勅使
昨夜の安土城の惨状は未だその跡を随所に残す。
二度とあのような失態を演じぬ為にも本丸内には明智秀満と一千の兵を常駐させ、より厳重な警備強化を図った。
「朝廷からの使者をどこで迎えましょうか」
溝尾茂朝が困り顔で明智光秀に尋ねきた。
六月七日、京の誠仁親王の使者として吉田兼見が安土城を訪れたのである。報告では彼は南の總見寺口からこちらを目指している。
彼の足ではここに辿り着くまでにまだかなりの時がある。
今は疎遠となってはいるが、吉田兼見とは親しく付き合った過去がある。朝廷が彼を使者に任じたのもその事を考慮してだろう。
なればこちらもその事を利用せねばならない。
彼を接待し酒を交す席ともなれば、京の襲撃事件への朝廷の関与の確認やそこ事への見解について有益な情報が得られるかも知れない。
しかし接待か、城内には下女もおらず、近郷へ食材を集めに走る時も無い。彼の機嫌を損ねる様なことでもあれば目論見が崩れてしまうだろう。
溝尾茂朝はすでに配下数名と城の蔵へと駆け込んで、何やら使えるものは無いかと物色している。その事はもう彼に任せるしかない。
しかしこのような時にこんな馬鹿げた事に手を取られるとは、さすがの光秀もしばらく頭を抱えた。
しばらくして汁物が一品運ばれてきた。味見をという事なのだろう。
二度椀に口をつけた。美味い。我々の口に合うという事は、京公家には不評である。
「少し塩味を薄めに、京公家は薄味を好む」
吉田兼見の登城の様子は次々と伝えられた。
彼は途中で何度も休憩を取り、そしてようやく接待のために用意した二ノ丸の屋敷へと辿り着いた。
「ここの石段は何度登ってもつらいの」
整えた一室で平伏する明智光秀を前にしての吉田兼見の第一声がそれであった。
まず彼は誠仁親王の代理として二条御所での救出劇の礼を述べ明智光秀に緞子を一巻送った。その後、明智光秀を京の守護者と称え、誠仁親王の親王使ではなく正親町天皇の勅命として京の統治を明智光秀に行う様にと命じたのである。
朝廷が明智光秀を特別視するには理由がある。
丹波国平定を織田信長公より任じられた明智光秀は、丹波国東郡と京北に勢力を持つ宇都氏討伐し、奪われていた山国荘と呼ばれる禁裏御料所を朝廷へと返還したのである。
また、同地の治安維持のために周山城を築き重臣明智光忠をそこに配した。
明智光秀のこの行為に感銘を受けた正親町天皇は、織田信長の臣下の身分である光秀に直接恩賞を下賜するという異例の措置を行った。
この時から明智光秀は織田信長と朝廷との単なる橋渡し役ではなく、朝廷に忠疑心を持つ良臣であると見られる様になったのである。
しかし今回の事はそう簡単では無い。
天皇自らが今の事態に対して自分を頼る気持ちは理解出来る。だがその勅命を受ける事は明智の織田への反逆そのものであるからだ。
織田信長公が亡くなっていると朝廷は考えている。
なれば京の統治は織田の次の後継者が成すべきであるはずなのに、勅命という強引なやり方でそれを自分にせよという。
朝廷がそれを急ぐ原因は下京から焼け出され、内裏へと押しかけた京の民数千の存在であった。このまま施しを続ければ朝廷の蔵はじきに空になり銭の蓄えも消える。
吉田兼見は、彼等を早く何とかしてくれと明智光秀に訴えたのである。
今一番大事なのは織田家の混乱の沈静。
織田領の一都市にすぎぬ京の事などその内の一つに過ぎぬのに、朝廷にとっては京こそが世界の全てなのである。
なんと視野の狭い者達であろうか、だが京の民に心を砕く姿勢だけは評価に値する。明智見秀は京の統治は織田の臣の責務として行い、勅命については辞退すると伝えた。
その言葉に吉田兼見は首を傾げたが、京の統治を光秀が了承しているので形式上それを拒絶して見せたと理解した様である。
勅使の儀が終わると明智光秀は膳を用意した別室へと彼を招きその労を労った。
