20歳の娘が彼氏をウチに連れてきた
俺はこれから、人生で最大の敵と戦うことになる。
強敵だ。はっきり言って、勝ち目などないだろう。
自分の腕に自信がないわけじゃない。高校時代はボクシングでインターハイに出場し、ベスト8まで勝ち残った経験がある。
俺に勝った相手は、その大会の優勝者だった。強かった。
でも、今日の相手は、ある意味ではそれよりも強敵だ。
賃貸マンションの、2LDK。それが俺の家だ。
今は、リビングのソファーに腰を降ろしている。膝の近くで組み合わせた両手が、かすかに震えていた。これは武者震いか。それとも、恐怖で震えているのか。
四十一歳。気力も体力も下降線まっしぐらな年齢だ。それでも、今日だけは、気力を振り絞る必要がある。これから迎える、勝ち目のない戦い。でも、勝たなければならない。大切なものを失わないために。
「ちょっと俊介、そんな恐い顔しないでよ。緊張してるの?」
キッチンから出てきた妻に声を掛けられた。最愛の妻の声を耳にして、少しだけ肩から力が抜けた。
妻──仁美の方を向く。
仁美は三十九歳。実年齢より十歳くらいは若く見える。はっきり言って美人だ。しかも、二十歳の娘がいるとは思えないほどスタイルがいい。おまけに、胸はGカップだ。
仁美との出会いは、俺が十九、彼女が十七のときだった。付き合い、一年後に妊娠が発覚して、結婚した。
娘が産まれてから二十年。長いようで短かった。
ピンポーンと、この家のインターホンが鳴った。
「はーい」
仁美が、パタパタと玄関まで走ってゆく。
俺はソファーから動かなかった。今日の相手が来た。これから戦う、まだ顔も知らない強敵。
娘の、彼氏。
彼氏を座らせるために、ソファーの前には座布団を用意した。彼氏と娘の、二人分。
ソファーと座布団の距離は、約二メートル。パンチを出しても届く距離ではない。
それでも今日は、必要に応じて、得意の左フックを打ち出すつもりだ。
もっとも、高校時代に左肩の靱帯と腱を部分断裂して、全盛期の半分の力も出せないだろう。今でも後遺症が残っていて、少し痛い。歳を重ねるごとに痛みは大きくなり、動きは悪くなっている。
「ただいま、お母さん」
「ご無沙汰してます、お義母さん」
「あら、いらっしゃい」
ご無沙汰してます、だと?
玄関から聞こえてきた声に、俺の肩が震えた。仁美は、娘の彼氏に会ったことがあるのか?
そんな話、俺は聞いたことがないぞ!
「これ、つまらないものですが。よろしければ、お義父さんとご一緒に食べてください」
「あらあら。ありがとう、義隆君」
仁美ぃぃぃぃぃ!? お前やっぱり、その男に会ったことがあるんだな!? いつの間に!? 俺に内緒で、そんな男に会っていたなんて!
動揺したせいか、額に一筋の汗が流れてきた。季節は秋。時刻は夜の八時。暑くはない。むしろ、少し肌寒いくらいだ。
落ち着け俺! 動揺は、頭の回転を鈍らせる。所詮高卒の脳ミソだが、それでも、今日の戦いに勝つためには戦略と戦術が必要不可欠だ。
考えろ俺! どうやって勝つ? どうやって、奴から娘を奪い返す?
組んだ両手を、俺は強く握り締めた。柄にもなく祈った。神様なんかじゃない。実家にいる、俺の母親に。早くに父を亡くし、女手一つで俺を育ててくれたお袋に。
お袋! 俺に力を貸してくれ! 今この一瞬だけでいい! あの男に勝つ力を俺に授けてくれ!
「お父さん、ただいま」
「ああ、お帰り、美佳」
リビングに入ってきた娘に、俺は言葉を返した。娘に続いて、仁美がリビングに入ってくる。
そして──
「初めまして、お義父さん」
仁美の後にリビングに入ってきた男が、俺に向かって気をつけの姿勢を取った。頭を下げる。絵に描いたような綺麗なお辞儀だ。
「美佳さんとお付き合いをさせていただいております、三浦義隆と申します」
「そうか」
三浦義隆だぁ!? なんて普通な名前なんだ!! もし皇帝とかみたいな変な名前なら、言ってやれたのに!
