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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月二日
10/84

生死

 本能寺とその周辺での騒ぎは終息に向かった。

 明智秀満あけちひでみつは境内に散乱した遺体で織田側の者達のものは一カ所に集めて丁寧な検分を行う様にと配下に命じた。

 主殿で発見された織田信長公と思われた遺体は、その首を精査すると全くの別人である事が判明した。

 京に未だ織田信長公を狙う輩が潜んでいる事を考えると、現時点でそれを公にして良いものかわからず、その判断は主君明智光秀に委ねる事にしたのだが、遺体をそのままにしていてはいらぬ噂が立つことを危惧して、それは当面、織田信長公という事にして、他の目に触れぬよう火葬にせよと命じた。


清玉上人せいぎょくしょうにんと申される方と僧数名が織田信長公の遺体を引き取りたいと参られました」

 織田信長公の捜索を続ける明智秀満の元に正門に配した警備兵がそう報告に来たが、これには困惑した。

 清玉上人といえば明智家の近江国坂本に阿弥陀寺を開創した人物。幼少期に織田家にて育てられた事もあり、織田家と明智家共に縁深い。


 しかし今彼等に寺内を彷徨かれては迷惑、彼等は来るのが早すぎたのだ。

 必死に懇願する上人には申し訳ないが、今は御殿の隅で密かに火葬中の首無し遺体を織田信長公であるとして彼等に引き渡す事にした。

 清玉上人と供の僧達はそれが織田信長公の遺体だと信じて火葬を途中から引き継ぐと、その遺骨を持って寺を退去したが、明智秀満は彼等を欺いた事に対する陳謝の念を込めてその背に深く礼をとった。


 

