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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月七日
33/84

転換点

 六月七日同日、丹後国の長岡藤孝ながおかふじたかの元へ使者として明智光慶あけちみつよしが二十一騎の供回りを率いて旅立っていった。

 万が一の事をと考え一軍を付けてと斉藤利三さいとうとしみつは進言してきたが、とりまく情勢がそれを許さなかった。日野城の蒲生賢秀がもうかたひでより伊勢国の北畠信意きたばたけのぶおきが軍の動員を開始したと伝え来たからである。

 

 明智光秀は明智秀満あけちひでみつ溝尾茂朝みぞおしげともと協議し、供の者を二十騎に止めると決定したが、光慶の補佐役が未だ決まっていなかった。

 そんな時長浜城から兵糧輸送の任を帯びて妻木範賢つまぎのりたかが溝尾茂朝の元を訪れてきたのだった。

 彼の名を聞きその場の三人は揃えて手を打った。彼ならばとすぐに話は決まり、妻木範賢に事情を説明すると彼はそれを了承した。

 斉藤利三はこの引き抜きに頭を抱えるだろうが、こちらも重要な役目、この使者の任が終わり次第斉藤利三より託された長浜城城代の任は受けてもらう事になった。


 出立していく明智光慶を見送ったのは明智秀満だけだった。

 明智光秀は発ったという報告を屋敷で受けたのみである。

 おかしなもので、ここ数日光慶と共に過ごしただけで、名残を惜しむ様な感情が湧いてくるのを感じた自分を律する為、あえて見送りには出なかった。

 諸事の報告を携えて現れた溝尾茂朝を相手に、今も落ち着かぬ気持ちを酒を飲みながら誤魔化している。


「光慶様を見れば、長岡藤孝殿も心動かされると思います」

「事実を伝えその上で助勢を求める、長岡家も筒井家とも対等な立場で交渉せねばなるまい。利が欲しいと申すならば丹波国を差し出してもよい。我らはまた坂本の地からやり直せばよいのだ」


「明智が目指すは九州の地、それまでに得た所領は全て通過点でございましたな」

 思いもよらぬ彼の言葉に溝尾茂朝の顔を見た。彼は笑いながら話を続けた。

「商都博多を治めるとなれば山国の丹波国とは異なる新たな統治体制が必要になります。ここ安土城には港湾運営や貿易の記録などがあり、急ぎその写しも作らせています」

 九州の事など既に誰も口にしなくなっていた。

 この男は皆と語った夢を現実のものに変えるべく必要な事を今も準備しているのだ。実の所、重臣達皆が未来を見据えて動く中、この光秀だけが目の前の事に振り回されているのではないか? そう思うと恥ずかしい気分になる。


 急に改まった口調で溝尾茂朝が口を開いた。

「殿は今、天下に最も近い場所におられる。織田の全てを奪い尽くす覚悟をお持ち下されば、それは十分に可能だと申し上げておきます」


「この騒動は織田の大権を預かる者達が皆、軍など持たずに体一つでここ安土城へと集まり織田信長公の姿をその目で見ればすぐに終わる事なのだ。ただそれだけの事と言ってもいい」

「ただそれだけの事が何故こんなにも難しいのでしょう。明智を取り巻く現状はあまりに酷い有様ではないですか」


「織田家はいつの間にか外敵がある時にだけ結束している、そんな疑心暗鬼な集団に成り果てていたのだと思う。だからこそ誰かが再び強固な団結力を持つ織田家を蘇らさねばならぬのだ」

「それを明智が、殿がせねばならぬ理由は何でございますか?」

「織田家による天下統一を成すためだ庄兵衛。それは私だけだなく織田の臣皆が願う事なのだ。だから織田信長公に受けた大恩を裏切り、この織田の世を破壊するなど私には出来ぬ」


 そうきつく言い放ったが、溝尾茂朝はその言葉に動じるでもなくただ低い笑いを漏らした。

「私の心を試したか」


「今日が決断を下す最後の機会だと思いました。柴田勝家しばたかついえ羽柴秀吉はしばひでよしの反転までに美濃国と尾張国を押え、圧倒的な大軍を擁するにはぎりぎりではないかと」


 怒りの気持ちは起きなかった。彼に今述べた言葉の数々は、自身の気持ちの再確認でもあったからだ。

「もし京に駆けつけたのがこの光秀では無く柴田勝家殿であったなら、ここ安土城を含め織田家譜代衆は全てその元へと参じていただろう。それを考えるならば織田家に於ける明智の存在はまだ小さい。それを今実感するばかりだ」