「そんな変な名前をつける親に育てられた奴が、まともであるはずがない!」と。
クソが。心の中で舌打ちする。もちろん、そんな様子は顔には出さない。可能な限りのポーカーフェイス。組んだ手は、汗でびっしょりになっていたが。
「パパ」
娘の前での呼び名で、仁美が俺を呼んだ。
「義隆君がね、お土産持ってきてくれたの。このと屋のチーズタルト。しかも、十個も。あとで皆で食べましょう」
このと屋は、地元の有名洋菓子店だ。老舗と言っていい。その商品にハズレなどなく、地元住民に愛されている。
俺はつい、唾を吐き出しそうになった。もちろん、そんな大人げないことはしないが。
「俺は甘い物は食べない。食べるなら三人で食べるんだな」
「すみません、お好みではなかったんですね」
すかさず、義隆君が詫びの言葉を入れてきた。
「よろしければ、好きな食べ物を教えていただけますか? 今度お邪魔するときに持参しますので」
「あ、大丈夫だよ、義隆君。嘘だから」
口を挟んだのは、美佳だった。俺の可愛い可愛い可愛い可愛い一人娘。
「この間なんて、このと屋のチーズタルト、十個も買ってきたんだから。私とお母さんで四つ食べて、残りの六個を一人で食べてたんだよ、お父さん」
美佳ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!? そこは話を合わせてくれよ! お父さんの威厳を保たせてよ! ほら、義隆君だって、ちょっと困った顔してるじゃないか!
気まずい沈黙が流れた。
俺の額の汗は、重力に引かれて頬まで流れてきた。
ンンッ、とひとつ、俺は咳払いをした。
「とりあえず、美佳と、えっと……義隆君だったか」
「はい」
「そこに座りなさい。ある程度の話はもちろん事前に聞いているが、君達の口からはっきり聞きたい」
一週間前。俺は突然、美佳に告げられた。結婚したい人がいる、と。まだ二十歳の、大学生の娘に。
俺に言われるまま、義隆君と美佳は、ソファーの前の座布団に腰を下ろした。俺から見て、義隆君が左。その隣に美佳。
よしよし。距離はあるが、義隆君が左側に座ったか。これで、いざとなったら、思い切り左フックをこいつに叩き込めるな。左肩が痛いが、そんなことはどうでもいい。
目の前にいる二人と視線を合わせながら、俺は再びお袋に祈った。
頼む、お袋。俺に力を貸してくれ。今、この一瞬だけでいい。俺に全盛期の力を与えてくれ。この義隆とかいう、見るからに好青年っぽい奴には負けられないんだ。
「それで、と。義隆君、だったか」
「はい。三浦義隆と申します、お義父さん」
──お前にお義父さんなどと呼ばれる筋合いはないっ!
そんな言葉が、喉の奥から出かかった。なんとか堪えた。こんな月並みなセリフなど、この場では何の意味もない。そんなことを言ったら、俺は、娘を彼氏に取られたくないだけの馬鹿なオヤジになってしまう。
この場で重要なのは、いかにして美佳に結婚をやめようと思わせるか、だ。俺が美佳に幻滅されることもなく、馬鹿とも思われずに、だ。
やっぱり、お父さんと一緒にいたい。結婚なんてしたくない。そう美佳に言わせるのがベストであり、俺にとっての勝利なのだ。
「じゃあ、義隆君。君の口から聞かせてくれ」
「はい」
義隆君は座布団の上で正座をすると、俺の方に頭を下げてきた。
「美佳さんとお付き合いをさせていただいておりまして、結婚をしたいと思っています」
包み隠すこともなく、義隆君は告げてきた。裏表も策略もない。頭を下げていても、堂々とした態度だった。
「どうか、僕達の結婚を認めてください」
「なるほど」
くそっ! くそっ! くそっ! くそっ! くそっ! 結婚だと!? 美佳と!? 俺の娘と!?
俺の可愛い可愛い可愛い可愛い美佳を、俺から奪うのか、この男は!