 京周辺を固め賊の逃げ道を完全に封じた後、ようやく明智光秀が溝尾茂朝みぞおしげともを伴って本能寺へと現れた。

 焼け落ちた本堂前で明智秀満は二人を出迎えた。

「秀満、織田信長公は?」

「未だ見つかってはおりません。主殿で亡くなられていたのは信長公では無く、急場を凌ぐ身代わりを立て敵を欺いたと思われます」


「抜け道を通ってすでに外へ出られたという事は無いのですか?」

 溝尾茂朝の問いに明智光秀が答えた。

「抜け道が存在するならば、それは織田家中でも一部の者だけが知る極秘事項。そして私はそれを伝えられるべき一人であった。その私が知らされていないのだ」

「ですが…」

森蘭丸もりらんまるは死んだのだな」

「はい。主殿の奥にて身代わりの遺体を庇う様にして」

「もし私にも伝えられておらぬ抜け道があったならば、信長公と常に行動を共にする彼が死ぬことは無いはずだ。信長公は必ず寺の何処かにおられる」


 走り来た伝令の兵が凶報を伝える。

 中軍の指揮を執る明智光忠あけちみつただが重傷を負ったと、指揮を代行する四天王寺政孝してんのうじまさたかより報告が届けられたのだ。

 詳細はこうであった。

 本能寺救援に赴き敗れた織田信忠一行が二条御所へと退いたとの知らせを受けた明智光忠は、二条御所大手門にて突如鉄砲による銃撃を受けたという。

 明智光秀はすぐに溝尾茂朝を援軍と共に二条御所へと差し向け、御所を包囲せよと命じた。


「本能寺を襲撃した軍を指揮していた将の首です」

 明智秀満が討ち取った老将の首を指差すと、明智光秀は驚きの表情を見せた。

「まさか」と、そう口にした様に明智秀満には聞こえた。


 突然北の方から兵達の声が上がった。

 主殿の方角から走りきた兵が、明智光秀と明智秀満の二人に伝える。

「巨大な鬼が暴れております」


 その報告に二人は顔を見合わせた。

 主殿奥にて地下蔵らしき場所を発見し数名が中に入ったが、巨大な化け物に襲われ逃げて来たという。

 とにかく急ぎ主殿へと向かった。

 怯える兵達を押しのけ、明智秀満自身がまず先頭をきった。


 階段を降りると打ち倒された兵の呻きが聞こえる。蝋燭ろうそくの明かりを闇に向けた時、腹に衝撃を受け壁に叩きつけられた。蹴られたのだと思った。

 隅に転がった明かりが僅かに何者かの姿を照らした。

 巨大な黒い体は闇に溶け込み二つの目だけが異様に光る。

 明智秀満も大柄な体格であるが、甲冑を纏った自分が木の葉の様に飛んだのである。相当な怪力である。

 身を起こし自分を見下ろす目に刀を抜き放ち何度か振るった。

 だが伝わる手応えは一度として無く、顔面に拳で殴られた激痛が走り、仰け反ったところを再び蹴られて吹っ飛んだ。

 体が宙を舞い、そのまま壁に激突した。

 壁を背に座り込む形で倒れた自分に鬼が近づいてくるが、明智秀満はすぐには動けなかった。


弥助やすけなのか?」

 遅れて地下蔵へと入った明智光秀がそう問うと、名を呼ばれて振り返った鬼の動きが止まる。

「私が分かるか? 明智光秀だ」

「あけち…」

 そう言うと沈黙して鬼はそのまま床に座り込んだ。


 地下蔵の中に明かりが灯される。

 奥に白い着物を纏った姿で横たわる人影が一つ。

「織田長信公」

 明智光秀が駆け込みその体を抱え起こす。

 紛うことなく本物の織田信長公の姿がそこにあった。

「明智光秀にございます。遅れて申し訳ございませぬ」

「ぬかったわ光秀」

 必死に叫ぶその声に反応したのか、目を閉じたまま織田信長は弱い声を発し、彼を抱く明智光秀の腕を一度だけ力強く掴んだ。


          *          *


 織田信長公の生死は不明とされた。

 襲撃者達の骸は埋葬せずに御殿内に積み上げ火を掛けた。その後、近隣の寺社からの死者埋葬の申し出を受け入れ、本能寺で散った小姓や馬廻りの者達の事を彼等に委ねた。


 現時点で織田信長公生存を知る重臣は明智秀満のみであり、これに関わった兵達は織田信長公直属の警護としての任を与え、他の兵士とは隔離した。

 織田信長公を本能寺に隣接する村井貞勝むらいさだかつの屋敷にひとまず隠し、そこで京でも名医と名高い曲直瀬道三まなせどうさんとその弟子であり孫娘婿の曲直瀬正琳まなせしょうりんを明智秀満自身が直接出向いて内密に召し出しその治療に当たらせた。


 当時医者と言えば内科を扱う者を指し、直接傷口を治療する外科は格の低い者という認識があった。

 明智秀満が伺いを入れたとき、まず婿の正琳が対応したが、「我らは金創医にあらず」として申し出を渋ったので、仕方なく治療が必要なのは織田信長公だと明かした。

 その名を聞き慌てた正琳がすぐ父である道三に取り次いだが、彼は事情を聞くと正琳を「医者の心未だ知らず」と彼を一喝し、織田信長公の治療を快諾してくれたのである。


 織田信長公と同時に保護された弥助について主君明智光秀は、「黒人はこの国の者ではないのでこれ以上事に関わる必要は無いだろう」と近くの南蛮寺に預けるよう明智秀満に命じたのだが、明智秀満が我らと共に来るかと弥助に尋ねると、彼は黙ってそれに頷いた。



 本能寺襲撃者残党の狩り出しも終わり、数百の首が路上に積まれていた。

 敵の正体を知るために出来るだけ多くを生け捕りにせよと命じていたが、その全員が逃げ切れぬと悟ると最期まで抵抗するか自決して果てていた。

 悲しむべき報告もあった。

 京に到着し市内に宿を取っていた織田信長公馬廻りの者数名が織田信長公に殉じて自決したというのである。  


          *          *


 京市内の残党の掃討の完了を斉藤利三が明智光秀に報告すると、明智光秀は全軍を二条御所へと集結させた。

 二条御所をぐるりと取り囲む明智軍の更に外周では、京の人々が集まり不安げにこちらを見ている。

 銃撃を受けて負傷し離脱した明智光忠の言によれば、二条御所内に籠もる織田信忠一行は本能寺の襲撃者を明智者であると誤認している可能性があるとの事だった。


「我らは織田信長公襲撃を企んだ賊を討ち、織田信忠おだのぶただ様と誠仁親王さねひとしんのうを保護しに参った。開門されよ」


 大手門である南門に近づいた斉藤利三が二条御所内に告げると、門の外へ一つの首が投げ落とされた。

 京都所司代村井貞勝(むらいさだかつ)の首、続けて御所内より声が響く。


「織田信長も信忠も我らの手によって地獄に墜ちた。ついに仏罰が下ったのだ」

 明智軍の皆が声の方向に注目する中、槍の穂先に刺された八つの首が御所内から掲げられた。


「信忠様」

 掲げられた首の一つを見て主君明智光秀がそう叫ぶのを明智秀満は聞いた。

 激情に捕われた明智光秀に「攻撃せよ」と命じられ、明智秀満はそれをすぐに制しようとしたが、その声は明智光秀の義弟明智孫十郎(あけちまごじゅうろう)の「攻めよ」の大声と、それに続く将士の叫びにかき消されてしまった。


「殿、気持ちを静めてください」

 明智秀満は明智光秀の眼前に立ち、強い口調で彼を諫めた。

「すまぬ秀満。今、織田の未来が消えたのだ」

 明智光秀は失意に耐えきれなくなったのか、その場に崩れ落ちた。

 織田信長公を救い出し、織田信忠様は二条御所へと退避された。当然無事であると思われていた矢先の出来事だった。

 それだけに殿の受けた衝撃は大きかったのだろう。

 溝尾茂朝が明智光秀を数人がかりで後方へと連れて行った。


 無様な戦いであった。明智軍には多くの死傷者が出ていた。

 二条御所南の大手門が開かれ、そこに誘い込まれるように突入した明智軍は、待ち構えた鉄砲による連続射撃を受けて門外へと押し戻される。

 二度目の突撃で明智孫十郎は討ち死に、城兵が一度討って出てきたのを押し戻すと敵は大手門を固く閉じて戦闘は膠着状態となった。

 敵の鉄砲による被害が大きく、兵のこれ以上の無益な損耗を避ける為に一旦軍の包囲を遠巻きにさせた。 

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