恋は変
あたしにはストーカーがいる。名前は宇佐見夕。気付いた時には夕はあたしの後をつけたり隠し撮りしたりゴミを拾ったりしていた。
最初は全然知らない他人だと思ってたけどある時ふと思い出した。中学の後輩で委員会が一緒だった。そんなに仲良くないし、全然話したことなかったけど、そういえば一度だけ夕の絵を褒めたことがある。偶然通りかかったところに展示された星空とビルの絵の色が良かったから気まぐれに褒めたら夕はとても嬉しそうにはにかんだ。その事をあたしは最近までずっと忘れていた。
高校だって別だし接点もないのに夕はあたしのことをずっと見ていた。気付いてるけどあたしから話しかけるのはちょっと違うよなと思って放置してる。夕はストーキング行為はするけどあたしに話しかけたりとかはしない。ただ、後をつけて隠し撮りしたりゴミを漁ってるのは知ってる。普通に引くし気持ち悪い。一方通行の好意は害悪だと思う。
そして、そんな夕にもストーカーがいる。名前は知らない。多分年上で韓国アイドルみたいな派手な髪色をしていた。知ってる限りでも緑、ピンク、紫と色が変わってた。背が高くて色素が薄くて本当にアイドルみたいな男だ。夕にストーキングされて夕を見ているうちに夕の後をつけて盗撮する彼に気が付いた。
多分大学生なんだと思うけど、夕を見つめる目があまりに真剣なので気付かないふりをした。彼からすればあたしは恋敵になるのだろう。とにかく、あたしにはストーカーがいて、そのストーカーにもストーカーがいるという不思議な状況に陥っていた。
クラスメイトの季実子が読んでた雑誌に載っていたエイチというアイドルが夕のストーカーに似ていたのであたしは心の中でエイチと呼んだ。エイチは夕のことをつけ回して盗撮しまくってるのに何故か夕は気付いていなかった。
多分、自分がそういう対象になるなんてこれっぽっちも思っていないのだ。夕は美形ではないけど不細工でもない。ただ、陰鬱な雰囲気のせいで魅力が半減していると思う。昔はもう少し明るかった気がする。人見知りだけど優しい、大人しい感じで犯罪を犯したらまさかあの子がそんなことするなんてって言われるようなタイプだ。
そして、そんなあたしを見る夕をスマートフォンで盗撮するエイチの手は白くて細くて長くて綺麗だった。ピアニストとかの手って言われても納得できる感じ。良く見ると顔も良かった。アイドルに似てるくらいだから整っているよなあとぼんやり思った。そして、じろじろ見てるうちに目が合った。だからあたしは近寄って彼にに声をかけることにした。
「ねえ、おにーさん。盗撮は犯罪って知ってる?」
「お、お前は柳瀬亜衣! どうしてここに」
思ったよりも低めの声、派手な髪の根本は黒だしそりゃ地毛なわけないよなと思った。
「あのさ、気付かれてないと思ってたの? 夕の事ずっと盗撮してたでしょ? あとゴミ拾ったり。気持ち悪いよ。そういうのされた人の気持ち考えたことある?」
「ない! でも俺は夕にならされたい」
「わ、まじで変態じゃん。告白すれば?」
「夕は俺のことを信頼してるから告白なんて愚かな真似をして距離を取られるのが嫌なんだ」
「わかんないじゃん。両思いでハッピーエンドかもよ?」
「お前がいる限りそんな未来はありえないんだぞ柳瀬亜衣!」
「わかってんじゃん。でもさ、あたしもストーカーされて困ってんの。あたしたち、協力し合えばwin-winの関係になれるんじゃないかなって思うんだけど?」
あたしの一言に彼は目を輝かせた。チョロい。こんなにチョロい大人がいるんだなと逆に感心してしまった。それからあたしたちは夕に気付かれないようにカラオケボックスに入って一曲も歌わずに作戦会議を始めた。
「ねえ、おにーさん名前はなんて言うの?」
「渡邊櫂だ。おい、このハニートーストを頼んで良いか?」
「好きなもの頼みなよ櫂の奢りなんだから」
「えっ? 俺の奢りなのか?!」
「当たり前でしょ。高校生はお金がないのよ!」