「殿はもしや、柴田勝家殿と組むおつもりですか?」

「柴田勝家は実直な人物であり話して分からぬ人でもないが、懐柔策などは通じぬ相手であろうな。いざ決戦と申してくるかもしれぬし、この件はもう少し考えてみたい」


「分かりました。では報告を始めます」

 溝尾茂朝より伝えられたのは美濃国と尾張国で起こった小競り合いの詳細、堺に滞在していた徳川家康一行の行方が消えた事などであった。

 この件に家康が関わっているのか? そして彼が今後の織田家にどういう影響を及ぼすのかは今は分からない。

 それを探る任に溝尾茂朝は水野守隆みずのもりたかの名を出してきた。

 彼の知行地は三河国にあり、徳川家の親族にも連なる人物。彼に対してどのような態度を取るかで徳川家康の腹も読めるのではないかとである。

 明智光秀もこれには納得し、すぐに手配を指示した。


「殿は面白い者達をお味方に加えられました」

「あの娘達の事か」

「坂本城より比叡山へと登らせた一隊の報告では、報告のあった場所に四十人近い数の遺体を発見したとのこと」

「織田信長公襲撃に関わった者達の口封じか、よほどその素性を隠したいらしい」

「そちらの件は竹中重矩たけなかしげのり殿の報告待ちになりますが、目的を果たせると思われますか?」

「人は一人では何も成しえぬかも知れぬ。それが二人三人と集まれば思わぬ力を発揮できるものだ。それが人の力というものだろう」

「あの者達三人に比べて、ここ安土城には一万を超える人々が己が未来を切り開こうと集っております。負けるわけには参りませぬな」

「そうだな。その通りだ」


 何と言えば良いのか、彼にうまくやり込められた様だが、それでも気分は心地よかった。報告を終え一礼して立ち上がる溝尾茂朝を呼び止めた。

「庄兵衛、礼を言う。とても良き酒であった」


          *          *


 夕刻、琵琶湖の西、大溝城よりの使者を迎えた。

「大溝城主津田昌澄(つだまさずみ)の名代、津田信春つだのぶなはると申します。我ら津田一族、明智光秀殿に合力致します」

 その第一声に明智光秀は異を唱える。

「大溝城主は津田信澄つだのぶすみであろう」

「津田信澄は大阪にて神戸信孝かんべのぶたか丹羽長秀にわながひでに討たれました。昌澄はその嫡男でございます」

「津田信澄が死んだのか」


 その報告に明智光秀は天を仰ぎ目を閉じた。神戸信孝自ら同じ織田一族である津田信澄を討つとは、北畠信意に続き神戸信孝までもが、時期織田家の後継者候補二人が揃いも揃って、なんという軽挙を犯すのか。


「失礼だが、津田昌澄殿は幾つになられる?」

「今年で三つになる幼子でございます」

「先に申しておくが、明智謀反は誤報である。その証として信春殿にはこれより織田信長公にお会いして頂く」

「なんですと。織田信長公がご存命であられる? ならば我が主は何故死なねばならなかったのですか」 


 津田信春はお鍋の方に挨拶を述べた後、織田信長公の眠る居室に一人通された。

 織田信長公の今の状況を集まった近江衆達には見せてはいないが、津田家は織田一族である。今の状況を包み隠さず伝えるが筋と明智光秀も考えたからである。


 その後津田信春は神妙な面持ちで明智光秀の前に立ち、明智の先鋒を津田一族が引き受けるとまで申してきたのである。

 明智光秀も彼のその言葉を受け入れ、大溝城に軍の動員を命じた。



 情勢は大きく変わった。

 羽柴秀吉、柴田勝家と明智が対峙し、それを織田の後継者二人による仲裁にて収めるという目論見が完全に崩れ、そればかりか大阪の二万の兵を率いた神戸信孝と丹羽長秀の軍が動く。

