竹中重矩
風が少し強い。
六月六日はここ数日の慌ただしさとは裏腹に穏やかな朝を迎え、そして静かに過ぎていくのではないかと思われた。
佐和山城、長浜城と連戦であった兵達には十分な休養を取らせるよう命じており、昼時にもなると炊飯の煙が城の至る所から上がり始める。
明智光秀の近江国平定は電撃的な速さで進み、全てが光秀の思惑通りに進んでいるように見えるが、実際にはそうではなかった。
一番大きな失態は織田家譜代衆の取り込みの失敗。
尾張国や美濃国に逃れた彼等からの返答は一切無く、明智の組下となり毛利攻めの先陣を務めるはずであった摂津の高山重友、中川清秀の二人は、明智光秀の召集命令に従わず、頼みの綱であった丹後国の長岡藤孝は、使者として送った沼田光友に会おうともせずに彼を追い返したのである。
佐和山城戦以降安土城へと転進していた井戸良弘の筒井軍は、本日帰還するとの申し出があった。その主である筒井順慶には藤田行政を送り、もう一度正式に助力を仰がねばなるまい。
美濃国では大きな混乱が起きていた。
岐阜城で斉藤道三の遺児、斉藤利尭が治安維持の名目で城を占拠し強引に軍備を整え始め、そのすぐ北では織田信長公より追放処分を受けていた安藤守就が一族郎党を率いて旧領に戻り廃城となった北方城を占拠し、旧安藤領を治める稲葉一鉄がその討伐に向かう動きを見せている。
織田領内の各城の備蓄兵糧は摂津の兵站庫への供出で僅かしかなく、そこに強引な徴兵と略奪まがいの徴収を行い、地侍や農民達による大規模な一揆を誘発する事態にも陥った。
明智秀満が長浜城より訪れた竹中重矩を伴って現れた。
彼は三十七歳と聞くが、細顔で凜々しく年齢よりも若く見える顔立ちである。
「織田信長公の元で小姓を務めた時期もありますが、織田との縁も切れ禄を奪われた今の私など、本来ならば安土城に踏み入ることすら許されぬ身分、織田信長公への目通りは何かの意図があっての事と推察致します」
彼の言う通り、長浜城の斉藤利三より竹中の姓を聞き、竹中半兵衛重治の事を思い出した。
そして斉藤利三はその弟である竹中重矩を安土城へと送るので、我らの協力者とすべしと進言してきたのである。
斉藤利三の言を採用し、明智光秀はかれを味方に引き込むべく、まずは織田信長公との面会をお鍋の方に願ったのである。
「明智謀反である巷の声が偽りであるという事実をまずは貴殿に知って頂きたかった。その上で我ら明智に竹中殿の助力をお願いしたいのです」
「織田信長公の姿を直接この目で見て、斉藤利三殿が私に申したことに嘘偽りは無いと知りました。ですが私には率いる手勢もありません。明智に私一人参じて何のお役に立てるでしょうか?」
人材不足は何も軍事行動に限らない。
もう一つ手を打たねばならぬ事が我らにはある。織田信長公襲撃の主犯探索である。
「私に織田信長公襲撃犯の探索を?」
明智光秀が彼に託す内容の重要さに竹中重矩は沈黙したままで会ったが、何としても頷いて貰わねばならぬ。
深々と頭を下げて動かぬ明智光秀の姿に彼は遂には折れ、明智光秀は彼から助力の言葉を引き出したのであった。
「私に出来る事があるならば、喜んで力になりたいと思います」
少しわざとらしい演出だった。明智光秀は竹中重矩の手を取り、改めて感謝の意を示した。
「我らの元には敵方と行動を共にした雑賀衆の生き残りがいます。その足取りを辿れば何か手掛かりが掴めるのではないかと考えています。そこの秀満を介して引き合わせるので行動を共にして頂きたい」
ほどなく筒井軍が安土城を退去すると告げられた。
彼等を見送るために、明智光秀はその場を後にした。
* *
明智光秀と別れた竹中重矩は引き連れて来た五人の家臣達に、自分はこれより織田の密命を受け単独で行動する事を伝え、公には自分は領内の一揆討伐にて討ち死にしたという事にせよと伝えた。
竹中の家は竹中重利を後見として兄竹中重治の子である竹中重門に継ぐようにと認めた書を託すとし、五人に美濃国菩提山城への帰還を命じたが、それに納得しない家臣もいた。
不和矢足もその一人である。
