安土城へ
琵琶湖を進むのは小早と呼ばれる小型の軍船。
その船上に明智光秀は立っていた。
眼前に迫る安土山の山頂には朱に金色の美しい天守が見える。これが日ノ本第一の城、天下人織田信長が住まう城だ。
陽の光が湖面に反射して少し眩しい。
明智光秀は安土城下へと小早を進ませ、造成された南の湾内に入ると、そこから更に小さな小舟に乗り換えて船頭と明智光秀、安土城城番衆の水野守隆の三人にてしばらく水路を進み安土城側の桟橋へと船を寄せた。
明智光秀を出迎えたのは数名の兵士を伴った蒲生賦秀、周囲にはまだ兵を隠している気配がある。
主殺しの謀反人明智光秀に対するのである。当然の事だろうと納得し、彼に言われるがままに明智光秀は従い武装も解除した。
「織田信長公をまずは城にお連れしたいのですが、よろしいですか?」
蒲生賦秀はその言葉にも未だ油断せず、ただ頷いてみせる。
明智光秀が沖の小早に手を挙げ合図すると、船がゆっくりと近づいてくる。
桟橋に寄せた船から曲直瀬道三を先頭に板の上に敷かれた布団に横たわる織田信長公が数名の兵士に担がれて港へと上陸した。
その様子を隠れて見ていたお市が姿を現し、護衛の兵士の制止も聞かずに港へと駈け下りた。
そしてお市自身がその目で兄織田信長自身を確認すると、「兄上様」と一言だけ口にし、彼女はその場に立ち尽くした。
この様子を見て蒲生賦秀は配した兵を全て退げ、明智光秀に対して先程の無礼を詫び彼の刀を返却した。
織田信長公は安土城天守の最上階へと密かに運ばれた。
未だ城に残る者達にその容体を知られぬ為にとった処置である。
事情を聞いたお鍋の方と蒲生賢秀も急ぎ二ノ丸から駆けつけ運ばれて行く織田信長公の後に続いた。
明智光秀の予想に反して、明智軍の来襲に備え守りを固めているはずの城兵の姿は殆ど見られず、二ノ丸辺りを少数の兵が行き交うだけで、眼下の城郭には兵の存在を知らせる旗印が一本も動いてはいなかった。
この事を蒲生賦秀に尋ねると、織田家譜代衆は城を捨てて全て逃げ出し、その影響で民も家を捨てて逃げてしまい安土城の城下町は無人の如き有様になっているのだと彼は語った。
この安土城に明智軍を入れるのは容易だろう。
しかし、織田家譜代衆を説得して味方として取り込むという第一の思惑が大きく崩れてしまった。これで謀反人明智光秀の嫌疑を晴らす術が一つ失われた。
* *
織田信長公との再会の感激とその容体に悲観し、動揺の色を隠せないお鍋の方を交え、織田信長公の休む天守の一層下の居室して明智光秀自身が京の事件のあらましについてその場の皆に説明した。
「大殿の一命を救った光秀の働き、誠に大義」
「奥方様、我が力及ばず申し訳ございませぬ」
少し落ち着きを取り戻したお鍋の方の言葉に、明智光秀はただただ平伏した。
「状況から判断すれば、明智殿はよくやったと思う」
話を聞き蒲生賢秀も労いの言葉をかけてくる。
「この城に残る者達が頼れるのは光秀、そなただけです。あなたはこの先をどう見ていますか?」
お市様の言葉に明智光秀は一度深い溜息をつき、そして答えた。
「医師の曲直瀬道三殿の説明の通りであれば、織田信長公の命数はあと数日と思われます。
私は織田信長公をここ安土城へとお連れする事で謀反人明智光秀の嫌疑を解き、織田家譜代衆の方々のお力を借りて今回の事件を早期に決着させ、このような暴挙を犯した者共との戦いの為の準備に取りかかる腹づもりでした。
ですがそれは未だ叶わぬ様でございます」
「安土の城に誠の良臣はほんの一握りしかいませんでした。今のこの状況、お恥ずかしい限りです」
「そして未だ私は主殺しの謀反人。強力な軍を持つ各地に散った重臣達がそれを黙って野放しにするはずもなく、彼等の織田信長公に対する忠義心は必ずその仇を討たんと動き出すはずです」
「明智殿、そこは奥方様が諸将に号令をかければ、無用な血を流さずに済むのではないだろうか」