「そうか……、わかった。ならチョコバナナパフェと焼きそばとメロンソーダも頼もう」
「あたしアイスコーヒーとティラミスとポテトフライ明太子マヨソースね」
「そんなに食うのか」
自分だってハニトーとパフェと焼きそば食べるつもりな癖に何言ってんだと思った。櫂は確かに身体も大きいから良く食べるんだろうな。食べっぷりが良い人は好きなのでちょっと楽しみになってきた。大食い動画とかが好きで暇な時は良く見てるのだ。
テーブルの上に所狭しと並べられた料理を食べながら作戦会議をすることにした。あたしは夕からのストーキング行為をやめさせたい。櫂は夕と両思いになりたい。櫂が夕と両思いになれば自然とあたしに対するストーカー行為はなくなるはずだし、ニ人をくっつけるのが一番手っ取り早い方法だということに落ち着いた。
櫂の食べ方は綺麗だけどめちゃくちゃ早くてそして予想通り良く食べた。ハニトーなんてほぼパン一斤なのにフォークとナイフで切り分けてパクパクと口に入れていった。
あと、焼きそばを食べるときの箸の割り方もなんだか上品でこの人実は育ちが良いんじゃないかと思った。優雅にチョコレートパフェを完食してから櫂は紙ナプキンで口を拭いた。
「よし、それじゃあ柳瀬亜衣、どんなプランがあるのか教えて貰おうか」
「勿論。でもまずあなたと夕の関係を教えてくれない?」
「俺は夕の家庭教師だ。半年前から週に二回教えてる」
「ふうん、頭良いんだ? てか、そんな髪色で家庭教師とか出来るんだ」
「まあ、ほどほどだ。人に教えられる程度には学力があると言えるだろう。あと髪色に関しては何も言われたことはない。これは姉が美容師をしていて実験台にされてるんだ。俺の趣味ではない」
馬鹿真面目というかなんというか櫂は見た目と中身が全然一致していなかった。もっと遊んでるっぽい感じかと思ってたのに真剣に夕のこと好きだし出会い方も考えてたよりも普通だしどういう作戦にするか迷った。
「じゃあとりあえず夕のストーカーはやめよっか? ゴミ拾ったり盗撮してたのバレたら付き合うどころじゃないでしょ? 気持ち悪いし」
「ああ、そうだよな。そんなに真っ直ぐ言われると正論なんだが胸が痛い」
「それから、夕とあたしと三人で遊ぶような関係になれば仲を深められると思うのよね。今はただの家庭教師と生徒でありストーカーでしょ? もう少しフランクな関係にならないと付き合うの無理だと思うよ」
「なるほど、一理ある。確かに今のままだと付き合うのは難しいだろう。それで、どういう風に誘えば良いんだ?」
「まずは、あたしと櫂が知り合いだってことで出かけたりとかすれば夕は絶対引っかかる訳よ。それで一緒に行動する?って誘えば断られないと思うわ」
「柳瀬亜衣、お前は俺が思っていたよりも賢いようだ」
「ありがとね、全然嬉しくないわ」
渡邊櫂という人間は、あたしが想像していたよりもずっと真っ直ぐな男だった。見た目よりもチャラくないし、どうやら頭も良いらしい。なんだ、良いやつじゃん、っていうのが正直な感想だ。
「おい、柳瀬亜衣、連絡先を教えろ」
「まあ、連絡先教えるのは良いんだけど、ずっとフルネームで呼ぶわけ?」
「ああ、それじゃ駄目か?」
「仲良い人間をフルネームで普通呼ばないでしょ。あたしと櫂は仲良しなんだから亜衣で良いよ。ほら、十回呼んでみて」
「亜衣、亜衣、亜衣、亜衣、亜衣、亜衣、亜衣、亜衣、亜衣、亜衣」
「なあに? 櫂」
「なんか慣れないな」
「そうなの? 櫂ってモテそうだけど」
「モテなくはないが別に親しくない女性の名前を呼ぶことはない」
「なるほど、拗らせてんのね」
「おい、柳瀬亜衣! お前本当に失礼だな。仮にも俺は年上だぞ」
「亜衣でしょ、ほら、もう十回」
くどい、と言って櫂は手を払った。その耳は赤く染まっていて、なんだか可愛いなと思った。
その後、櫂と連絡先を交換して、週末に会う約束をした。櫂はQRコードの使い方を全く知らなくて笑ってしまった。