「兄君の重治様の時は静養先の京屋敷から我らに一言も無く抜け出され、我ら懸命に探しましたが見つけける事叶わず、三木城攻めの羽柴様より竹中重治が陣中に現れそのまま亡くなったと伝えられ、我らその最期を看取る事もできませなんだ。
今また、その弟君であるあなたが自分は死んだと思うてここで別れよと我らに申す。承服出来るわけがありますまい」
彼は竹中家の筆頭家臣として、そして竹中重矩の後見としてこれまで自分に尽くしてきてくれた。頑なに自分の言葉に首を振る彼に向け、竹中重矩は心の内を彼に打ち明けた。
「竹中家は本来兄が重治が継ぐはずでした。
稲葉山城乗っ取り以降、当時の斉藤家主君斉藤龍興の害が竹中家に及ばぬように兄が隠棲したのは一族の誰もが知るところ。
斉藤家が滅びた時、私は兄に家督を返そうとしたが兄はそれを拒んだ。そしてその理由を告げぬまま世を去ってしまったのです。私は今でも竹中家の家督は兄の血筋が受け継ぐべきだと思っています」
「我ら一同、殿の元で仕えたことを恥じた事はありませぬ。長浜城では皆、殿と共に戦い果てようとも誓いました。それは忘れないで頂きたい」
「兄重治は私など到底及ばぬ偉大な男でした。
兄が得るべきものをただ与えられた。そんな気持ちをずっと持ち続けてきました。兄が当主を務めていれば竹中家はもっと隆盛したのではないか、私の様な凡庸が継いだばかりに竹中家も領民にも苦しい思いをさせてしまっていると。
重門が元服するまでは竹中の家を私が守ろうと決めていましたが、今日承った織田の密命を果たせば竹中家を織田家の末席に加え、家臣や領民達の困窮を救う一手になるかもしれない。
私はこの機会に賭けてみようと思うのです」
「竹中の当主である事が、殿の重荷となっていたのですな。お気持ちは分かりました。そして殿が竹中家を捨てるのでは無く我らや領民達を救うためにそうしようと考えている事も。
我ら重門様を立てて竹中の家を守ります。その使命を果たされたなら、必ず我らの元へとお帰り下さい」
竹中重矩は自分に従って来てくれた五人の家臣一人一人に感謝の言葉を述べて別れた。安土城を去る彼等は何度もこちらを振り返り、そして見えなくなった。
「良い家臣をお持ちですね」
明智秀満が歩み寄り声を掛けてきた。
「私には過ぎた者達ですよ」
「先程のやり取りで竹中殿の人となりを知ることが出来た。私も安心して彼女達を託せる」
「彼女、雑賀者の事ですか?」
「会われると驚くと思いますよ」
何者かと竹中重矩が問うても明智秀満は会わせるのは二人だけと答えるだけで、それ以上は教えてはくれなかった。
余程私の驚く顔が見たいのだろうと思ったが、まずはこれまでの経緯、出来るだけ多くの情報を知っておきたい。
そう申し出ると明智光秀と宿老達が宿舎としている本丸の屋敷の一つに案内され、明智秀満から京に始まる一連の事件の詳細を聴取したのである。
彼が語る出来事の一つ一つが風聞とは異なり、竹中重矩にとっては衝撃的であった。
事件を頭の中に入れながら、彼はそれを引き出すための数語を用意した帳面に書き留めていった。
そして調査地となるであろう京での協力者となりえる明智者についての話を聞きながら、二人思うまま夜が更けるまで議論しあった。
* *
同じ頃、明智光秀は明智光慶に丹後国の長岡藤孝への使者の任を命じていた。
「光慶、此度の戦ご苦労であった」
「我が未熟さを思い知らされた戦でした。斉藤利三には叱られました」
「まずは無事に戻れた。それで良しとしようではないか」
「はい父上、これからも日々精進して参ります」
「丹後国の長岡藤孝への使者の任、お前に任せる事にする」
「私は父上の元で共に戦いとうございます。その任は他の者に任せる事は出来ぬのでしょうか?」
「光慶、使者の任を軽んずるでない。
此度の織田の混乱を収めるには多く者達の助力が不可欠なのだ。とりわけ明智とは縁深い長岡家の力はどうしても欲しい。
すでに長岡家は私の送った使者を追い返してきている。だが、お前が行けばその心動くかも知れぬ」
「それは私にしか成せぬ任という事ですか」
「危険な役目でもある。
長岡家が我らに敵対すれば光慶、お前を人質として私の動きを封じようと画策するかもしれぬからだ。
もしそうなった場合、私はお前を見捨てる事になるだろう。