「賢秀、私を立ててくれるのは嬉しく思います。なれど私に力があればもっと多くの者がこの城に残ったでしょう。織田信長公の威あっての私なのです。私が重臣達の交渉役を買って出ても、どれほどの効果があるか」
「織田信長公への忠義心から謀反人明智を討とうとする者であれば、奥方様を介して説得は出来ると思います。
しかしながら、織田信長公の後継者たらんとする者、私を討つ事で織田家中での優位な地位を得ようという欲で動く者は、明智だけで無く織田信長公も、それに城に残る皆様の全てを亡き者にして決着を図る可能性が高い」
「光秀、具体的にこれからどう対処していくつもりですか?」
「その前に皆様に伝えておく事がございます。
本能寺襲撃を実行したのは石山本願寺の残党と見ていますが、それを指揮した将は元織田家の家老林秀貞でした」
「あの林殿が、まさか」
「織田信忠様は不運にも亡くなられましたが、今回の襲撃はあくまで織田信長公のみを狙ったもの。ですから本来の狙いが織田信忠様による織田治世の早期実現であったとするならば、織田信長公によって続く苛烈な粛正を恐れた織田家内部の者の画策という可能性もあるのです。
これには極秘事項である織田信長公の入京日時を敵が早い段階で正確に掴んでいたという事実がその根拠になります」
「なんと、織田の内部に敵、一体誰が?」
そう問いはしたが、明智光秀のその言葉をその場の誰も否定することが出来なかった。
石山本願寺戦で討ち死にし取り潰された塙直政、その戦の終了と同時に追放された重臣の佐久間信盛、同じ時期に多くの家中の者が織田信長公によって強引に処断されていたからだ。
そして徳川家康。
その名を明智光秀が口にした時も、皆同様に溜息をついただけだった。
「今、我らを取り巻く状況は誰が敵か誰がお味方かも分からぬ状態。明智はこれに対し最悪の状況を想定して動かねばなりませぬ。
謀反人明智と叫ぶ者達との交渉をこの光秀は諦めませぬが、その為のまず第一が明智軍が向かい来る織田の重臣達の軍に決して敗れず、織田信長公を守り抜く事だと思います」
坂本城で重臣達と協議した三つの目的の内の一つ目であった織田家譜代衆の取り込みに失敗した事で謀反人の嫌疑を晴らす術を失った。
その為明智光秀は織田の重臣達との戦ありきにこの場で方針を転換した。
そしてお鍋の方達に明智軍をここ安土城に入れる意味、三つの目的の残り二つについて説明した。
一つは明智軍を維持するための兵糧の確保、もう一つは安土城に大軍を擁して籠もることで神戸信孝や北畠信意の軽挙を抑制する事。
特にこの二人が安土城へと入城し織田の後継者を名乗れば、更に事態が混乱する事にもなりかねない。
「理解出来ます。光秀、それでどうしようというのです?」
「私は武人であり、軍を以てという他に今の所考えが及びません。
ですからここ安土城と織田信長公を守り抜き、向かい来る織田の重臣達への説得を続ける為にこの近江の地を平定し、まずは軍力の拡大を図ろうと考えます」
「明智殿、近江の諸城を攻めればその心謀反ととられかねまい」
「今既に明智は謀反人なのです。迫り来る複数の重臣達の軍を退け続けるには、軍力の拡大は避けては通れません。
ですが幸いなことに西国平定の為の兵糧備蓄として、織田領内の城の殆どは備蓄兵糧を供出しており、新たに大軍を起こす力を持つ者はおりますまい。
我ら明智が対するは、各地に大軍を擁して遠征に出ている重臣達のみに限られるのです」
「ならば大きくは柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、神戸信孝といった所か、それならば、そう儂が言うべきでは無いことだが」
「お味方同士血を流す事を私は望みませんが、光秀を窮地に陥れたのは我ら織田家の失態ともいえましょう」
「奥方様のお心遣い感謝致します。
