馬廻り衆に守られており、宇治田原で合流した一団を加えて総数四百もの集団になっていた。

 その追跡は容易であったが、一行は我らの遙か先にいる。


 徳川家康を完全に補足したのは六月四日、伊賀山中の小城に一夜の宿を求めた事で彼等に追いつけた。

 翌日早朝、徳川家康は二隊に別れて進み始めた。我らの存在を土地の者に気づかれたのかも知れない。

 宇治田原で加わった七十名の地侍はその道筋に止まり、背後からの追撃を阻止する構え、すぐに山中を迂回して徳川家康の追尾を命じた。


 問題はどちらが徳川家康を含む一団かである。

 覚はより早く伊勢国へと抜ける一団に違いないと目星を付けた。仮に徳川家康がそこにおらねば後から来るもう一つの方を狙えばいい。

 

 そして鹿伏兎峠で徳川家康一行を待ち伏せた。

 この地を過ぎれば織田家に連なる関氏の城塞群が待ち受ける地域、ここが徳川家康を討取る最後の機会となる。

「ここで攻撃を仕掛ける」

「覚様、こちらにもかなりの被害が出ると思いますが、よろしいですか?」

 そう問うた一人を覚は指差した。

「そこのお前、一人で織田兵千人を倒す事が出来るか答えよ」

「出来ませぬ」

 そしてその隣、その隣と同じ質問を繰り返した。誰も出来ると答える者はいない。


「そうだ。我ら一人一人がそれぞれ千人の織田兵を討取るなど夢物語、されど徳川家康を守るあの者達は織田信忠の馬廻り衆。彼等が軍に入ればその一人一人が千人を率いる将となる。ゆえに敵を一人倒せば千人の兵を、二人倒せば二千人の兵を倒したのだと誇れ、まさに今こそがその千載一遇の機会」


「覚様、我ら与えられた使命を果たします」

「それでいい。我らは戦い続ける事でその生を保証されているのだ。ここで何もせず戻れば無用者として処断されよう。私にもお前達にも逃げ場など存在しない。生きたければ戦って戦い続けて生き残れ。それが我らの掟ぞ」


 兵達が道を進む一団に攻撃を仕掛けるべく一斉に斜面を駈け下りていく。

 すぐに激しい斬り合いが始まった。

 護衛の手練れ三人に守られながら、覚はその光景を笑みを浮かべながら見下ろしていた。敵味方相当数の死傷者を出して戦いは終わった。

 そして息のある織田者が徳川家康の所在を吐いた。


 徳川家康は既に伊勢国へと逃れた事が判明した。

 家康は遠回りの道を選んだ集団の方にまず入り、途中で馬に乗り換え二つの集団を追い越して一気に伊勢国へと駆け抜けていたのだ。

 二つの集団のどちらかに居ると思わせて、そのどちらともが囮であった。

 最早これ以上の戦いは無意味だった。覚はすぐに撤収の命を下した。


          *          *


 徳川家康襲撃に失敗してから三日間、夜の闇の中を移動した。我らはそういう訓練を何年も積み重ねて来た。

 六月八日、覚率いる一団はしばしの休息を取っていた。

 深い森の中、陽は差し込まぬが辺りは十分に明るい。かなり上の方からは風に靡く葉の音も見超えてくる。

 数人が寄り添いいくつかの小さな固まりになりながら眠りにつきはじめていた。

 無心となり目を閉じれば眠りは訪れる。


 覚は閉じていた目を開き、右手首に残る爪痕に目を止めた。

 これまで人の死は幾つも見て来た。目の前で死んでいく者達を笑いながら嘲ってきた。

 しかし何故と問いかけたあの少女の目、あの少女の顔だけが忘れようとしても記憶から消えない。

 京の二条御所から火車かしゃ様からの伝令として送られてきた名も知らぬ少女。

 数年前の志に燃えていた汚れない自分の姿がその娘と重なったのかもしれない。


 石山本願寺に立て籠もり織田軍と最後まで戦い続けた我らの受け入れを各地の本願寺勢力は拒絶した。我らが宗主本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)の命に従わず義絶された本願寺教如ほんがんじきょうにょ率いる一団だったからだ。

