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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月三日
18/84

坂本城騒動

「あの二人、果たして戻って来るでしょうか?」

 朝から坂本城の城門前にどんと腰を下ろす藤田行政ふじたゆきまさ明智秀満あけちひでみつが問いかけたが、藤田行政はふんっと鼻息を上げるだけで何も答えようとはしない。


 藤田行政がこの調子なので、明日の出立の手配全てを自分と溝尾茂朝みぞおしげともの二人に降りかかり大忙しである。

 やはりと言うべきか、斉藤利三さいとうとしみつの姿は何処にも見当たらない。

 他の事が手に付かないほどにつばめと申す娘と弥助やすけの事が気がかりならば、藤田行政も弥助と共に比叡山に向かうと言えばよかったのだ。


 兵達の中では今、様々な憶測が噂となって飛び交い皆少なからず動揺している。

 結局彼等は命令のまま行動し、京の本能寺と二条御所にて戦った兵達は、実際に何が起こっていたのかを殆どの者達が知らない。

 その後、西国出兵が取り止めになり多くの者は大功を立てるという目標を失い、この坂本の地で待機中である。これからどうなるのだと不安を募らせるのも無理はない。


 このような中で、溝尾茂朝だけは他の宿老達と異なりただ黙々と仕事とをこなしていく。京で負傷し離脱した明智光忠あけちみつただが抜けた分、より多くの政務が彼の肩にのしかかっているのだ。

 そしてその合間にも坂本城出入りの商人達に各地の情報収集を命じてその資金を提供していた。いずれそれらの情報は安土城の殿の元へともたらされるだろう。

 それとは別に溝尾茂朝は丹波国の平定寺より間諜として使っている一人の若者を坂本城へと召し出していた。その若者を溝尾茂朝はただ五郎ごろうとだけ呼んでいる。


 溝尾茂朝の持つ内政権限は明智の統治する領内全土に及ぶ。

 丹波国の豊かさの裏にも闇の顔は存在する。この裏の世界に通じ、人買いや横流しといった犯罪の類いについて、そして大きくは私服を肥やす村役や家人達の名が自然と彼の耳へと入って行く。

 事の大小によってそれを取り締まりまた放任し、明智は国の表裏を統治しているのである。五郎の率いる一味は、溝尾茂朝の目となり耳となり、この事に大きく貢献していた。


 特に明智秀満が溝尾茂朝の政策で感心したのは戦によって捕えられ売られてきた下人や女子供を人買いの商人達より買い取り、丹波国の開発に着手させた事である。


 村の人材不足を補うのに人買いを利用するのはこれまで普通の事であった。

 彼等は村長の監視下に置かれ、男は村の労働力や、他の村との争いの解決の為に提供される労働力として数年を働いた後に村の一員として迎えられ、女は村の男と所帯を持ち子を成す事で村の一員として迎えられる。


 元々この日ノ本には奴隷という言葉は存在しなかった。

 それらが伝えられたのはキリスト教の布教と共に行われた南蛮貿易の品目に人間そのものの売買が存在し、そこで売買される人々を南蛮人は奴隷と呼んでいた。

 この奴隷売買を積極的に行ったのがキリスト教に傾倒した大名達である。

 織田家に属する大名の中にも、例に漏れず戦によって捕えた人々を南蛮商人に売り金銭を得たり火薬の取引に利用していた。


 溝尾茂朝はこれをうまく活用し、死罪確定の重犯罪者を南蛮商人に高く売りつけ、代わりに不幸にも奴隷として売られた日ノ本の民を手に入れ、彼等を単なる村の労働力としてではなく、彼等だけで構成されたいくつかの共同体を形成させて国の開拓事業に着手させた。