いやいや、落ち着け俺。どっしりとした態度で、父親の威厳を保つんだ。理路整然と、しっかりとした言葉で対応するんだ。それでもし義隆君が殴りかかってきたら、必殺の左フックで倒せばいい。そうすることで美佳は彼に幻滅するだろうし、俺のことを見直すはずだ。
よし、深呼吸だ俺。まずは、軽い牽制から入るぞ。
「だが、美佳はまだ学生だ。しかも、一生懸命勉強して入った大学だ。やりたいことがあるから、と──」
もっとも俺は、美佳が何をやりたいのか、実は知らない。聞いてみたが、教えてくれなかったのだ。
「──君は、それを承知で言っているのか?」
「はい」
「では、結婚して、美佳に大学を辞めろと?」
「いえ」
義隆君は頭を上げた。誠実さを物語るように、しっかりと俺の目を見てくる。
「僕は、美佳さんと同じ大学出身で、美佳さんの夢を手助けできる立場だと思っています」
美佳を手助けだと!?
ということは、こいつ、美佳が何をしたくて今の大学に入ったか、知っているのか!? 俺でさえ知らないのに! 教えて貰えなかったのに!
リビングにある食卓テーブルの方から、クスッと笑い声が聞こえた。見ると、仁美が、どこか楽しそうに笑っていた。
仁美のその顔。もしかして、仁美も知っているのか!? 美佳が何を目指して今の大学に入ったのか。
ということは、知らないのは俺だけなのか!? そうなのか!?
切なさと悲しさと疎外感で、なんだか泣きそうになった。涙はなんとか堪えたが、代わりに、頬を伝う汗が顎から流れ落ちた。まるで涙のように、ポタリと。
ううううううっ。どうしてだよぅ、美佳ぁ。お父さんはなぁ、ずぅーっと美佳を大切に思ってきたんだぞ。そりゃあもう、可愛くて可愛くて。目に入れても痛くない。なんなら、鼻の穴に入れても痛くないんだぞ。
ちくしょう。
俺はどこか捨て身な気分になった。こうなったら、もっともらしい正論で攻めてやる。
「だが、美佳はまだ二十歳だ。いくら何でも早いだろう。結婚とは、赤の他人が家族になることだ。もう少し大人になってからすべきだ」
「あら」
口を挟んできたのは、仁美だった。
「でも、私が結婚して美佳を産んだの、十九のときなんだけど」
仁美ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?
確かにそれは事実だよ! でも、こんな場面で言うことないんじゃないか!? ひどくないか!?
なんだよもう。さっきのチーズタルトの件といい。もしかして、仁美も美佳も俺の敵なのか? そんなにこの好青年風な男がいいのか? 確かに好青年っぽいけど。
仁美は優しげな笑顔を浮かべて、こちらに足を運んできた。俺の隣にぴったりとくっつくように、ソファーに腰を降ろす。
「ねえ、美佳」
「何? お母さん」
「お父さんにも話してあげたら? 義隆君のお仕事と、美佳がなりたい職業」
「……」
美佳は仁美をじっと見た後、唇を尖らせてそっぽを向いた。昔から、いじけたときや恥ずかしがるときにする仕草だ。
美佳は、現在二十歳。
まだ二十歳。
もう二十歳。
法律的には、結婚も可能な年齢。たった今、結婚したい相手を連れて来ている。
俺の頭の中に、今までの出来事が蘇ってきた。仁美が、美佳を妊娠してからのこと。
避妊に失敗して、仁美が妊娠した。まさか、コンドームが破れたたった一回で妊娠するなんて思わなかった。
焦ったが、嫌だとは思わなかった。
当時の俺はまだ二十歳。子供が産まれる頃には、二十一歳。父親になるには早すぎる年齢だったかも知れない。
けれど、堕ろすなんて選択肢は、俺にはなかった。お袋は、女手ひとつで俺を育ててくれたんだ。そんなふうに育てられた俺が、命を粗末にできるはずがない。
