回想と死因
教室の自動ドアが開くときの静かな音がする。入学直後から悪目立ちしたくなかった俺は熱心に英単語テストの勉強をしていたが、その音が聞こえた瞬間に顔を上げ、視線を自動ドアに向ける。
俺の視界に入った人物は、俺の方を向いて手を挙げる。
『よ、三倉』
『おはよ、松山』
松山は自動ドアを通り、俺の前の机の横にカバンを掛ける。そして、右向きに座る。俺と話すだけなら、左向きに座ったっていいし、椅子にしがみつくように後ろ向きで座ったっていい。しかし彼は、いつも右向きに座る。それは何故か。
『よ、夜野』
それは夜野が、彼の右に座っているから。俺はもちろん、夜野のことを話してくれるクラスメイトとして好きだったが、松山の彼女に対する「好き」はそういうものではなかったのかもしれない。
サラサラした長い黒髪を下ろした、黒眼の夜野は電子書籍を読むためのタブレットから目を離し、左を向く。
『あ、松山くん、おはよう。それと三倉くんも』
彼女は、文学少女のイメージとかけ離れたような明るい笑顔でそう言った。
『おはよ、夜野さん』
『夜野、何読んでたんだ?』
俺の挨拶が済むと、松山はタブレットを興味津々に見つめながら訊く。
『「ギリシャ神話」を読んでた。「オリュンポス十二神」っていう神様たちがいるんだけど、神様なのに人間らしくてすっごく面白いよ!』
夜野はジャンルを問わず読むが、今日は神話か。俺がゲームをしまくっていた中学時代は、ゲームのキャラの元ネタを検索していったら結構な確率で神話に行き着いた。そんな経験上、俺は神話について常人よりも詳しいという自負がある。
『へぇー、神話か。難しそうだな。あれだろ? ゼウスとかヘラとか』
松山が自分の知識から神の名前を出すと、夜野は楽しそうにそれに続く。
『そうそう! 他にも、ディオニューソスっていうお酒の神が登場したり、アテーナーっていう戦の女神は知恵を使って大活躍したり……』
『酒の神までいるんだな。何でもありじゃねえか。アテーナーは頭脳戦が得意なのか?』
興味ありげに話を進める松山。彼は夜野に目を向けながらも、二人の世界に入ろうとは決して思っていない。ちゃんと、俺もそこに混ぜてくれている。だから俺は、心置きなく発言をすることができる。
『アテーナーは戦いの神だけど、「護る戦い」を好むんだ。破壊の限りを尽くす、もう一柱の戦神のアレースとは違ってね。あ、これで合ってるかな、夜野さん?』
俺の発言によってこちらを向いた松山と夜野のうち、夜野の方に向いて声をかける。
『うん、合ってるよ』
夜野は笑う。彼らの邪魔をした俺に対して、松山は怒るどころか青い目を輝かせて言う。
『すげえよ、三倉。お前、神話詳しいんだな!』
『ま、まあ、ゲームに出てくるし、ちょっとくらいは知っておこうと思って……』
*****
──夜野家の階段を上りながら、そんな日々を回想してしまっていた。
しかし俺は、目にしてしまった。そしてやっと気づいた。もう、あの日々を過ごすことはないのだということに。
前面が透明な素材になっていて、側面が黒い大きな筐体の中、透明な部分の奥に、夜野 智花らしき人物が見えた。しかし透明部には暗赤色の飛沫のようなものが至る所にこびりつき、彼女の体の全体像は見えない。
ただ、彼女の右腕が肩から切り落とされていることだけはわかった。
「夜野! おい、夜野! 大丈夫か?! 目え開けろ! おい!」
筐体の透明部を強く叩きながら、松山は何度も夜野に呼びかける。
それに対して俺は、眼前の光景が与える衝撃に耐えきれずその場にくずおれてしまった。
「嘘……だろ…………? 『ディヴァイン・ウィル』で夜野は……」
夜野の頭には見たことのある器具。「ベースブレイン」だ、間違いない。夜野を匿う筐体も、どう見ても俺の家にある「ベース」と同じ。
これが、「ディヴァイン・ウィル」での、プレイヤーの死亡例。
「なあ三倉」
頭と右拳を、傷一つついていないベースの透明部に叩きつけたまま、松山は俺を呼ぶ。
「……何だ?」
俺が応えても、松山は動かない。
「『ディヴァイン・ウィル』って何だよ?」
そう訊くだけだった。
それに答えるために俺が話し始めようとすると、夜野の母は「場所を変えましょう」と言って、俺たちを一階のダイニングに案内してくれた。
俺たちはミルクティーを入れてもらい、俺は松山、そして夜野の母に「ディヴァイン・ウィル」についてできる限り話した。
ベースが安価すぎること、それでも画期的なシステムゆえに購入してしまうこと、開始後に知らされるルール、チュートリアル後に「やっぱり死なないんじゃないか」と思ってしまうこと。
──それから、プレイして後悔すること。
一通り話し終え、俺はミルクティーを一口飲む。視線を松山に向ける。彼はいやに真剣な顔でこちらを見ていた。
その目尻に、涙が浮かぶ。それは静かに松山の頬を伝う。
「三倉……お前が生きててよかったよ。お前まで死んでたら、俺…………」