 共同体はいつしか新たな村となり、丹波国の発展に少なからず貢献しているのである。


 やはり内政面における殿の第一の腹心は彼なのだろう。

 裏の顔の仕事に関わるときの溝尾茂朝の表情はいつもとは違う。遠目に見てもそれはなんとなく分かるのだ。

 そういう裏の世界に関わることに自分はどこか抵抗を感じる。彼と親しく交われないのもきっとそのせいだろうと思う。


          *          *


 やがて坂本城の城門前に座り込んで動かぬ藤田行政の姿は、行き交う明智兵達の目にもとまり始め、これは何事かと囁かれ始めた。

 藤田行政を眺める兵の一団から声が聞こえた。


「城から逃げ出した娘を連れ戻そうと一匹の鬼が追いかけて行ったのだそうだ。藤田殿は鬼が約束した日没までに戻ると信じてずっとあそこに座っている」


 興味を持った兵達から声が上がり始める。

「なんでも鬼が戻らねば、あの藤田殿が皆の前で裸踊りを披露するそうな」


 調練では藤田行政に叩き伏せられた者も数多い。これは見物だという声が方々から上がる。

 なぜかその後も二人の名が「燕と石田弥助いしだやすけ」と口にされ、戻る戻らぬで賭けの対象にもなってきた。


 黒人に石田弥助と名乗れと申したのは斉藤利三、これは彼の企みなのだ。

 明智軍内に暗い噂が立ち始め、そのまま兵達を放置するのは明智秀満の目から見ても危険であった。

 斉藤利三は別な話題に兵達の気持ちを向け、それをささやかな娯楽として提供したのだと思った。


 坂本城前に詰めかける多くの兵達の中から斉藤利三が現れ、座ったままの藤田行政の肩を叩いて笑う。

「根を上げるかと思いましたが、案外頑張っていますね」

「おうよ利三、さすがに朝からずっとこの姿勢では尻が痛いわい」


 藤田行政も斉藤利三と組んでいたのか。今更ながらにそう気付いた。

 自分にも一言伝えて欲しかった。水くさいではないか、そうは思ったが明智秀満はしばらく遠くから彼等を笑って見ていた。


「この賭けに勝った者は酒が二杯飲める。賭けに負けた者も酒が一杯飲める。その様に触れてきた。これは城の酒蔵が空になるやもしれぬな」


 斉藤利三と藤田行政も大声で笑っていた。



 夕暮れ刻、琵琶湖が朱に染まり始めた頃、明智秀満も気になり再び坂本城の城門前に出て来ていた。

 賭けの成り行きをいち早く確かめようと城下町のはずれで比叡山方面の見張りに立っていた兵の一人が走り来て藤田行政に伝えた。


「戻りましたよ。燕と石田弥助、二人とも戻りました」

 その声に藤田行政は膝をパンと叩いて立ち上がった。

 坂本城の城門前にはなんと明智の全軍が酒に釣られて賭けに乗ろうと押しかけ、燕という娘を背負った弥助の為の花道が自然と作られていた。


 歓声と共に戻って来た二人を笑顔や笑いで出迎える明智の兵士達。

 弥助の背で何が起こっているのか分からず困惑する娘の顔が明智秀満にも見えた。

「燕、燕」

「石田弥助、石田弥助」

 兵達が二人の名を笑顔と共に口々に叫んでいる。弥助が背の娘に向けて大きな声で言った。

「燕、明智は敵じゃない」

 弥助が白い歯を見せて笑い、娘の方も兵達の歓声に向けて腕がちぎれんばかりに手を振り返している。

 その顔を涙で濡らしながらも笑っている彼女の顔が、明智秀満にはとても印象的に映っていた。


 坂本城の城下町の通りはそのまま酒宴の会場と化した。

 明智兵達が酒を片手に陽気に踊り狂う最中、明智秀満は藤田行政と二人で燕と弥助を出迎えた。

「二人とも、よく戻ったな」

 藤田行政は二人に笑顔で声を掛け、燕の足の傷に目を止めると手当せねばと急ぎ二人を城内へと連れ去って行った。

 その場に一人残され立ち尽くす明智秀満の心境は、藤田行政ほど単純では無く少し複雑であった。