お義父さんには──仁美の親父さんには、メチャクチャ怒られたな。よく殴られなかったものだ。親父さんにも仁美にも、土下座して頼んだ。産んでくれ、と。この命を大切にしてくれ、と。
仁美が妊娠してから、俺は煙草も酒もやめた。まだ若かったから、給料は安かった。でも、生まれてくる子に不自由はさせたくなかった。経済的には恵まれないから兄弟はつくってやれないが、その分だけ、目一杯の愛情を注ごうと決めた。
美佳が産まれたときは、感動したな。こんなに可愛い生き物がこの世にいるのかよ、なんて。どんなに堪えようとしても、涙が止まらなかった。
初めて美佳が俺の似顔絵を描いてくれたのは、四歳のときだった。保育園でのお絵描き。その絵はラミネート加工して、今でも箪笥の奥に保管している。
俺の宝物だ。
初めて美佳が俺に誕生日プレゼントをくれたのは、小学校五年のときだったか。ネクタイ。古くなってほつれてきても、修繕して、未だに使っている。
これも、俺の宝物だ。
反抗期のときは苦しかったな。クソジジィとか言われて、つい涙目になったな。仁美が慰めてくれなかったら、号泣していたかも知れない。
可愛い俺の娘。
産まれたときは、人生で一番感動した。
幼少期の頃は、その可愛さだけで親孝行だった。
反抗期で苛つくことはあっても、愛情は薄れなかった。
反抗期が落ち着いて、大人になっていった。
俺から逸らされていた、美佳の視線。美佳は、俺の方を向いた。目と目が合った。目元が俺によく似ている。頬が少し赤くなっているように見えるのは、俺の気のせいだろうか。
「あの、ね──」
もじもじとした様子で、美佳は話し始めた。
「義隆君は私の大学の先輩で、今はもう卒業してて、理学療法士をしてるの」
「理学療法士?」
俺は無学な人間だ。美佳が言った職業がどんなものなのか、よく分からない。名前からして、医療系の仕事みたいだが。
「それでね、私も、理学療法士を目指してるの」
「そうか」
「いや、パパ、理学療法士がどんな仕事か、知らないでしょ?」
仁美が苦笑を浮かべて言った言葉に、俺は小さく頷いた。
「美佳。ちゃんと伝えないと」
「……うん」
小さく頷いた美佳は、耳まで真っ赤になっていた。
「あの、ね。お父さん」
言葉が途切れる。美佳は顔を伏せた。また、俺から目を逸らすように。
「理学療法士ってね、平たく言えばリハビリとかする仕事で──」
つまり、怪我をしたり歳をとったりで体の機能が低下した人の、サポートをする仕事。身体機能低下の改善の仕事。
「──お父さん、言ってたでしょ? 昔、左肩怪我して、今でも痛いし、調子の悪いときは思うように動かない、って。だから……その……」
美佳の言葉が止まった。続きは口にできない。そんな様子だった。
え? じゃあ、何か? 美佳が理学療法士を目指したのは……。
義隆君が、美佳の背中を優しくポンポンッと叩いた。その手は、美佳の背中に触れたまま。好青年らしい好青年風な笑顔を、俺に向けてきた。
「口を挟むようで申し訳ないんですけど、美佳さんがこれ以上は言いにくいようなので、僕から失礼します」
こんなときでも礼儀は忘れない。本当に好青年だな、こいつ。
「美佳さんが理学療法士を目指したきっかけは、お義父さんの左肩なんです。昔大きな怪我をして、未だに後遺症が残って。寒いときは痛むし、思うように動かせないときもあると伺ってます。だから、少しでも力になりたかったそうです」
「……」
なんだよ。
なんだよ、こいつら。
どいつもこいつも。
俺だけ蚊帳の外に置いて、みんなして俺に優しくしやがって。
どういうつもりだよ。そんなに俺を泣かせたいのか? 歳を取るごとに緩くなる涙腺を、寄ってたかってぶっ壊す気か?