待ち合わせのハンバーガーチェーンに櫂はすでに来ていた。紫色だった髪は水色に変わっていた。美容師のお姉さんが選んだであろう服は個性的で似合っていた。やっぱり芸能人みたいだ、と思った。
「櫂、おはよう」
「柳瀬、いや、亜衣。五分遅刻だ」
「うそ! あ、時計が遅れてる」
「持ち主に似たルーズさだな」
「ごめん、待たせたのは悪かった」
「まあ良い。今日はゲーセンに行くんだったな」
「うん。その髪の毛似合ってるね」
「水色だ。夕は水色が好きなんだ」
そう言った櫂の表情が柔らかくて、びっくりした。彼は本当に夕のことが好きなのだ。いつも仏頂面なのに。仲良くなったらあたしにもあんなに風に笑いかけてくれるんだろうか。そんなことを考えてしまった。
ポテトを摘みながらアイスコーヒーを飲んでいると、目の前の櫂は相変わらず良い食べっぷりを見せてくれた。ハンバーガーセットプラスハンバーガーとナゲットをメロンソーダで流し込んでした。食べるのは速いけど、下品じゃないので見ていて楽しかった。食べてるところをもっと見たい。
「亜衣、今日はあんまり食べないんだな」
「あの日は奢りだったから」
「今日も奢っても良かったのに」
「今日は自分で払いたい気分だったのよ」
食事が終わってからゲーセンに向かう。予想通り夕はあたしたちの後を付けて来ていた。完全に戸惑っていたが、こちらをじっと見ていた。櫂のことをめちゃくちゃ睨んでいるのを見て櫂は嬉しそうな顔をした。改めてこいつ怖いな、と思った。
クレーンゲームでぬいぐるみとお菓子を手に入れて、プリクラを撮る。目が異様に大きくなっていて笑った。櫂はコイン落としがとても上手くて感心した。
「櫂、コイン落とし上手いね」
「このゲームは角度が肝要だ。ほら、ここからよりこっちの方がたくさん落ちる」
セロファンに包まれた色とりどりのコインが落ちてくる。櫂の顔は真剣だった。彼の水色の髪は意外と痛んでいなくて、それに触ってみたいと思った。
櫂に近づいて耳打ちをする。
「ねえ、夕が見てるよ。そろそろ声かける?」
「あ、ああ。頼む」
「ああ、頼むじゃないでしょ。櫂が誘った方が自然でしょ? あたし夕と話したの中学卒業の時なんだからいきなり声かけたらおかしいでしょ」
「そうか、よし。さっきから何度か目はあってるからな、よし」
そう言うと櫂はあたしを置いて夕の方へスタスタと歩いて行ってしまった。急いで追いかけると顔を真っ赤にした夕がそこにいた。
「柳瀬、先輩……お久しぶりです。お元気でしたか? 櫂さんは自分の家庭教師なんです。すごい偶然で、あの、一緒にいても良いんですか? 柳瀬先輩が嫌なら全然消えるんですけど、柳瀬先輩さえ良ければ一緒に過ごしたいです」
「良いよ。宇佐美と会うのも久しぶりだね。元気にしてた?」
「はい。元気です。柳瀬先輩とまたこうやって話せるなんて思ってませんでした。あの、良ければ連絡先を教えてくれませんか?」
「良いよ。QRコードで良いかな? 櫂はアタマ良いのにQRコード出来ないんだよ」
「夕、俺に連絡先を教えてくれるのに3ヶ月かかったのにどうして亜衣にはすぐ教えるんだ……?」
「柳瀬先輩と櫂さんは違いますから。というか櫂さん、柳瀬先輩のこと亜衣って呼んでるんですか? 初耳なんですけど」
夕はじっとりとした目で櫂を睨んだ。櫂はそれを見てオロオロとしていた。いつも強気な櫂も好きな相手の前だとタジタジなんだなあ、と感心した。夕は櫂の脇腹にチョップをしたあとあたしの方に向き直った。
「柳瀬先輩の連絡先教えてもらえてすごく嬉しいです。これから先も柳瀬先輩さえ良ければ遊んでくれませんか? 櫂さんがいても良いので……」
「夕、俺はオマケか? 結構傷付くんだが」
「宇佐美と櫂って仲良いんだね。わかり合ってるって感じする」
「そんなことないです。外で遊ぶのなんて初めてだし。柳瀬先輩何かしたいところとか行きたいところはありませんか? 19時までならどこにでも行きます。柳瀬先輩は何が好きですか? やっぱりカラオケですか? 歌、昔から上手でしたよね」
