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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月二日
14/84

近江国坂本城②

 坂本城の屋敷で明智秀満あけちひでみつの帰宅を妻の革手かわてが迎えた。

 彼女は丹波国福知山城へは赴かずここ坂本城に留まり、亡き主君の奥方煕子(ひろこ)様に代わり、明智家の次男明智定頼(あけちさだより)の乳母となりその世話を引き受けている。


「おかえりなさいませ」

「数年は戻れぬ予定であったが、帰る事が出来た」

「京で何事かあったと、城の者達が噂しておりました」


 頷いて見せたが京の出来事について彼女に今語ろうとは思わなかった。

「それでも嬉しゅうございます。もう何年も会えぬと諦めておりましたので」


 二人しばらくそのまま抱き合った。


 明智秀満と革手の出会いは、前妻を亡くし独り身であった明智秀満に、荒木家を離縁されてきた娘を娶っては貰えぬかと明智光秀に相談を受けたことに始まる。

 当初は明智家に対する忠義心から受けた縁談。

 戦の連続でこの革手と過ごした月日は長くは無いが、少しの時を大事にしてきたと思う。

 明智秀満にとっての安らぎは、すでにそこに生まれていた。


 何か気まずそうな雰囲気を自分に感じてか、妻が首を傾げた。

 実はと切り出し屋敷の外で待たせていた珍客二人を妻に会わせた。

 一人は黒人の大男の弥助やすけ、もう一人は雑賀のつばめと名乗った娘である。


 当初、明智秀満はこの娘を城内にて厳しく取り調べるものと思っていた。だが京での織田信長公襲撃犯が確定した今、あまり使い道は無いと判断され、評定でも娘の話はそこそこで切り上げられた。

 但し織田信長公襲撃当日を知る唯一の生存者であり、敵方に捕えられていたという奇妙な状況から、我らの未だ知らぬ情報があるかもしれぬと一応の監視を含めてその身柄を殿より預けられたのだ。


 娘の手荷物や鉄砲道具一式を広げて、殿はその中にあった欠けた木櫛をしばらく手に取り眺めていた。櫛には桔梗の花が彫られており、それに何か縁の様なものを感じたのかもしれない。


 娘の縄を解き、危害は加えぬと約束すると娘はおとなしく明智秀満に従ったが、弥助に引き合わせた時の驚きは尋常では無く「鬼に自分を食わせるのか」と怯えた。

 それを思うと革手を弥助に会わせるのが気が気でなかったのだが、当の本人は「まあ」と驚いてはみせたが特に動じる様子は無く、逆に自分が革手の肝の太さに驚いた程である。


「二人に飯を食わせてやってくれ」

 屋敷の使用人は既に帰宅している。

 革手はくりやに消えしばらくして何か用意してきた。

 娘も革手も弥助に興味津々で、彼が飯を食う姿をじっと見ている。

 自分との再会よりも革手の注意が弥助に向いている事に気付き、明智秀満は少なくない嫉妬心を覚えた。

 娘と弥助の二人が食事を終えると、革手が娘のぼろの姿を見て奥の部屋へと連れて行った。

 革手にはこの娘が敵方の者であったとは伝えていない。


 しばらくして斉藤利三さいとうとしみつ藤田行政ふじたゆきまさの二人が屋敷を訪れて来た。

「奥方と二人なら野暮はせぬのだが、珍客がいると聞き見物に参りました」


 二人は目の前の黒人の大男の姿を見ると、さすがに驚きの声を漏らした。

 黒人が弥助と名乗ると、斉藤利三が百姓の名みたいだなと笑い。そういう事なら自分が姓を与えてやろうと言い出した。

「いしだやすけ?」

「そうです。この近江国にて公に名を問われたらそう答えなさい。石田姓は近江国では由緒ある姓、それを名乗れば悪い扱いは受けないと思います」


 真面目なのかお調子者なのかよく分からない男だが、斉藤利三のする事には大抵意味がある。本能寺の生き残りである弥助の存在を隠すという意図でもあるのかもしれない。

 この二人を明智光秀は好きだった。

 ただ斉藤利三と無骨の固まりの様な藤田行政の二人がなぜ気が合うのかは今も分からない。

 

