燕と弥助
六月三日の夜明けにはまだもう少しの刻を要する。
燕は幼少の頃から紀ノ川で遊び、泳ぎは達者だった。
明智の兵の焚く篝火が見えなくなるまで湖岸に沿って進み、屋根から毟った藁で体を包み廃屋の影で濡れた着物を広げて乾かした。
城からの追っ手が無いと分かると少しだけ眠り、まだ暗い中を西の比叡山目を指して歩き出した。
比叡山に向かうのには理由がある。
織田信長を襲った連中の仲間の軍がいるとあの僧形の男は言っていたが、以前父様から聞いた話では、織田信長への襲撃が起こったなら、協力者達は京から逃げ出し皆比叡山に集まることになっているから、もし自分達とはぐれ行き場を失ったらお前達も比叡山へ向かえと教えられていたからだ。
何よりそこには二条御所から伝令として送られた双子の妹の雀がいる。
結局僧形の男の言う援軍は間に合わなかった。だから彼女が無事比叡山まで辿り着いたのかも確かめなければならない。
五年前に紀州国の雑賀が織田に攻められ、その時に母様を亡くした。
その後雑賀で起こった鈴木家と土橋家の争いから逃れ、土橋方であった父様に連れられ二十人の仲間とその家族達と共に大和国の山中に住み始めた。
かあとほ、それが私達姉妹の本当の名だが、その地に移り住んでから燕と雀という名を皆につけてもらった。
双子の妹の雀と私は瓜二つ、皆が見分けられぬと言うので私が髪を後ろで縛っている。束ねた髪を解くと父様でも名を間違えたりする。
十歳になると父様から鉄砲の扱いを学び、短筒で野の獣や鳥を撃つのを妹と競った。
同じ頃私は鉄で出来た反面の仮面も手渡された。
母様が使っていた物と聞いた。それが私に与えられた母様の唯一の形見で、妹の雀は母様の木櫛を受け取った。
母様と共に過ごした記憶はあまり多くは無い。
足の不自由な父様に代わり、母様は町に稼ぎに出ていていつも家には居なかったからだ。
慕う人は母様を蛍火と呼び、母様もその呼び名の一字だけを取り蛍と名乗っていたが、本当の名前はあざという。
父様の名は田造、元は伊勢国の地侍の一族で戦えぬ体になってからそう名を変えたと言う。
父様が母様の鉄砲の師で、母様の死が原因で父様は再び砲術に傾倒したと、村の誰かから聞いたことがあった。
今来た道を燕は振り返った。
明智の城で鉄砲道具と一緒に母様の形見も置いてきた。
再びそれを手に出来ないかもしれぬと考えると悔しさが湧き出した。涙が溢れ、しばらく立ち止まったが妹の雀の事を思い出してまた歩き始めた。
京に住み始めたのは一年前だ。
鉄砲の腕を買われ京で偉い人の警護をするのだと父様に教えられた。
山中の生活は貧しかったので、男衆は皆銭を稼ぐ為に家族を残して村を出た。
村井貞勝とかいう男から二条御所出入りの鑑札と宿舎となる長屋も与えられた。
一時住んでいた雑賀ノ庄の町も大きかったが、京の都はそれよりも華やかで、初めて見た時は夢の国に来たのかと思った。
私も雀も最初は浮かれ、綺麗な着物が欲しいと父様にねだったが、父様は怖い顔をしてそれを許さなかった。
その代わりに根来寺で造らせたという鉄砲を一つ私達二人にくれた。
その鉄砲は仲間達が使う物とは随分と異なる特別なもので、全体的に細くて銃身が長い。それによく見ると銃口の内側に真っ直ぐな溝がいくつか彫られており、他の鉄砲で撃つよりもその鉄砲を使う方が確かに良く当たった。
ただその鉄砲を普段使いにはするなと言われたが、妹の雀が「ならば何時使うのじゃ」と尋ねると父様がすごく怖い顔になったのを覚えている。
京での事件の日、警備の織田兵を倒して僧形の男の率いる一軍を二条御所へと招き入れた。
首に白い布を巻いていた彼等が何者であるのかを私は知らない。
でも味方だと思っていた彼等と父様が口論を始め、私達は皆彼等に捕えられた。