 紀州国鷺ノ森道場へと退避した本願寺顕如の顔色を覗ったのだろう。


 朝廷を介しての織田との和議といっても我らは敗残の兵であった。

 落ちていく先々で衣食住を優遇されたのは教如とその取り巻きだけで、兵の殆どは夜の闇の中で互いの食料や水を奪い合った。


 そんな中非力な女の身は男共の欲望の格好の標的であり、食料や水を体の代価としてあてがわれる時はまだましで、大抵は力尽くで襲われた。

 仲間と思っていた者達に裏切られたあの夜の事は絶対に忘れられない。

 恐怖で声も出せなかった。

 なぜ、泣きながら何度も心の声は代る代る自分の体にのしかかってくる男達の息づかいに問うていた。

 怯える日々は繰り返し、いつしか仏敵織田信長を倒す戦いに身を投じたはずの自分は、ただ日々の生を繋ぐだけの存在になり果てていた。


 私と同じく目的を失い流浪する人々、それでも三千に達する程の人々が集団として纏まっていたのは本願寺教如が我らと共にあったからだ。

 彼が導いてくれると信じ、それを唯一の拠り所としていた。

 しかしその教如も我らをあっけなく捨てた。


 代わりに現れたのがあの方だった。

「織田と戦う軍となるのであれば皆生かしてやろう」

 それがあの方の第一声だった。

 これまでずっと織田と戦い続けてきたのだ。それに異を唱える者は私達の中には居なかった。ただ織田の強大な力の前に女子供に老人まで含めた三千という数はあまりに少ない。

 そういう声もあった。


 織田信長ただ一人に対し、皆で立ち向かうのだと告げられた。

 あの日から我らは石山本願寺に属する一向宗としてではなく、あの方に率いられる軍として生まれ変わった。

 そしてあの方は兵の指揮も知らぬ私に特別な役目を与えてくれた。

 この軍の掟の守護者としての地位をである。


 掟とはなんと甘美なものであろうか。

 兵達に課せられた軍律とは異なるもう一つの思想。

 その内容は織田と戦う意思ある限りその生を保証するという単純なもの。その意思の所在の有無は私の一存でどうとでもなるものだった。

 自分のこれまでの境遇をあの方に語った事はない。それでも彼は私にその役割を与えてくれたのだ。


 軍内の私の境遇はそれで一変した。

 私に対しこれまで非道な行いをし続けた者達を一人づつ掟に反したとして処断していった。血祭りに上げてやったのだ。

 これを繰り返すうちに皆が私に恐怖の視線を向けるようになった。それは今も変わらない。


 彼等はもう私の仲間ではない。それを選んだのは彼等の方だ。だから私にとって彼等はもうただ共に流浪しただけの者達。

 そして私の使命はその全員を死地へと追いやること。

 これは私がお前達から受けてきた事への復讐、私にとってはもう織田信長も徳川家康もどうでもいい存在。

 私の真の敵は今も寝食を共にしているお前達、お前達を滅ぼし尽くすことが私の生きがいなのだから。



 比叡山で出会ったあの少女、あの娘は自分が滅ぼすと決めた敵ではなかった。

 何故私を殺すのだ? そう問いかける表情が、あの顔が、あの目が自分の記憶から消えない。

 少女の胸を貫く私の刃を持つ手を掴んだ彼女の爪痕が今も生々しい。私はあの時汚れる前の自分を殺したのではないか?

 私は与えられた使命を果たした。そう使命だった。

 そう何度も何度も繰り返し自分に言い聞かせ、目を閉じ少女の記憶をかき消そうとする。

 閉じた目に苦痛が滲むが、覚の体の機能はその気持ちとは裏腹に少しづつ働きを緩め、その意識は夢の中へと落ちていった。

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