俺にだって震える声でそう言ってくれる彼は、やはり誰に対しても優しいんだと思う。
「まあ、それプレイしたの中学時代だから、死んでるなら出会う前に死んでたけどね」
「んなこと言うなよ。まあそれなら、こうして出会わせてくれた運命に感謝だ」
松山は涙を拭って、その手をテーブルに叩きつける。
「三倉は助かったけどさ、その、ミュートス社だっけ? 人が死ぬゲームを提供するなんて、狂気の沙汰としか思えねえ。あれのせいで、少なくとも夜野は死んでる」
怒りを隠しきれない松山は、もう一度手を叩きつけて、それから唸る。
俺も怒り心頭だった。人の一年間を奪うだけじゃない。あのゲームは、ユキが言っていた通り、命すら奪う。
「──俺さ」
気づけば、怒りが言葉を喉の外に押し上げていた。
松山も夜野の母も、驚いたようにこちらを見る。
俺は逆に、急に視線が集まったことに少し驚きながら、続ける。
「もう一度、『ディヴァイン・ウィル』に挑戦しようと思ってるんだ」
ダイニングが静まり返る。止めるならそうすればいい。どっちみち、俺の決意は変わらない。夜野の死を知って、さらに固まったくらいだ。
「──やめてください。あなたまで、あの子と同じようにはなって欲しくない」
このときまで、俺はほとんど松山に話しかけていたということに気づく。夜野の母は、今まで何も話してこなかった。だから今回も、松山との対話になると考えていた。
しかし違った。彼女は娘を失った悲しみを力に変え、その力をほとんど使って俺を止めにきている。
だが、俺の心は変わらない。負けない策があるから。
「三倉。悪いことは言わない。行っちゃダメだ」
大きな音を立てて立ち上がった松山も、未来を見ているような澄んだ黒い瞳を俺に向けて言ってくれる。だが、俺は首を横に振る。
「いいや、行かなきゃダメだ。俺が、あのゲームを止めなきゃ」
熱に浮かされたようにそう言い張る俺をもはや止められないと思ったのか、松山は、
「そうか、わかった」
と言って、椅子に座り直す。
俺のことをわかってくれた。
一度は、そう思った。
「──だがな、それなら俺も連れてけ」
しかし、彼が続けて放った一言は、俺のことを何もわかっていないという事実をさらけ出すのに十分だった。
「………………は?」
思わず、そんな声を出してしまう。あまりにも気が抜けたような声だったから、松山は挑発されたと思ったかもしれない。
それでも彼は、さっきの言葉を復唱した。怒りも悲しみも感じさせない、いつも通りの勇気で満たされた声で。
「それなら、俺も連れてけって」
俺に向かって左腕を伸ばす松山。その爽やかな顔は、俺がその手をとることを信じて疑わないようなものだった。
彼に全く悪気はないはずだった。むしろ、あのゲームの話をする前から、当然彼ならそう言うはずだと予想していた。それでも、そう言い出さないように、あのゲームの恐ろしさを全面に出して話したはずだった。俺に、任せてもらえるように。
松山が「無駄死に」しないように。
それなのに、その意図を汲み取ってもらえなかったという悲しみが、怒りが、俺の思考回路をシャットアウトした。
クラスメイトの家の机に、壊れそうなほど強く拳をぶつける。
先程の松山の発言から再び訪れた束の間の静寂を打ち破り、俺は何も考えずに叫んだ。
「バカか?! あのゲームがどれだけ過酷なゲームか、俺の説明聴いてもわかんなかったのかよ?! それとも、初心者だけど何とか生き残れるって思ってんのか? そう思ってるんだろ? いいか、そんな甘い考えじゃ、あのゲームでは生き抜けないんだよ。
能力と残酷さだけを持った、ヴァーチャルの奥のリアルを考えない人殺しが、『ディヴァイン・ウィル』には何億もいるんだから!!」
その後、俺は何も言わずに、夜野家から走り去った。
*****
項垂れて座っていた松山は、右手を自らの額に力なくぶつけた。
「夜野のお母さん……俺、間違ってたんですかね……?」
その様子を涙を堪えながら眺めていた夜野 智花の母は、立ち上がって松山に近づき、後ろから彼の肩に手を置く。
「いいえ。私はそうは思いません。二人の間には、ただ何か勘違いがあるだけなのかもしれない。ですがそれが何かわからなければ、結局何も解決しないと思います」
松山は首をできる限り後ろに回して、口を開く。
「それなら、俺はあいつを追いかけますよ。智花さんはもう戻らないけれど、三倉との関係はまだ戻るかもしれないので」
後ろにいる夜野の母に気をつけながら静かに椅子を引き、松山はゆっくりと立ち上がる。
「ええ。行ってらっしゃい」
松山は椅子の近くに置いてあったカバンの持ち手を掴み、それを軽そうに持ち上げる。
「ミルクティー、ありがとうございました。美味しかったです。お邪魔しました」
松山は少し早足で玄関まで歩き、夜野の母はそれについて行く。
玄関で素早く靴を履いた松山は、夜野の母に一礼をしてから重厚感のあるドアを開いた。