そして事態は急変した。
京の都のすぐそばに明智軍がいたのだ。
二条御所はあっという間に包囲され、父も仲間達もやむを得ないと明智軍と戦う道を選んだ。
妹の雀が比叡山へと伝令に出された後、私が捕われていた蔵の扉を開けたのは明智の兵だった。二城御所で明智軍と戦った父様も仲間達も皆死んでいた。
彼等の物言わぬ骸の前で叫びにも似た声で泣いた。
大きな岩に寄りかかり不安な気持ちを落ち着けた。
あれこれと考えすぎた。もう息があがってしまっている。
父様から山中での移動は嫌というほど教えを受けてきた。呼吸を整えた。
比叡山という所には昔織田信長によって壊された巨大な寺があると明智の城の女が口にした。
そこに辿り着けば味方がいる。
いや、奴等が父様や仲間、そして私達にした事を思えば、もう味方とも思えない。でもそこに行けば妹の雀に会える。
空は白み鳥の声も聞こえるようになったが、それらしい場所はまだ見えない。
* *
弥助も暗い闇の中を駆けていた。
生まれつき遠くの物や闇の中でも良く見る事が出来た。
生まれた村では大人になったら戦士になるのだと教えられて育った。
明智の城から逃げた娘を連れ戻せと言われたが、すでにその足取りは消えていた。娘は西の山の上の寺の跡地にいると教えられ、昔使われていた寺まで続く参道を教えられた。
藤田行政には娘が見つからずとも明日の日暮れまでには戻れと言われている。
日ノ本に来る前はモザンビークと白人達が呼ぶ島にいた。
元々は大きな陸地にいたが白人達に捕まり、多くの仲間達と共にその島へと連れて来られたのだ。
島には大きな船が行き交う港に島を守る大きな砦と人が暮らす大きな街があった。
白人達は女子供ではなく屈強な若者を求めていた。
自分と同じく捕まった者の他には、仕事があると誘われて自らその島へと赴いて来た者達もいたが、その多くは船に乗せられて港を出ると、二度と戻って来ることはなかった。
自分はその島の石で造られた教会で働かされ、鎖には繋がれていたが鞭で打たれたりといったひどい扱いは受けなかった。
ある日自分も船に乗せられた。
もう二度とここには戻れないのだろうと思った。
何年もの長い船旅の後に辿り着いたのは白人とは異なる小さな人々が住む日ノ本という国だった。
彼等の誰もが自分を見て驚き、『鬼』と呼んだ。
そして私は織田信長という王に出会った。
彼は自分の体を何度も洗い、黒い肌の人間がいると知ると大きな声で笑った。
名を問われヤスフェと名乗ると王は筆で紙に『弥助』という名を記した。この国では自分の名をその様に表すのだと知った。
この王に仕える事になった。
王は私の鎖を解き、奴隷ではなく戦士として扱ってくれた事が何よりも嬉しかった。王の側に仕える者達も皆私に親しく接してくれ、一年の間彼等からこの国の言葉やこの国の洗練された見事な武器の扱い方を熱心に学んだ。
一番興味を持ったのは、縞の無い馬に乗る馬術だった。
「弥助、あれが日ノ本一と呼ばれる富士という山ぞ」
馬で王と旅をした。
王は無邪気にはしゃいでいた。美しい白い山、生まれ故郷にも似たような白い山があった気がする。山の美しさと懐かしさに思わず心が震えた。
二日前の夜に王子と本能寺に入り、馬術を教わった矢代勝介に再会した。
夜も明けぬうちに鉄砲の音に飛び起きると、目の前はすでに戦場だった。
「奥に進んだ敵を追え」と矢代勝介に言われ、急ぎ木々の間を走った。別れの時、彼は自分に向け白い歯を見せて微笑んだ。
森蘭丸とは敵と白刃を交えながらの再会となった。
彼には礼儀作法について何度も厳しく叱られたが、時間を見つけてはこの国の言葉を他の誰よりも熱心に自分に教えてくれた。
遂には敵に追い詰められ最期が迫った時、森蘭丸は「明智が来るまで戦え。決して諦めるな」とそう私に命じた。