絶妙に気持ち悪い感じで夕がぐいぐい迫ってくるので圧倒されてしまった。目が潤んで呼吸も荒いのでこの子大丈夫なんだろうか。櫂も櫂で変わってるのでやっぱりお似合いじゃんと思ってしまった。夕があたしに向ける熱量を櫂に向ければ全部ハッピーになれるのにな。どうしてあたしなんかを好きになっちゃったんだろう。
「じゃあ、カラオケ行こっか。会員証持ってるから十分くらい歩くとこだけど良い?」
「もちろんです! 柳瀬先輩とカラオケに行けるなんて夢のようです。どんな曲を歌うんですか?」
「適当に好きな曲だからジャンルバラバラだよ。宇佐美はどんなの歌うの?」
「自分は音痴なので聴く専でも良いですか? タンバリンとマラカスは任せてください」
「おい、夕、さっきから俺のことを置いてきぼりじゃないか」
「櫂さんは黙っててください。そういえば、櫂さん予定あるんじゃなかったでしたっけ?」
「これが予定だ。亜衣と俺は友達だから遊びに行くことになんら問題はない」
「ふうん、そうですか。あ、柳瀬先輩と櫂さんってどういう風に知り合ったんですか?」
「ああ、落とした定期を亜衣が拾ってくれたんだ」
「へえ、櫂さんってそういうの義理堅かったんですね。知らなかったです。柳瀬先輩、櫂さんって変わってません? 一緒にいて疲れません?」
「いや、別に。櫂はずっとこんな感じだし慣れたよ」
あたしなら好きな人こんな風にボロクソに言われたら落ち込むけど、櫂は全然気にしてないどころか少し嬉しそうで、被虐趣味でもあるのかと考えてしまった。
カラオケ店に着くまで、夕からの質問攻めが酷かった。聞いて来る内容もストーカーなんだから知ってるだろと言ってやりたかったけれど、藪蛇になりそうだったので普通に答えた。その度に夕は頬を染めながら笑った。こんなに好かれているのにあたしは夕のことを後輩以上には思えなかった。嫌いではないけれど付き合う対象には一生ならないと思う。
タンバリンを腕に通してドリンクバーで夕はグラスを用意して氷を入れた。
「柳瀬先輩は何が良いですか?」
「アイスコーヒーが良いな」
「ガムシロとミルクは入れますか?」
「いらない。ブラックで」
「了解です。自分もアイスコーヒーにします。柳瀬先輩とお揃いですね。えへへ」
「なら俺もアイスコーヒーにしよう。夕とお揃いだ」
そう言ってから櫂はアイスコーヒーにガムシロを三つとミルクを二つ入れた。もはや別物でだと思ったけど、口には出さなかった。
空いていた禁煙の部屋がわりと狭かったため櫂の隣が夕で、反対側のソファにあたしが座った。櫂は夕にその服似合ってるなと言って嫌な顔をされていた。思った以上に脈がなさそうで先が長そうだった。
みんなが知ってそうな流行りの曲を歌っても櫂は知らないようでポカンとしているし、夕はずっと嬉しそうにタンバリンを叩いていた。バラードでもタンバリンを叩くセンスに驚いた。
「柳瀬先輩本当に上手です! 素敵です。自分、柳瀬先輩の歌ったアルバムが欲しいくらいです!」
ものすごく褒めてくれるけどきっと今も録音してるのだろうと容易に想像できた。
「櫂も一曲くらい歌えば?」
「わかった。なら歌おう」
「櫂さんってどんな曲歌うんですか?」
「夕が聴きたい曲を歌おう。何が良い?」
「何でもいいですよ。自分トイレ行くんで」
「宇佐美って櫂に辛辣だねえ」
「櫂さんってぐいぐい来るから怖いんですよ。柳瀬先輩になら自分、何でもしてあげたいです。柳瀬先輩とまたこうして話したりできて、歌まで聴けて本当に今日は幸せです」
「宇佐美も十分怖いよ」
「アッ、すみません。調子乗っちゃいました」
「よし、夕のために歌うぞ」
「トイレ行ってきますね。柳瀬先輩、ドリンクバーで何か取ってきましょうか?」
「じゃあ、アイスコーヒーお願い」
「はい! 了解です」