 弥助は異国人ではあるが織田信忠様の小姓であり元々織田側の人間である。だがあの娘は敵方の雑賀衆の者、そういうこだわりが心の中にあった。

 斉藤利三はこの騒動を兵の動揺を抑える為に利用した。 

 あの娘はそんな事は何も知らぬに違いない。それでも彼女は我ら明智の元へと戻り、そして少しばかり我らに心を開いてくれた。


「あなたの悪い癖ですよ秀満殿。もっと単純でいいのですよ。あの娘は我らの元へと戻って来た。出来ればこのまま味方になって貰おうではないですか」

 振り返ったそこに斉藤利三がいた。彼は椀に注いだ酒を飲めと差し出してくる。


「秀満殿、敵とは何でしょうね」

 敵とはただ牙を剥き自分達に襲い来る者、そうではないのか。それが何かなど考えた事も無い。


「私はこう思うのです。敵とは相手をそうすると決める決断によって生まれるのだと。あの燕と申す娘は我らを敵とする事を選ばなかった。対して秀満殿はあの娘にどのような決断を下しますか?」

「あんな小娘一人を明智が敵とするなど、恥以外の何者でもないと思います」


 堅苦しい物言いだと思われたのか、斉藤利三は肩を大きく竦めて見せ、ただ笑っていた。

「溝尾殿とも相談して決めますが、城の留守部隊の一隊を比叡山調査に向かわせようと思います。何が探れるかはまだ分かりませんが、あの娘についてはそれで終わりという事でよろしいですね」


 斉藤利三の言葉にただ頷いてみせた。

 自分の中の何かもやもやした気持ちを吹き飛ばす意味も込めて、明智秀満は手に持つ酒を一気に飲み干した。


          *          *


 坂本城内に戻ると、明智秀満の元にはまた一つ奇妙な報告が寄せられた。

 比叡山から戻ってきた二人だけでも明智にとっては大いなる珍客なのであるが、さらに琵琶湖の水上からも異国の珍客が坂本城へと船で送られてきたのである。

 

 明智光秀より琵琶湖水運の調略を命じられた斉藤利三は、琵琶湖北西の堅田を根拠地とする堅田湖族との連絡を取る事を試みた。

 坂本城と堅田の間には織田一族津田家の治める高島がある。

 主君明智光秀と津田信澄つだのぶすみは姻戚関係にあるが、今の状況では我らに敵対する恐れがあるため、陸路ではなく水路にて使者を送ることにし、坂本城から最も近い彼等の根拠地である沖島へと派遣したのだが、溝尾茂朝が推挙したその使者、妻木範賢つまぎのりたかが使者の役目とは別に沖島にて捕えられていた三十人近い宣教師一行を金銭の支払いを条件に引き取る旨を伝え来たのである。


 彼等を保護し坂本城に収容したものの、その扱いに明智秀満は窮していた。こんな時に頼りになるのは斉藤利三しかいない。

「妻木範賢も何か意図を持って彼等を引き取ったのだろうが、堅田との交渉から戻るまでは分からぬ。利三殿はどう思われますか?」


「聞けばその宣教師一行、安土城の城下町から湖に逃れた者達。安土の地の様子を知るのに使えるのではないでしょうか?」

「それについては自分でも考えたのですが、身代金として湖族に払った額の見返りとしてはあまりにも小さい。溝尾殿から妻木範賢は頭の切れる御仁と聞いている。ただそれだけの為に彼等を引き取ったとは考えづらい」


「それで、この後の宣教師一行の処遇はどうするのです?」

「坂本城に留め置く事も出来ぬでしょうから、明日にでも京の南蛮寺に送り届けようかと思っています」


 京の南蛮寺と聞いて斉藤利三が何か閃いたという顔をした。

「それだ、南蛮寺ですよ秀満殿。京の南蛮寺を建てたのは摂津国の高山重友たかやましげともではないですか。彼は熱心なキリシタン。あの宣教師達を通じて我ら明智に加勢するよう要請できるのではないですか?」


「なるほど、その通りかも知れません。では彼等を手厚くもてなすとしましょう。既に使者は摂津国にも出ていますが、改めてもう一度宣教師達の言葉を持たせて出立させる事にします」


