大吉寺
長浜城の北東の山間に位置する大吉寺。
ここは浅井家に加担したとして十年も前に織田信長によって破却され主要な建物はほぼ消失し、今では石垣跡と僅かな僧坊を残すのみの荒れ寺である。
長浜城を退去した羽柴秀吉の妻おねとそれに従う少数の供の者が今ここにある。
崩れた山門跡を守る羽柴の兵に孝は一別すると、彼女は山道を糧食を満載した牛の引く荷車を連れながら登っていた。
途中呼び集めた兵達に本堂跡地のある広場で荷下ろしさせ、荷車を運ぶ手助けをしてくれた近郷の者達にはそれなりの手当を与え、人目に付かぬ様陽が落ちてから村へ戻るようにと伝えた。
少し下った池の側の馬場から湧き水を汲んだ桶を両手で抱えながら、よたよたと歩くおねの姿が目に入る。
孝は慌てて人を呼んだが女達の姿がどこにも見えない。声に応えて下りて来たのは上で荷下ろししていた兵達だけであった。
おねは水桶を兵の一人に託すと、孝についてこいと彼女の手を引いた。
「孝、あなたの留守の間に女達の殆どは里へ帰しました。母様の世話に残した四人も今は山菜などを摘みにでています。彼女達が戻るにはまだ少し時間がかかるでしょう」
歩きながらおね様は孝にそう言った。
彼女は孝が残すと決めた世話の者の人数を更に減らし、その分を自らが働く事で補うつもりでいるのだ。
大吉寺に身を寄せた当初には、二百人近い数の供の者達の姿がここにはあったが、城を出るときに持ち出せた物は殆ど無く、彼等全てを養うに窮する有様であった。
すぐに孝はここに残る者の数を、母君の世話をする女達二十人と警護の兵士三十人のみと定め、羽柴一族に連なる者はこの場から優先して追い出したのである。
明智は今は敵対ではないものの、羽柴一族が一カ所に集まるのは危険と考えての事だった。
それでも残った者を食わせていくには物資が足りず、孝はこの状況を打開する為に明智の援助を受けるべきとおねに申したが、明智は敵と断じるおねに献策を一蹴され、その事では二人口論となった。
本堂跡の広場まで来ると孝が運び込んだ積み荷におねが気づいた。
「その荷はどうしたのです。もしや明智に施しを求めたのですか」
「いいえおね様、これは私が長浜城へと赴き明智より取り返してきた長浜城の物資でございます」
孝のむきになった言い方に、おねは一度溜息をついた。
「孝は狡い言い方をする。ですが今の我らにその荷は百万の味方にも値しますね」
その言葉が示すように、荷下ろしする兵達からは活気ある声が上がっている。
「少し話をしませんか」
おねは鐘楼跡の石垣に両足を投げ出して座り込み、孝にも隣に座れと促す。
「今の我らの使命は殿が戻られるまでの間生き延びること。
最後に勝つために今は恥や苦しみにも耐えねばならぬのだと申したお前の言葉は心に響きました。私が明智に対して意地を張らずに城を出る準備を少しでも早くしておけば、せめて皆の口に入る物だけは確保できたでしょうに」
「私も生意気を申しました。申し訳ございません」
「私は弱くなったかもしれません。皆が私について来た事を後悔し、陰では嘆いているのではとそんな事ばかりをかんがえてしまいます」
「いいえ、そんな事はありません。皆おね様が好きなのです。私もおね様が大好きでございます」
「ここに来てからの孝はとても頼もしい。まるで別人の様にも見える」
おね様は孝の行動を褒めるが、そんな姿に孝の方はというと申し訳なさが込み上げていた。
孝が長浜城へと赴いたのは、何も皆の為にと思い至ったからでは無いからだ。
長浜城へと想いを馳せた時、孝の中に湧き上がったのは別な強い想いだった。
あの方は今何処に?