櫂が入れた曲はフニクリ・フニクラで妙に上手かった。もともとの声は良いんだからもっと流行りの曲を歌えば良いのにと思ってしまった。夕は宣言通りトイレに行き、ドリンクバーでアイスコーヒーを取ってきてくれた。それを受け取る時に少しだけ手が触れて、長いまつ毛が震えていた。耳まで赤くして夕はすみません、と小さな声でつぶやいてから櫂の隣に座った。
その日から、あたしたちの新しい妙な関係が始まった。しかも、何度かそれを繰り返しているうちにあたしは櫂のことが好きになって相当ややこしい三角関係に突入してしまったのだ。人を好きになるのは難しい。こんなに感情を今まで知らなかった。夕を好きな櫂を見てるとすごく苦しい。
櫂と夕をくっつけると言った手前、何もアプローチをする事が出来なかったけど、あわよくば好きになって欲しかった。でも、夕を見つめる櫂の瞳は彼の言葉よりも雄弁に気持ちを表していた。大好きだと、その目にこもる熱が語っていた。こんなの、入り込めるわけない。前よりもあたしに対して優しくなったけど、夕に向けるような顔はしてくれなかった。だから、あたしは逃げることにした。そして、逃げきれなくなったら最低の手段を取るつもりだ。
二人からの連絡を都合が悪いとか勉強が忙しいと言って断った。盗聴まではされてないだろうけど一応受験勉強もしたので模試の結果も良くなった。
ある日、校門前に夕と櫂が立っていた。夕は不安そうに、櫂は不機嫌な顔で。あたしを見つけて二人は近付いてきた。これはもう逃げるのは無理だと諦めて話を聞くことにした。
「何か用?」
「柳瀬先輩、自分たちのこと嫌いになっちゃったんですか? それとも、他に何か理由があるんでしょうか?」
「亜衣、お前がいないと夕は遊んでくれない。それにお前のことを心配してる。どうしたんだ?」
「ごめん。全部あたしのわがままのせいなの。あのさ、とりあえずここじゃ何だから移動しない?」
「じゃあ、俺の家に行くか。ここから近い」
歩いて三分ほどで櫂の家に着いた。本当に近い。1DKのマンションはモデルルームのように整っていて絶句した。前に掃除は苦手と言っていたが、どう見ても掃除が苦手な人間の家ではなかった。そして、櫂の匂いがした。洗剤か柔軟剤かわからないけどシトラス系の爽やかな香り。
「櫂さんってミニマリストですか? すごい綺麗な部屋ですね」
「掃除は苦手だから物を減らした。夕はわりと整理整頓が苦手だよな。そういうところも可愛くて良い」
「うわ」
「ねえ、夫婦漫才してないで本題に入らない?」
「これは、亜衣の緊張を解そうと思ってだな……」
珍しく気を使う櫂のことが、やっぱり好きだった。涙が溢れないように上を向く。櫂が最後に見るあたしが、不細工じゃないように。
「柳瀬先輩が不快になるようなことを自分はしましたか? それだけ、教えてください」
「して、ない。さっきも言ったけどあたしの問題だから、宇佐美も櫂も関係ない」
「関係ないならそんな顔しないだろ? 亜衣、どうしたんだ?」
「あたし、宇佐美のことが好きになっちゃったの。だから、三人ではいられない」
「え、柳瀬先輩……?」
「それは、本当にお前の気持ちなんだな? それなら俺から言うことは何もない」
「うん。だからもう二人に会えない。櫂の応援もできない」
「分かった。良かったな、夕。恋が叶うぞ。俺はこの後やることがあるから、すまないが二人とも出ていってくれ」
怖くて、櫂の顔を見ることが出来なかった。だって、今まで聞いた中で一番優しい声だったから。
近くの公園のベンチに夕と並んで座った。ペンキが剥げていて、くたびれた感じだった。夕は目をうるませてあたしのことをじっと見つめていた。
「夢みたいです。柳瀬先輩が自分のことを好きだなんて……」
「うん。いつの間にか宇佐美のことが好きになってたんだ」
真っ赤な嘘だ。櫂のことが好きだから、櫂があたしを好きにならないから、櫂が夕のことを好きだから、嘘をついた。傷付けることであたしを忘れないで欲しかった。