王と私のいる地下蔵の扉を閉めながら、森蘭丸も私に微笑んで見せた。
本能寺で戦い散っていった仲間達は皆笑いながら死んでいった。
それがこの国の戦士の死に様なのだと、最後に彼等から教えられた。
本能寺の境内に並べられた彼等の亡骸を前に、自分もその時が来たなら皆の様でありたいと強く誓った。
本能寺で王と共に自分だけが生かされた。
死んでいった仲間達は皆、それぞれ夢を持っていた。
ある者は一軍を率いる大将になるのだと言い、城にあった世界を現しているという球の前に集っては自分はどの国の王になるのだと語り合った。
森蘭丸に私の夢は何かと聞かれ、「安土城で暮らす今が夢のようだ」と答えると、おかしな事を言うなと頭をこづかれた。
元は獣を追い村の皆と糧を分かち合う暮らしをしていた。
それを奪われ奴隷として生き、辿り着いたのがこの国、かつてからは想像も出来ない今の暮らし。
皆には理解出来ずとも自分にとっては夢の世界を生きる様なものだった。
* *
山頂が近づくと足下に人の手を加えた石段が多く現れるようになった。
娘には未だ会えないが目的地は近いと弥助は感じていた。
しばらく進むと人の気配がし、藪の中に身を潜めると現れたのは二人の男。二人とも手負い、着物が血で汚れていた。
かなりの時間、彼等の後をつけたと思う。突然目の前の景色が変わり、木々が開けた広い場所に出た。
男達は廃墟の一つに腰を下ろし、一人が立ち上がると大声で叫び始めた。
それに答える様に奥の方から木の板を打ち鳴らす音が聞こえてきた。
隠れながら二人の後を追う。
二人の男を迎えたのは首に紫の布を巻いた五人の侍達、一人が彼等に水を与え話し始めた。話の内容までは聞こえないが笑い声も聞こえる。
皆仲間の様だ。そう思った時、侍達が一斉に刀を抜き二人を斬り倒した。そして二人の亡骸を隅の大きな窪地に放り投げ、再び奥の廃墟へと戻って行った。
嫌な予感がした。
すでに娘は彼等の手に掛ったのでは、そんな気持ちが頭の中をよぎる。
確かめなくては、すぐに二人の死体が捨てられた窪地へと這うように近づいた。
死の臭いが満ちていた。
三十人近い人間の死体がそこに捨てられていた。
音を立てないように下り、折り重なった死体を少しづつ動かして弥助は娘の姿を探した。
四人目を動かしたとき、下の方に明らかに他と違う女の腕が見えた。女の死体を引っ張り出し、その顔を確かめた。間違いなく城で一緒だった娘だ。
弥助は大きな溜息をついた。
自分は間に合わなかったのだ。
もっと速く駆けていれば彼女を救えたかも知れない。
この娘がなぜ死ななければいけないのか、そもそもここで死んでいる者達は何者なのだ? 何も分からない。
明智の城へ戻り見たことをただ私は伝えればいいのか、何も知らずにこの場にいる事に弥助は戸惑い迷った。
声が聞こえた気がした。いや、聞こえたのだ。
二度叫ぶ女の声が聞こえた。
奥の廃墟から出てくる侍達の足音が聞こえ、板をまた打ち鳴らしている。
弥助は窪地から這い出すと、大きく迂回して侍達の背後へと身を潜めた。
五人の侍達の元へと歩いてくる一人の女が見えた。
その顔ははっきりと見え、不安げな表情をしている事まで分かる。城で一緒だった娘だった。
死んでいた女と瓜二つの顔をしている事に驚いている余裕など無い。これから何が起こるのかを弥助は見て知っている。
あの娘を助けなければ、弥助は背の刀を抜くと勢いよく飛び出した。
走る勢いを乗せて刀を五人の真ん中から右に薙いだ。
二つの首が飛び、一番右の男の首には刃先が通った。三つの体が血を吹き上げて倒れる。
大きく踏みだし目の前の一人を上段から力任せに斬り下ろし、四人目を断ち割った。