これも戦なのだ。場所と形は違えど、お前と私が共に命を懸けて事に臨む事に変わりはない」
明智光慶はその言葉の意味を目を閉じて暫く考え、自分を納得させたのであろうか、静かにそしてはっきりとした言葉でその命を了承した。
長岡家との交渉については、誰か補佐を付けようと思う。これは重臣達と協議して適任者を選んでおく。
光慶、お前は形の上では使者だが、実際にはその交渉役を助けるのが役目となるだろう」
明智光慶が大きく平伏した。
「さて、儀礼的な話はここまででよい」
いつもの対話であればここで終わりである。
明智光秀のその言葉は明智光慶を驚かせ、彼は思わず伏せていた顔をあげた。
「この織田の混乱がひとまず終息したならば、明智の家督をお前に譲る」
「私は未だ若輩、今暫くは父上が明智を治める事が良いと思いますが」
「家督を譲っても私が消える訳ではない。後ろには私が控えているし重臣達の補佐もある。何も心配することはない」
「織田が元に戻れば、改めて天下布武に向けて動き出すのでしょう。自らの手でそれを成し遂げることが父上の望みではなかったのですか?」
「そうだ、だが今回の件が収まった後、織田信長公と織田信忠様を失った責を誰かが負わねばならぬのだ」
光慶に腹を切るとはこの場では言えない。あくまでも家督を譲り一線から退くという事で伝えるしかなかった。
「織田信長公はここ安土城にてご存命のはずでは?」
「今はまだ存命である。だがその余命はいくばくも無いのだ」
明智光慶はそこで言葉を失った。
「丹後国に赴いた後、長岡家が明智の敵で無いとなれば、お前はその地に残り彼等の庇護を受けるのだ。もし私が武運尽き滅びるような事があっても、お前が生きてさえいれば明智は再興できる」
「織田の混乱を収めようと働く明智が、なぜ滅びねばならぬのですか? そのことこの光慶、理解出来ませぬ」
「織田を一つに纏める最も簡単な方法は、私を謀反人として葬る事なのだ。明確な敵が消えることで皆納得し一つに集うことになる。明智の力が小さいと見れば、そう考え行動する者は必ず現れる」
「明智のみで無く助力が欲しいと申した父上の言葉、ようやくその真意を理解しました。ですが丹後国で庇護を受けよとの言葉には従えませぬ」
「明智が滅すれば一族郎党全てが路頭に迷う事になる。誰かが生きねばなるまい」
「父上、我らの命運尽きた後の事は、坂本城の定頼に託しましょう。私よりも弟の方が頭の回転も早く、政の世には向くと思います」
濁りの無い澄んだ瞳が自分を見つめてくる。
「父上は弱きになられております。先程から明智はもう終わりだととも取れる言動ばかりを私に繰り返しています」
はっとした。
明智についての最悪に備えるためと言いながら光慶に語っていた言葉が、いつのまにか自分の心の弱さをさらけ出している事に気づいた。
息子の面前で今の明智の境遇に愚痴をこぼしている様なものだ。
「父上、決して諦めないでください」
「光慶、私は決して諦めぬと約束しよう」
少しの間、互いの目を見つめ合った。
「お前とはもっと時間をかけて話すべきであったな」
明智光慶はその言葉にただ小さく頭を下げて見せた。
退出していく光慶を見送ると、まだ見ぬ織田の新たな後継者に向けて、家督相続を願い出る書状を明智光秀は認め始める。
書状を記す筆は心なし軽かった。
家督を譲ると言葉では申した。
今確かに、そして静かにその儀は二人の間で交されたのだと思った。
自分の中にある何か重いものが消えたような心地よさ、あえて言うならば、自分の心が光慶に乗り移っていくような感覚であったのだ。
明智光慶との会談の終わりを待っていたかの様に、使いの者が溝尾茂朝の安土城到着を伝え来た。
屋敷の門まで出た所で丁度登城してきた彼と鉢合わせとなった。
「待ち焦がれたぞ庄兵衛、今は固い話は抜きだ」
「何か良いことでもございましたか?」
少し照れた様な自分の表情を見て、溝尾茂朝も笑みを浮かべる。
「では私も一つだけ、明智光忠殿が命を拾われました」
京で銃撃を受けた重臣の一人。
明智光秀はおお、と声を上げた。
少し離れた屋敷の部屋から、明智秀満と竹中重矩の熱を帯びた議論の声がまだ聞こえていた。