 この時坂本城に保護されたのは二人の司祭、オルガンティーノとジョアン・フランシスコ、それに修道士四人を含む一行であった。

 彼等は坂本城の屋敷の一つで歓待され、日本人修道士のビセンテがその通詞を務めた。


          *          *


 陽も落ちて諸事の手配を溝尾茂朝と二人でようやく終えた明智秀満は、疲れた顔で自身の屋敷へと帰宅した。

 迎えに出た妻の革手かわての目が笑っている。

 どうしたとの問いにただ彼女は大きく肩をすくめてみせた。


 燕と弥助が屋敷の中に居た。

 元々二人について君命を受けたのは自分であるのでそれは良い。

 それよりも斉藤利三と藤田行政の二人も揃って屋敷に上がり込み、四人で飯を平らげている姿にはさすがの秀満も立ち尽くし閉口してしまった。

「お先にやらせてもらっています」

 片手を挙げて答える斉藤利三、ちょっと申し訳なさそうに頭を掻いている藤田行政。燕と弥助も自分の顔を見て小さく会釈してみせた。


 斉藤利三が革手に目で合図を送ると、彼女は燕と弥助に退室するようにと促した。

「ありがとう。嬉しかった」

 燕は部屋に残る自分達三人に向け小さく頭を下げ、そして早足にその場を去って行った。


 三人だけになると斉藤利三が相談があると話を切り出した。

「あの雑賀衆の娘の事ですが、兵達の間でもその名を知られるようになりました。このままという訳にもいきますまい」

「それを画策したのは利三殿ではないか。何を今更」


 そうは申しても明智の大事の最中に一人の娘の事など些事であるのだが、彼のそういう小さな気配りには明智秀満も好感が持てる。

 横の藤田行政も口にはしないが二人の事が気がかりなのだろう。

「兵の動揺を抑える為にあの娘を利用したのは事実であるし、この屋敷でしばらく面倒を見るくらいなら引き受けましょう」


「それがですね。あの娘達、我らと共に安土城へ来るというのですよ。特に弥助の方が是非にと熱心で、その気持ちは二人とも固いようです。

 無理にここに置いて行ってまた城を抜け出されても面倒な事になる」

「兵の端に加えるぐらいならば、問題もないでしょう」


 安土城に到着してから先は、我ら殿の軍命に従いその使命を果たす。

 我らがあの燕と申す娘に関われるのはおそらく今日ここまでの事になるだろうと明智秀満も思っている。

「荒くれの明智兵の中に年頃の女が紛れ込む。藤田殿がそこの所を大層心配しているのですよ」

「それはまるで父親の如き言い草ですね。それで、利三殿のお考えは如何に?」

「とりあえずですね。藤田殿の隠し種が無理矢理陣中に押しかけてきた。という事にしようと思います」


 その言葉に藤田行政が茶を吹き出し、えっという表情をする。

「藤田殿の恐ろしさは兵の末端にまで伝わっていますからね。命が惜しくて彼女に手を出そうとする者はいなくなると思います」

 困惑する藤田行政に斉藤利三が詰め寄る。

「藤田殿、お主しかおらぬのだ。よろしく」


 此度の従軍に藤田行政は自身の息子も伴っている。

 心情的に少し面倒な事になるかもしれぬが、斉藤利三の案が一番効果的だと明智秀満にも思えた。

「しばしの間であればな」

 藤田行政も渋々であったがそれを了承した。


「藤田家の姫君が参戦するのであれば、それなりの形をつくらねばな」

「それは止めてくれ。利三」


 そんなやりとりを知ってか知らずか、奥の部屋からは燕の歓声が轟き、楽しげに笑う革手の声も聞こえる。その声に混ざって遠くからも宴の音や手拍子が聞こえてきた。

 保護した宣教師一行をもてなす宴が盛り上がり始めたのだろうと思った。


 この日の坂本城は、城の内も外もあちこちで交される宴の騒ぎの陽気な声に満ち満ちていた。

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