勅使の労いも儀式の一つであり、そこで出される膳にも本来は品数なりの細かい決め事がある。当然溝尾茂朝の用意した膳はそれに即したものであるはずがない。
その分盛り付けは見事にされており、一応の体裁は整えてある。あとはこの光秀の力量次第という事、酒を勧めとにかくなし崩し的に吉田兼見に箸を運ばせる。
意外にも彼は焼き握り飯が大層お気に召したらしく上機嫌である。
思惑通り酒が進むと彼の口も徐々に緩み始める。
吉田兼見は織田信長の朝廷を軽んずるこれまでの行動を明智光秀の前で存分に批判してみせた。
「京の都では今、朝敵信長成敗の儀が執り行われ、公家達による盛大な酒宴が催されているはずじゃ」
酒宴、朝廷は民を救い財政が困窮していると先程申したばかりであるのに、飢える民が暮らす仮小屋の壁一枚隔てた向こうで公家達が踊り狂う姿が容易に目に浮かぶ。
そしてその酒宴の名目が朝敵討伐? この光秀を前に何を言っているのか。
「明智殿が信長父子を成敗したと、京では下々までもが噂しておりまするぞ」
「私が謀反を企むなど、あろうはずもない」
今更何をと言わんばかりに吉田兼見は杯を手に笑い出した。
「誰の手であれ織田信長は死んだ。正親町天皇はこの機に誠仁親王とその一派を粛正する腹づもり」
「誠仁親王への譲位の宣言を反故にされるといわれるのですか」
「あやつは織田信長に頼りすぎたのだ。それを快く思わぬ者は内裏には多い。すでに天皇派へと鞍替えする者も多く出ておる」
吉田兼見は誠仁親王側の人間かと思ったが、すでに天皇派に鞍替えしたという事だろう。そして自分にも天皇側に協力せよと言ってきている。光秀にとってはどうでもよい事だった。
話を自分が知りたい事へと誘導する。
「本能寺へ織田信長公が宿泊されたのを朝廷はいつお知りになられたのですか?」
「はて、今更そのような。確か先月の二十九日、信長の入京をなぜ知らせぬと正親町天皇に厳しい叱責を受けた。その日は御所も内裏も蜂の巣をつついた様な大騒ぎであったな」
「私は朝廷が織田信長公襲撃を画策したのではと思っておりました」
「織田信長に盾突いた者は皆一族皆殺しにされる。信長憎しと陰で囁いても亡き者にしようと行動できる者など朝廷には一人もおりはせぬ」
彼の言葉で織田信長公襲撃に朝廷の関与という疑いは消えた。だがこの胸の内に広がる嫌悪感は何だ。
気持ちを抑えながら、明智光秀はそのまま吉田兼見に語らせた。
「朝廷は毛利と密かに通じ、織田の情報を流しておった。しかし毛利の旗色は悪くなるばかり。そこへ京での光秀殿の織田信長襲撃、見事なものだと喝采を送る声が絶えぬ」
毛利との内通、明智光秀の顔色が厳しくなっていくのにも気づかず、吉田兼見の笑い声は止まらない。
「この城の主となった今、明智光秀殿は天下を目指すおつもりであろう。朝廷は喜んでその後ろ盾になりましょうぞ」
なるほど、吉田兼見は自分がこの安土城を武力で奪い取ったと思っているのだ。
これ以上の会話は不要である。
「兼見殿、織田信長公は生きてここ安土城におられます。本日の私はその名代に過ぎませぬ」
吉田兼見の箸が手元から離れ、その場の空気が凍り付く。
慌てて杯の酒を口に含む彼の手が大きく震え出した。
「京の大事を免れた織田信長公への祝賀の使者、誠にご苦労でございました。
朝廷への援助の件と本日の謝礼につきましては、改めて我が主の名で献上させて頂きます」
自分の言葉の意味を彼はすぐに察した。
「そうじゃ、そうじゃの。織田信長公にはよしなに伝えて頂きたい」
吉田兼見は逃げ出すように下城すると、供の大半に京へ向け安土城の軍が動かぬかを監視させると、自身は馬に飛び乗り急ぎ京を目指した。
織田信長の生存、朝廷は大局を見誤った。このこと早急に帝に知らせねば、馬に鞭打つ彼の表情は恐怖で蒼白のままであった。