 屋敷の奥から革手が走り来た。

 あの雑賀の娘燕が消えたというのである。姉妹の話が出てから様子がおかしくなったと彼女は話した。

 革手と弥助を屋敷に残し、三人で城内の警備の者達に娘を見たかと問うて回ったが情報は掴めなかった。

 してやられたという思いで屋敷に戻った三人を弥助が外へと連れだし、地面を指差してそこに娘の足跡があるという。

 自分達には分からぬが、弥助が子供の頃に父から教わった技だという。

 足跡を追う弥助についていくと、城内の船渡し付近でそれは途切れた。ここからは水の中を進み城を抜け出した様だった。

 手ぶらで屋敷に戻り革手に事情を話すと、西の比叡山について娘から執拗に尋ねられたという。


「比叡山に捜索の手勢を出すか?」

「今の我らにその余裕は無い。それに闇雲に山中に入っても見つけるのは至難だろう。殿に話せば笑って捨て置けと言われる程度の事であろうが」


 藤田行政が弥助を向かわせてみてはと言い出し、それに斉藤利三も賛同した。

 確かに弥助ならば娘を見つけ出せるかも知れぬ。明智秀満は弥助に娘を連れ戻してくれぬかと尋ねると彼は頷いてくれた。

 藤田行政がしばし待てと自身の屋敷から一振りの太刀を用意してきた。

 背の低い藤田が使うために小ぶりな大太刀であったが、それでも普通の刀に比べればかなり長くて太い。

 弥助がそれを背に背負うと、彼に丁度良いくらいの大きさであると分かる。弥助が背の刀を抜き、手の感触をしばらく確かめていた。


          *          *


 明智光秀あけちみつひでの気持ちは未だ重かった。

 彼は一通りの諸事を済ませると、織田信長公が休む本丸へと足を運んだ。


「その節はお世話になりました。改めてこの光秀、曲直瀬道三まなせどうさん殿にお礼を申させて頂きます」

 対応に出た曲直瀬道三に深く頭を下げた。

 これは丹波国攻めの際に明智光秀が高熱にて倒れて生死を彷徨った際の治療と、その後の看病疲れが原因で体を壊して病に伏し、他界した妻煕子の治療という二つの出来事に対する礼であった。

「奥方様の事は誠に残念で御座いました」

 そう言い、曲直瀬道三も明智光秀に礼をする。


「織田信長公の容体は?」

「意識の方も未だ戻らず、状態も良いとは言えませぬ」

 織田信長公と話がしたいと申し出ると、曲直瀬道三は「少しの間であれば」と部屋を退出していった。


 薄明かりの灯る部屋の中は織田信長と明智光秀の二人だけの場所になった。

 蒼白で意識無く横たわる織田信長公の横に座した。


 ただ伝えたかった。 

 目前まで迫っていた西国平定、天下統一まであと一歩という夢を挫き、自身の命をも奪っていく敵が何者とも知れぬままこの世を去る事は、彼にとって無念であるに違いないからだ。


「大殿を襲撃した敵は石山本願寺の残党と雑賀の者共でございました。

 信忠様は無念にも倒れ大殿はこのような有様に、これ全てこの光秀の力不足によるもの。

 大殿と光秀が夢、まだ終わらせとうはありませぬ。生きてくだされ」


 織田信長の手を明智光秀は取ったが、そこから生気は感じられなかった。言いようのない悲しみだけが胸の中を駆け巡る。

 本能寺にて織田信長公を救出した直後、彼は自分にその無念さを伝え来た。

 あの時掴まれた腕の感触は今もまだ自分の記憶に鮮明に残っている。


「大殿、我ら明智はこれより織田の世を守る為、外敵のみならず内にある敵とも戦う覚悟。この光秀のこれからの行い。どうか全てお許し下され」


          *          *


 坂本城の屋敷へと戻った明智光秀を迎えたのは次男の明智定頼とその世話をする数名の女人達であった。

 定頼は今年十二才で丹波国亀山城に置いてきた長男の光慶みつよしより二つ年下となる。

 元服の儀は終えたが未だ初陣を知らぬ子供、彼は光慶と違い武では無く書に興味を示す。いずれは光慶を支える人物に育って欲しいと願っている。


 定頼とは簡単な言葉を交して自室に戻ると妻煕子の位牌の前でしばらく語った。

 明日、安土城へと発つ。

 そこで自裁せねばならぬかもしれぬ。

 明智謀反は事実無根なれど譜代衆の説得には命懸けで臨まねばならぬのと、織田信長公、信忠様を守れなかった京での不始末の責任は誰かが取らねばならぬ。


 部屋の外に人影を感じた。

 溝尾茂朝みぞおしげともが自分を訪ね来ていた。彼の面持ちに重いものを感じ自室へと招き入れた。

「命を粗末になされますな」

 それが彼の第一声だった。

「評定の席で殿の言葉に押され心を解する者はおりませんでした。殿は此度の一件の責任を取り譜代衆の前で死ぬおつもりではないですか?」


 全て見透かされている。この男との付き合いはそれ程に長いのだ。

 美濃を落ち延び流浪の生活を経て長岡藤孝の臣として足利幕府の下でわずかな禄を得ていた時代からの家人である。

 飛躍を望み妻煕子の実家にて生産される鉄砲を大名家へと卸し、京屋敷を整える財を築けたのは彼の商才あってこそであった。


 織田信長公との縁もその鉄砲取引にて生まれ、時の将軍足利義昭を襲った三好家を撃退した織田信長公は、そのまま京に数ヶ月の間滞在したが、この時明智光秀の京屋敷を利用したことが織田家家臣となる道を開いたのである。

 溝尾茂朝と妻煕子の後押しなくして今の明智光秀は無い。


「明智謀反の嫌疑は殿の死によって晴れるやもしれませぬ。しかし織田信長公と信忠様を失った織田は大きく乱れるでしょう。死する事はその混乱を誰かに託し投げ出すことに他なりません」


「庄兵衛、お前は事の終わりを見届けるまでが私の務めだと申すか」

「これは私の言葉では無く、畿内一円の事を全て殿に託した織田信長公の言葉であります」

 そう言われてぐうの音も出なかった。

「私は悔しいのだ」

「その気持ち、我らも同じで御座います」


 溝尾茂朝を残し、定頼を呼んだ。

 駆けつけた彼に槍をと告げ、それを受け取ると明智光秀は庭先に歩み出た。

 上半身裸となったその身体は年齢に不似合いな程逞しい筋肉に覆われている。重い槍がひゅんと音を立てて空気を割る。

 気合いを上げるその声の語尾は僅かに震えていた。


「父上は泣いておられますか?」

 廊下に座り自分を見る定頼が声をかけてくる。

「泣いている。だが父は負けて泣いているのではない」


 希望が夢が打ち砕かれた。それが例えようもなく悔しかったのだ。

 闇の中で涙が溢れるように流れ続けた。

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