こんなことをしたから櫂にはもう会えないだろう。夕は何も知らないし、家庭教師だからこれからも櫂と一緒にいるだろう。好きで好きでたまらない相手が目の前で他の相手を想うのは苦しい。苦しくて苦しくて苦しくて死んでしまいたいほどに。もう、とっくに限界だった。
「柳瀬先輩、先輩のこと名前で呼んで良いですか?」
「良いよ。あたしも夕って呼んでいい?」
「もちろんです! 自分、柳瀬せん、亜衣先輩に会えない間、ずっと先輩のことを考えていました。だから、夢みたいです。ちょっとほっぺ抓ってもらえますか?」
弱い力で頬を抓ると夕は嬉しそうに笑った。夕は間違いなくあたしのことが好き。でも、櫂のことばかり頭によぎった。
傷付いただろうし裏切られたと思っているかも。あたしのことを恨んでるのかな。それでも覚えていてもらえる方が忘れられるよりマシかもなとぼんやり考えていると夕の冷たい手があたしの顎を持ち上げた。意図を理解してあたしは目を瞑る。夕の薄いくちびるがほんの少しだけ触れた。嫌ではなかったけど、嬉しくもなかった。これが櫂なら良かったのにと酷いことを考えてしまった。
夕と付き合って一ヶ月が経った。毎日連絡をし合って予定が合えば遊んだ。喫茶店に行ったり映画を観たりゲームセンターに行った。夕はいつも嬉しそうに笑っていた。付き合っているのにあたしの写真をたくさん撮るからちょっとだけ呆れた。やっぱり変。
でも、夕はあたしのことが好きで好きで仕方ないみたいだった。キスをする時長い睫毛が震えてて、可愛いと思った。それでも、櫂のことは忘れられなかった。
その日は夕の部屋でだらだらしていた。来た瞬間から椅子にかけられたカーディガンが夕のものじゃないと気付いた。多分、というか間違いなく櫂のものだろう。それが目に入ってからあたしはずっと落ち着かなかった。
存在を忘れたくて仕方ないのに、思い出してしまう。櫂の声、手、切長の目、シトラス系の洗剤の香り。
夕がトイレに行くと言って部屋を出た時、あたしはそのカーディガンの匂いを嗅いだ。櫂の匂いがした。昨日か一昨日かわからないけど櫂は確かにここにいた。夕が戻って来る前に止めなきゃいけないとわかっているのにあたしはそこから動けなかった。
近くで足音が聞こえて、後退りした。見られたかも知れない。怖くて夕の顔が見られなかった。
夕はあたしに近づいてから櫂のカーディガンを羽織った。それからあたしの頭をかかえるように抱きしめた。
「亜衣先輩、目を閉じて櫂さんだと思ってください。自分はそれでも良いです。ずっと、わかってました。でも、自分は亜衣先輩と一緒にいたかったんです。櫂さんのかわりでも良いから、亜衣先輩に自分のことを見てほしかったんです。一瞬でも良いから亜衣先輩の恋人に、なりたかったんです」
「夕、あたしは夕のこと好きだよ。でも」
「その先は言わないでください。亜衣先輩、本当に大好きです。ストーカー行為だってバレてるの知ってました。それでも忘れられるよりは嫌悪されたかったんです。亜衣先輩との繋がりがなくなるのが自分にとっては一番怖かったんです。亜衣先輩、櫂さんもきっと亜衣先輩のことが気になってます。なんか、わかったんです。櫂さんは自分のことを好きでした。最初はちょっと気持ち悪いとも思いました。でも、あの人すごく一生懸命だから絆されちゃったんです。亜衣先輩に嘘でも好きだって言ってもらえた時、嬉しくて、それ以上に悲しかったです。あの言葉がなければ、亜衣先輩が自分たちのことを避けなければ、ゆっくりと、自分は亜衣先輩のことを諦めれたと思います。櫂さんと亜衣先輩のこともめちゃくちゃ嫌ですが応援できたと思います。だって、自分は二人のことが大好きですから」
「ごめん、夕。ありがとう」
「良いんです。亜衣先輩、もし、二人が上手くいってもいかなくてもまた、遊んでくれますか?」
「うん。勿論。でも、もう盗撮とかはしないでね」
「……はい。あの、亜衣先輩の許可を得れば撮影はオッケーですか?」