ですがこれは私に運が無かったということでしょう。
そしてここ安土城は戦場となります。奥方様を含め、城の皆様には蒲生殿の日野城へと退去して頂きたく思います」
明智光秀の腹はここ安土城に来て定まった。
「奥方様には無駄な流血を抑えるため、神戸信孝と北畠信意の両名及び美濃国、尾張国の織田家譜代衆に対して軽挙をたしなめる一筆を書いて頂きたい。
そしてもし明智が柴田等の重臣の軍との争いになった場合、その仲裁役を引き受けるよう促して頂きたいのです。もしそれを成せば織田の後継者としての力量を示すことにもなるだろうと」
この明智光秀の言葉にお鍋の方は黙って頷いてみせた。
そして明智光秀はこう付け加えた。
「この一件が落着した後、私は重臣達の居並ぶ面前で此度の件の全ての責を負い、自裁したいと思います」
明智光秀の決意を聞き、その場の全員が黙り込み目を閉じた。
「最後に光秀に一つだけ聞きたい。あなたが自身を犠牲にしてまで目指すものは何か?」
「私は織田信長公と家中の者達が、長き年月をかけ血を流しながら築き上げたものを守りたいのです。単に織田の版図を守るのでは無くその志を守りたいのです。
そしてあと一歩という所まで来ている天下統一を然るべき後継者を立てて成就させたい。それこそが死んでいった者達、これから死んでいく者達の死に報いる事だと思っています」
「わかりました。明智光秀のこれまでの働き全て織田家への忠義そのものであった。あなたに嘘や野心は無いと信じます。これからの万事全てを光秀に託しますが、一つだけは譲れぬ。
私はこの城に、織田信長公の元に残ります」
お鍋の方が立ち上がり光秀の前でそう申すと、隣のお市様も立ち上がった。
「私の三人の娘達は蒲生殿の日野城にお預け致しますが、私自身は兄上様と共に城に残ります」
女性二人は反対は許さぬという意思表示の如くその場を去ると、居室内には明智光秀と水野守隆、蒲生賢秀の三人だけとなった。
「儂は早まった。奥方様の命とはいえ大事な武器を全て湖に破棄してしまった」
「蒲生殿の判断は正しいと思います。武器はさして問題ではないのです。この城の兵糧さえ無事であれば問題はありません」
「それでも明智光秀殿の今の境遇には同情を禁じ得ない」
「蒲生殿はどの勢力にもつかず中立のまま静観し、最後にこの件を征した者に付くことで匿った皆様の安全を守って頂きたい」
「承知した。この賢秀、明智光秀殿が迎えに参るまで、我が城を必ず守りきってみせましょう」
「私はここに残る」
一人暗い表情であった水野守隆は二人にそう述べた。
「奥方様は私には一言も声を掛けては下さらなかった。京に残った者は誰一人生きて帰らなかったのに、お前はだけなぜ生きている。きっとそう思われていたに違いない」
「水野殿、考えすぎであろう。奥方様も今は心に余裕がない。単に貴殿にまで気が及ばなかっただけだと思うが」
蒲生賢秀はそう述べたが、水野守隆は首を横に振った。
「正直に申そう。私は恐ろしくなって一人京から逃げ出したのだ。闇の中をひたすら馬を走らせて、気づけば大津にまで来ていた。我に返ると恥ずかしかった。
このままおめおめ安土城に戻る事も出来ず、どうにでもなれと明智軍の前に飛び出したのだ」
「我が軍の前に死を覚悟して立ち詰問の口上を述べた水野殿の姿を私は知っている。人の心底は最後に下した決断によって量られるべきもの。水野殿は何も恥じる事は無い」
「私はここに残り、織田信長公と奥方様方をお守りする」
そう言葉にすると水野守隆は立ち上がり、そのまま場を去って行った。
蒲生賢秀は安土城から退去する女房衆や下女達の護衛を息子の蒲生賦秀に任せ、自身は残った安土城の城兵三百と共に、明日の明智軍の安土入城と入れ替わりに日野城へと退去すると決めた。
本丸の下の方の階では、退去準備を始めた女房衆や下女達の甲高く慌ただしい声が、まるで祭りのように賑やかに響き始めた。