 これを放置すれば京を彼等に押えられ、明智の勢力圏は各個に分断されてしまう。すぐに動き、神戸信孝を軍を以て牽制せねばならない。

 直接軍がぶつかり合う大戦を避けるためにも、彼等の後方を攪乱する必要が出てきた。

 長宗我部や雑賀を味方に付け、神戸信孝の後方を脅かせる事は出来ないか、これについては謀反人明智光秀としての風聞を利用すれば彼等の助力を得られるかもしれない。

 明智光秀はすぐに書を認めて紀州雑賀への使者を発した。


 大きく方針を転換せねばならない。明智光秀は考え方を改めた。

 羽柴秀吉と神戸信孝を明智が軍を以て押えている間に、織田家の筆頭家老でもある柴田勝家には安土城へと入城して頂く。

 その後、織田家譜代衆を取り込んだ柴田勝家に降伏する形で彼と手を組み、柴田勝家の助力を得て羽柴、神戸の両軍との和議にて事を収めるという方針にである。


 方針を定めると、長浜城の斉藤利三には最低限の治安維持の軍を残し安土城へと帰還せよと命じ、明智光秀自身は安土城を離れる旨をお鍋の方へと伝えたのであった。


「光秀、明日城を出ると申すのですか」

 明智光秀の突然の出陣報告に驚きを隠せないお鍋の方とお市様の二人。


「安土城には明智秀満と三千の兵を残します。ご安心下さい」

「私は恐ろしいのです。安土の城が賊に襲撃されるなど考えたことも無かった。光秀は私達を残し一体何処へ向かうというのですか」


「神戸信孝と丹羽長秀の手により織田の一族津田信澄が死にました。私の言葉も奥方様の言葉も彼等には通じなかった様でございます。彼等がこれ以上騒ぎを大きくせぬよう、軍を以て押えて参ります」


 そしてと付け加え、明智光秀は柴田勝家に対する方針変更を二人に伝えた。

「柴田勝家殿にはここ安土城へと入って頂こうと考えています。

 彼が安土城に入ったと知れば美濃国や尾張国へと逃げた織田家譜代衆の方々もその元へと集うと思われます。明智は柴田殿の元に降るという形でこの事態の幕引きを図ります」


「柴田勝家が我らを裏切らぬと言い切れますか?」

「柴田勝家殿とその与力衆は皆織田の本国衆、各地を攻める軍団の中でも最も織田家に古くから仕える者達の集まりであり、織田信長公との縁も深い。

 安土城の織田信長公を排し、その座を狙うなど考える事はありますまい」


「羽柴秀吉はどうするのですか?」

 柴田勝家と羽柴秀吉の対立は織田家中の者なら知っている。

 天正五年の北陸での戦最中、二人の喧嘩が元で羽柴秀吉が軍を退いたのは大きな事件として未だ記憶に新しいからだ。


「明智と柴田が結び、そこに織田家譜代衆が集うならば、羽柴秀吉は大人しく従います。羽柴殿の風下に立つ事を柴田殿は決して認めませぬが、その逆は可能であると私は考えています」

「わかりました。安土城に参った柴田勝家の説得はこのお市が引き受けましょう」

「光秀、事を終えたら必ず戻って来なさい。よいですね」

「はい。奥方様のお言葉、この光秀肝に銘じておきまする」



 二人との対面が終わると、明智光秀は織田信長公の元へと向かった。

 これが信長公との最後の対面になるかもしれぬと感じたからだった。

 この頃になるともう織田信長公の快癒は絶望的である事も疑いなくなり、死の床をただ待つだけであるという事実を受け入れざるを得なくなっていた。

 目を閉じたままの織田信長公の横に座し、これから自分が成す事を言葉では無く明智光秀は心で、そして自身を納得させる意味も込めて彼に語って聞かせたのである。

 側で見守る曲直瀬道三まなせどうさんはすでに織田信長公への治療行為を止めていた。

 医師として出来る事はもう無いと判断してのことであった。


 退室際、曲直瀬道三はお鍋の方の異変について、彼の所見を明智光秀に述べた。

「私は奥方様の事が気がかりです」

「本日の対面、まるで生気を抜かれたが如く奥方様は輝きを失われておられた」

「心が壊れていく病なのだと思います」


 お鍋の方の変貌ぶりを曲直瀬道三は心の病という解釈で自分に告げたのである。

「本能寺にて信長公の小姓をされていた奥方様の子息が亡くなられているとお聞きしました。その事に加えて信長公が死していくのを見ているだけ、その絶望感が奥方様の心を壊していくのでしょう。

 そして先日お城で多くの者が死にました。その事が更に毒となり心を蝕んでいるのです。織田信長公が死したとき、毒を溜め込んだ袋が破れ、心も死んでしまうのではないかと」


「道三殿は病と申された。なればそれを治す術もお持ちではないのですか?」

「薬で人の心を蘇らせるのは難しゅうございます。もし治療する術があるとするならば、それは奥方様が望む吉報を届ける事ぐらいではないでしょうか」


 医師であってもここ安土城にあれば、今何が起こっているのかぐらいは察するのであろう。織田の諸将がここ安土城に集い、奥方様の前で織田は盤石であるという姿を見せるしかないと彼は言っているのかも知れない。

 出来るならそれを自分も成したい。

 明智光秀は視線を外へ、遙か遠くへと飛ばした。

「柴田殿、羽柴殿、あなた達は今どうしておられるのですか」

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