「考えとく。夕ってやっぱり変だね」
「恋は人を変にするんですよ。恋と変って字も似てません?」
夕の家を出てからあたしは櫂のマンションに向かった。インターホンを鳴らすと不機嫌そうな櫂が出てきた。
久しぶりに見た櫂の髪の毛は真っ黒で、別人みたいだった。でも、似合ってた。
「……亜衣、どうしたんだ? 夕は?」
「櫂に話があるの」
「簡潔に言え。夕に嫉妬されたら敵わん」
「あたし、櫂が好き。好きなの。だから、夕とは別れた」
「お前は自分が何を言ってるのかわかるか? 俺は、俺がどんな思いで身を引いたと思ってるんだ」
「わかってるよ! でも、諦められない。もうずっと前から櫂のことが好きになってた。夕とのこと応援するの無理だって思った。でも、嫌われたくないし誤魔化して笑ってたけど限界だった。それに、夕はあたしの気持ちに気付いてた」
「……そうか。夕は笑ってたか?」
「うん、泣きそうな顔で笑ってた」
「あいつは辛い時は笑うんだ。亜衣、お前は罪深い。でも、俺も同じだ。夕のことが好きで幸せにしたかったのにお前に惹かれた。全然好きじゃなかったのにいつの間にか目で追ってた。俺は一途な俺が好きだったのに二人の間で揺れてた。だから、亜衣が夕を選んだ時、少しだけ安心した。これ以上悩まなくて良いからだ。俺は、夕のことが好きだ。でも、それ以上に亜衣のことが好きになった。自分でもおかしいってわかる。今、多分正気じゃない。ずっと俺は変だ。亜衣、俺はお前のことが好きだ」
「本当? 嬉しい。信じられないけど、嬉しい。櫂、あたしと付き合って。あと、さっき夕が恋は人を変にするって言ってたよ」
「ああ、それは俺が言おうと思ってたんだが……。よし、それじゃあハニートーストを食べに行くか。何でも好きなものを頼んで良い」
「懐かしいね。アイスコーヒーとティラミスとポテトフライ明太子マヨソースにしよっかな」
「あの時はなんて遠慮がないやつなんだって思った。デリカシーも無いし」
「デリカシーに関しては櫂のが無いでしょ。あたしも変なやつだなって思ったよ。髪の毛も派手だし。櫂、黒も似合うね」
「失恋したと思ってたからな。黒髪にするのは2年ぶりだからちょっと落ち着かない」
「カラフルな色も良かったけど、櫂なら全部好きだよ」
「俺も亜衣が亜衣のままなら何でも良い。ところで、夕とはどこまで進んだんだ? 若い男女が付き合って何もないわけはないよな?」
「キス、はした」
その瞬間、手を引かれて、櫂の顔が近付いた。荒っぽいキスは正直下手くそで、でもそれが櫂らしいし、なんだかんだで好きな相手からのキスが嬉しかった。
「ねえ? 嫉妬した?」
「ああ」
「どっちに?」
「両方だ」
「馬鹿正直だね」
「正直なだけで馬鹿ではない」
夕に対しては罪悪感がある。それでもあたしも櫂もお互いを選んだ。三人がそれぞれを好きな時点でいつか破綻する関係だった。
「今度また夕とも遊ぼうね」
「亜衣、お前は本当にひどいやつだな」
「夕がそうしたいって言ってたんだよ。今度は普通の先輩後輩になるよ」
「二人きりにはなるなよ」
「どうして?」
「元彼だろ? 嫉妬するからだ」
「馬鹿みたい」
「馬鹿じゃない。お前の方が馬鹿だ」
「櫂、小学生みたい」
「うるさい」
そう言って櫂はあたしにキスをした。物理的に塞がってしまえば何も言えない。勝ち誇った顔の櫂に少しだけむかついたけど、やっぱり好きだなと思った。櫂の身体を押して離れる。ずっと触りたいと思っていた髪をぐしゃぐしゃにした。
「これから、よろしくね。あたしのことストーキングしないでね?」
「……うるさい口だな。また塞いでやろうか?」
あたしたちは今、恋で変になってる。これからもきっと傷付けながら生きてく。それできっと良いんだと思う。誰にでも百点満点の答えはないんだから。
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