そう思うともう夢中で誰の言葉も聞こえてはいなかった。
今振り返ると斉藤利三の前でとった行動は滑稽で恥ずかしささえ感じる。
いけない。考え始めるとまたその事で頭が一杯になってしまう。
気持ちを制しようとしても、もう顔は耳まで真っ赤になっていく。
頬に手を当てて俯く自分の顔をおね様は首を傾げる様にして覗き込む。孝は恥ずかしくて慌てて背を向けたがそういう変化はすぐに気づかれてしまうようだ。
「孝、あなた」
「いえ、あの」
「好きな殿方でも出来ましたか? 長浜の城に走ったのには別な意味もあったのですね」
おね様、鋭すぎます。
「私の様な年増の変わり者、好いてくれる殿方なぞおりませぬ」
「当ててみましょうか」
否定しようとした自分におね様は意地悪く言う。胸の中の鼓動が大きくなる。
「竹中重矩殿ですね」
どうして? 孝は黙って頷いて見せた。
言い当てられて驚きよりも嬉しさが気持ちの中には溢れてきた。まるで当人に自ら告白した様な心地よさがすっと体を突き抜けていった。
孝の態度の変貌ぶりはここ数日の間の事であり、彼女が言葉を交した男性といえば竹中重矩と斉藤利三ぐらいである。
的中率は二分の一、おねが適当に二人のうちの一人の名を出した事にこの時孝は気づいてもいなかった。
「その事はしばし私と孝との秘密ですね」
おね様の口元は緩み、自分を見る目は笑っていた。
「もう、おね様」
孝は口を尖らせ雑草をむしり、石垣の下へと放り投げた。
炊煙が上がる。
僅かの食べ物を細々と食いつなぐのでは無く普通の食事である。
その場でおねは明日から山の獣や鳥を捕る事を許可すると伝えると、兵達からは大きな歓声が上がった。
すぐに兵達の中から狩猟の経験のある者が選ばれ、食を摂るおねや孝達の所へと報告に現れた。
城勤めとは環境が異なる。
こういう事は全て兵達自身に決めさせ、その報告を受ける方がうまくいくだろうと話し合った。兵達同士の結束を固めるためにも日常の事は彼等が話し合って決めるのが良いだろうと考えたのである。
食を摂る兵達の片隅では夜番に立つ者が自作した片屋根の寝所にて夜具の布一枚をかぶってもう眠りについている。
警備の兵の集中力の維持のために、城番時の丸一日交替を改めて三交代制にしたのも兵達が独自に決めた事だった。
* *
夜が更け形だけの建物が残る坊舎にて母君が眠りにつくとその隅でおねと孝は二人で話し合った。
「どの様な形であれ長浜の城を訪れたのです。孝であれば何か気づいたでしょう」
「城には殆ど兵は残っていない様でした。民を挑発して北で戦の準備を整えているという噂も耳にしました」
「北、であれば柴田勝家を警戒しての事ですね」
「おね様、織田信長公がご無事ならば明智軍はなぜお味方の城を落とし、今また戦いに備えねばならぬのでしょう。本当に織田信長公は安土城におられるのでしょうか?」
「長浜城にて斉藤利三に信様との面会を求めましたが断られました。ですが私は信様は安土城におられると確信している」
「どうしてそう思われるのですか?」
「それは明智軍が安土城を守るようにいつまでも居座り続けているからです。安土城は明智の勢力圏の東の端の出城の様なもの、安土城占領の目的を果たしたのであれば旗下の一軍を置き、京周辺に本陣を敷くのが常道、これをせぬのは戦上手の明智光秀らしからぬ事だと思います。
それはつまり、彼の拠点である丹波国や京を犠牲にしてでも守らねばならぬものが安土城にあるという証です」
おねは少し躊躇ったが、孝に言葉を続けた。
「京で信様は何者かに襲われ明智軍の手によって救い出されたというのが事実であるならば、信様は今お怪我をされている。しかもそれは命に関わるような深刻なものかもしれない」
「確かに、織田信長公が健在で姿を現せば、その時点で明智謀反の嫌疑は晴れます。ですが未だにそうはなっていない。信長公が衆目の前に姿を現せない状況である。つまりおね様の考え通りならば今の明智軍の動きも理解出来ます。これは織田家にとっての一大事」
「そうです。この状況を今の私達ではどうする事も出来ません。
この事を早く我が殿に伝え、明智と共に織田の混乱を収めて頂くのです。それこそが信様に対する忠義の証であり、織田の為になるのだと思います」
「ですが秀吉様も皆様も、あの大国毛利家と戦の最中、知らせが届いたとして無事に戻れるのか心配でございます」
「ああ、竹中重治が生きておれば。あの者ならば殿をこの窮地から脱し、必ず最良な方向へと導いてくれたに違いないのに」
「おね様、秀吉様には長秀様や戦上手と噂の宮部様もおられます。それに竹中様が推挙されたという黒田という方も、きっと無事に戻られますよ」
今は羽柴秀吉の元へと知らせを届けるのが何よりの大事。
おねが小さな紙に苦心して夫秀吉に向けての文を作成している間に、孝は兵達の中から馬を操れる健脚の者二人を選び出した。
「この文はよほど信頼できる者にしか見せられぬ故、苦心して隠し肌身離さず持つのです。ただ姫路城へと駆けるのではなく、直接我が殿羽柴秀吉か弟の羽柴秀長の元へと届けるのですよ」
二人の兵が頷くのを確認しておねが続ける。
「明智がお味方でるというのは私達の予測に過ぎません。ですから明智の勢力圏を過ぎるまで馬を決して使ってはならぬ。播磨国に入れば街道に織田軍の連絡の為の番所が設けられています。そこで馬を借りなさい」
それから思い立った様にもう一言付け加えた。
あなた達二人が本物の伝令か怪しまれた際にはこう伝えて下さい。
「兄の定家の今年生まれた辰之助は総持寺に預けてあるのでご安心されよと。それで伝わるでしょう」
その夜のうちに選ばれた二人の兵は鎧を脱ぎ捨て民に化け、大吉寺を後にした。