五人目の侍は大きく跳び退き刀を抜くが、その表情には信じられない者を見たような恐怖と戸惑いの表情を見せている。
この男は相当の手練れ、向かい合った時に弥助はそう感じた。
こちらの攻めを躱し下段から繰り出された突きにはあわや喉を貫かれる所だった。王の馬廻りの精鋭三人を同時に相手にしても怯む事は無かったが、今の一撃には肝が冷えた。
弥助は戦法を変え脇を締めて細かな攻撃を数度打ち出し、体を少し逸らせて避ける相手に一気に踏み込み強烈な横薙ぎの一撃を加えた。
弥助の刀の長さに体を回して避ける事も躱す事も出来ぬと悟り、受け太刀した敵の刀は太い弥助の刀とぶつかると、その根元からポキリと折れた。
続く弥助の一閃で勝負は決まった。
体格と武器が互角ならば危うかった。それに奇襲で倒した四人が同等の使い手であったならば、死んでいたのは紛れもなく自分の方だった。いつのまにか肩で息をしていた。
娘は少し離れた場所で尻餅をついて目を丸くしていた。
その顔は驚きと恐怖の表情に満ちていたが、それは自分の姿にでは無く自分の成した行いに対してだというのを感じた。
刀を納め娘に手を差し出したが、彼女は振り返ると四つん這いのまま弥助から遠ざかろうとする。
弥助は両膝を折って彼女の両肩を引き寄せて後ろから抱きしめた。
小さな娘の体は震えながらも力を込めて抗い、掴んだ腕にも噛みついた。
弥助はその痛みに耐えながら「助けに来た」と何度も言った。大きな声で言い続けた。
娘の力が抜けそのまま時が過ぎた。
「私の名は弥助。おまえは?」
「燕」
彼女の耳元で弥助が名乗ると、彼女も名を答えた。
「鬼にも名があるのか?」
「肌の色が違うだけで、私は人、人だよ」
「弥助の国の人は肌の色が皆黒いのか?」
「男も女も黒い。それに背も高い。この国の人は皆、小さいんだ」
「そうなんだ」
燕が弥助の腕を解き体を入れ替え弥助と向き合った。
「どうしてあの人達を殺した?」
「燕殺そうとしていたから。前に来た二人彼等は殺した。沢山の人殺している」
燕がはっとした表情をして自分の腕を掴み強い口調になった。
「妹を、雀を知らないか? 私と同じ顔をしているんだ」
知っている。
言葉に詰まったが、知らせねばならないと思った。立ち上がり彼女の手を引き、あの窪地へと連れて行った。
燕は窪地にある死体の山を上から見て妹の名を叫んだ。
そして木の蔓を辿って下に降りると、横たわる妹の遺体を泣きながら抱きしめた。
「雀なんで、やっと会えたのに」
掛ける言葉も見つからず弥助はただ二人の姿を見つめていた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。燕が立ち上がり、妹の墓を作りたいと言い出した。
時間は掛ったが彼女の遺体を見晴らしの良い場所へと運び、土を被せた上に大きな石を積んで埋葬した。
それから座ってもう少しだけ燕と話した。
弥助自身のこと、燕のこと、そして少しだけ彼女の妹の雀のことも。
弥助は明智の城へ帰ろうと燕に言ったが、彼女は首を横に振った。
「弥助、私は明智の敵なんだ。明智の城へは帰れない」
「あの侍達は燕殺そうとしていた」
「奴等は妹の雀を殺した。もう味方なんかじゃない」
「敵だという明智は燕殺さない。おかしい」
うんと燕は頷いた。
「明智が燕殺そうとするなら、私が守る。私が燕と一緒に戦う」
「では弥助が私の味方だな」
自分の顔を見て少しだけ笑った燕の顔が嬉しかった。
弥助も笑った。
弥助が再び手を差し伸べると燕がその手を掴む。彼女の足は山中を裸足で無理に歩き続けた為か傷だらけになっていた。
弥助は屈んで彼女を自分の背に乗せた。
陽は天中から少し傾いたが、山の下り道は闇夜の中を登る時程の苦労は無い。
藤田行政との約束の刻限までには十分に間に合うだろう。