残念だったな。泣いてなんてやらねぇぞ。泣くもんか。俺はな、美佳が産まれたときに一生分の涙を流したんだ。
「そんな美佳さんだから、結婚して、一生一緒に生きていきたいと思いました」
優しくも強い、義隆君の口調。決意の言葉。
「どうか、認めてください。これからは美佳さんと一緒に協力し合って、高め合って生きていきたいんです」
言葉が出ない。今声を出したら、泣き出しそうだ。涙声になりそうだ。でも、こいつらの前で泣きたくない。
「そうか」
なんとか声を低くして、俺は短く伝えた。
「まあ、いいんじゃないか」
「ありがとうございます!」
再び、義隆君は頭を下げた。美佳が恥ずかしそうな小声で「ありがとう」と呟いた。
くそ。
こいつら、早く出て行ってくれないかな。
泣きそうなんだよ。もう限界なんだよ。いっそ、腹壊したとか言って、便所にでも篭もろうか。
「美佳、義隆君」
仁美がソファーから立ち上がった。
「とりあえず堅苦しい話はこれくらいにして、二人でこれからについて話し合ってみたら? 私達がいるところじゃ、話しにくいこともあるでしょう? 特に美佳は」
唇を尖らせて、美佳は仁美を睨んだ。でも、決して怒っているわけではない。
「そうですね。では、今日のところは失礼します」
義隆君が立ち上がった。一緒に、美佳も立ち上がる。
仁美が二人を玄関まで見送る。「お邪魔しました」という義隆君の声が聞こえて、家のドアが閉まる音。カチャンと、鍵を閉める音。
玄関から仁美が戻ってきた。また、俺の隣に座った。
「はい、俊介。もう大丈夫だよ。あの子達、出て行ったから」
仁美の言葉を合図に、俺の両目から涙が溢れた。ドバッと、滝のように。甘えるように、仁美に抱きついた。
「仁美ぃ。嬉しいよう。でも、寂しいよう」
「うんうん。そうだね」
抱きつく俺の頭を、仁美は優しく撫でてくれた。
「私も、ちょっと寂しい。結婚してからすぐに美佳が産まれて、ずっと三人だったから」
「美佳ぁ。あいつ、ちょっと前まで、保育園に通ってたのに。なのに、いつの間にか大人になって」
「うん。本当にね」
俺の頭を撫でる仁美の手は、優しい。その手が、ポンッと俺の背中を叩いた。
「それでね、俊介」
「何?」
「これからの美佳の授業料は、義隆君が出したいんだって。二人で一緒に生きていくんだから、って」
「なんだよそれ。好青年かよ」
俺の言葉に、仁美は小さく笑った。
「だからね、俊介。浮いた分の授業料だけ、ウチには少し余裕ができるの」
「……? まあ、そうだな」
美佳の学費のために、できるだけ貯金してきた。それが、単純計算で半分ほど残ることになるわけだ。
「でね、さらに、私達が結婚した頃に比べて、私達自身の給料も上がったでしょ?」
「……? まあ、そうだな」
仁美の言葉の意図が分からず、俺は同じセリフを繰り返した。
「経済的には余裕ができて、二人きりになって、でもちょっと寂しいから」
仁美は俺から少し離れた。涙でグチャグチャの俺の顔を、じっと見つめる。三十九歳。でも、実年齢より十歳ほど若く見える。スタイルもいい。控えめに言っても、凄くいい女だ。
そんな仁美が、先ほどまでとは別の種類の笑みを浮かべた。優しいけど、艶っぽい笑み。
「これからもうひとり、子育てしてみない?」
ポカンと、俺は仁美を見つめた。愛する妻。いい女。艶っぽい笑み。
もうひとり子育て。
それはつまり、美佳に弟か妹をつくるということで。
それはつまり、子作りをするということで。
つまり、それは──
「あ。ちなみに私、今日、多分排卵日」
俺の顔は、大量の涙で濡れている。
顔を濡らしている気持ち。それとは別の感情が、俺の腹の奥から湧き上がった。
「仁美ぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
俺は仁美を抱え上げた。お姫様抱っこ。左肩の痛みなんて、なんのその。
そのまま全盛期ほどの素早さで、仁美を寝室に連れ込んだ。
燃え上がった。色々な意味で。
約二時間後に、燃え上がっている最中で美佳が帰って来て気まずくなったのは、別の話。
九年後に、娘と孫が同じ小学校に入学することになるのも、また別の話。