目覚めの刻
瞼が開く。視界がだんだん鮮明になっていき、眼前に見えたのは――
――壁のようなものに広がる、固まった血。それによって意識が一気に喚び起こされる。
驚きで体が一瞬震えて、自分が何かに捕らわれているのに気づく。
「ここは……?!」
薄暗い。おそらく何かの内部だ。
ふと、ノイズが聞こえる。そして後に続くのは、耳馴染みのある柔らかな声。
「生還されましたか、アーレッジさん――いえ、三倉 周騎さん。よかったです。ゲームを再開する場合は『アルケー』、ベースから出る場合は『ディアフィ』とコールしてください」
そうか、ここはベースの中だ。血が飛び散っているのは、ベース前面の透明な部分。そしてさっき聞こえたのは、ユキの声。俺は、オルパロンに負けたんだな。
とりあえず、ベースの外の把握をしよう。ここが死後の世界という可能性も、ないことはない。
「ディアフィ」
そう呟くと、腕を固定していた器具が小気味よい音を立てて外れる。
そして、頭を少し締め付けていた器具――ベースブレインを取ると、勝手に透明な部分が上に開く。
そしてベースから出た俺は、何故かほぼ無意識にスマートフォンを探す。
ベースに入る前と同じ場所、勉強机の上に置いてあった黒いスマートフォンは、何故か電源が切れていて、充電切れを心配した。しかし、そんな心配は無用で、ちゃんと起動できた。
そして、好きなスマホゲームの、大好きなキャラクター――二本の刀を持ち、凛とした顔でそれを振るう青い長髪の同年代の少女――が描かれた迫力満点のイラストが壁紙となっているロック画面に、壁紙と共に表示された時計を見る。そして、そこから目が離せなくなる。
2086年2月5日、午前8時12分。確かにそこには、そんな白い無機質な文字の羅列があった。
「嘘……だろ……? 一年経ってる…………?!」
何故こうなったのか、今すぐにでもベースに入ってユキに問いただしたい。しかし、そうはしなかった。
なぜなら、日付の表示の横に、「火曜日」という表示があったからだ。もし表示が本当なら、俺は中学三年生で、学校に行かなければならないはずだ。
時刻表示が本当かどうか確かめようと閉めていたカーテンを開くと、窓から射し込む、朝日とは言えないくらいまで高く昇った陽の光が目を焼く。ベースに入った時は、夕方だったはずなのに。
もう何がなんだかわからない。とりあえず、一階に下りる。もしまだ普通の日常の中に俺がいるのなら、そこには母がいるはずだ。
階段を下りていくにつれて、何かが焼ける音、そして香ばしい匂いが強くなる。音、匂いから判断するに、ベーコンを焼いているのだろう。母がいるという証拠を見つけ、少し胸が躍る。
リビング、ダイニング、キッチンが繋がった、広いとは言えないまでもそこそこの広さはある部屋に出ると、やはり母はいた。胸を撫で下ろす。時間はおかしいとはいえ、俺はちゃんと、現実世界に帰ってきたんだ。
「――母さん」
呼びかけてみるが、返事はない。相変わらず、フライパンの上のベーコンを見ている。ちゃんと帰ってこれていない……? もしかして、俺は亡霊になってしまったのか?
「母さんっ!」
強く呼びかけると、母はこちらを向いてくれた。そして、菜箸をキッチンの床に落とし、持っていたフライパンを投げ出してしまうかのような勢いで放し、俺に抱きついてくる。
「周騎! よかった……! 生きててよかった……!」
母の頬が、俺の首に触れる。その間に、温かな水のようなものが流れる。泣いているのだ。慌てて、俺は言う。
「ちょっ、母さん、落ち着いて。ところで、今日は何年の何月何日なの?」
少し咽びつつ、母は言った。
「今から、話すわ。あんたがあの中にいた間の話を」
そう言って、俺から離れた母は、飛び上がる。
「大変! ベーコンが焦げちゃってる!」
母があたふたしている間に、俺は戸棚から白ベースに赤のボーダーラインが入った茶碗を出し、炊飯器の中のご飯をそこに盛る。あまり食欲がなく、半分くらいしか盛らなかった。
「――今日は、2086年2月5日よ。あんたがあの黒い筐体に入ってから、だいたい一年が経つ」
茶碗をダイニングテーブルに運ぶ間に、母は話し始めた。
「あんたがその日、十七時頃にあれに入って、夕飯の時間――十九時になっても下りてこなかったから、様子を見に行ったのよ。そうしたら、あの筐体の透明な面に、鮮血が大量に飛び散っていたわ」
母は少し焦げたベーコンを、既に焼きあがっていた目玉焼きと共に自分用の皿に取っておき、ちょっと待ってて、と座っていた俺に言ってもう一枚ベーコンと目玉焼きを焼き始めた。
「それから十分も経たなかったわ、あの人たちが家に押しかけてくるまでに」
あの人たち? 救急隊員のことか? いや、それなら俺は病院で目覚めるはず。
「『あの人たち』って?」
「そのゲーム――なんとかウィルだっけ? それの製作会社の人たちよ。『ミュートス』って言ったかしら」
ミュートス社……覚えておこう。
ふと、まだ味噌汁が食卓に並んでいないことに気づき、テーブルを立つ。
「それで、俺はその人たちに何をされたの?」
フライパンを持つ母の横に並びつつ訊く。
「いいえ、あんた自身には何もしなかったわ。でも、筐体の後ろの方に、何かを入れていた。『回復するまでに摂らなければならない栄養だ』って。その人たち、週に一回来ていたのよ。まあ、そのおかげであんたが生きているんだろうけど」
俺はその話を聴きつつ、二人分の味噌汁をよそってもう一度席に着く。
「その人たちの名刺は?」
「あるわよ。後で渡してあげる」
何か一つでも、彼らの謎を解く鍵を見つけないと。今日新しく増えた、俺の生きる目的を達成するために。
「学校にはなんて言ってあるの? 一年間ずっと休んでるんでしょ?」
「なんでも、『ミュートス社』が開発したアンドロイドがあんたの代わりをしてくれているみたいよ。今日も学校に行ってくれているわ。見せてもらったけれど、本当にそっくりだったわよ」
話し方からして、母はあまり楽しくなさそうだ。
焼きあがったベーコンエッグの乗った皿をテーブルに置き、母は俺の向かいに座る。
「生活のことは心配ないわよ。アンドロイドが全部やってくれてる。学校も卒業はできる。卒業はね。……いただきます」
母は手を合わせる。俺も慌ててそれに倣う。
「いただきます。……受験勉強、今から間に合うかな?」
そう、母の先程の一言で気づいた。今年は受験の年。それに、受験まではあとひと月もない。
「こうなってしまったことは仕方ないんだから、今から全力でやりなさい。明日からは、学校も行くのよ?」
「わかった」
アンドロイドに勉強を教えてもらえないだろうか。さすがにそこまではしてくれないか。
「あと、栄養って言うのかしら、あの人たちが持ってきたやつ、あれ一回一万円するんだからね? もうこれから少しの間、ゲーム買えないわよ?」
一年で五十二万円か。俺の為によく払ってくれたものだ。おかげで、ベースの中にずっといたのに、身体に何の違和感もない。
「わ、わかったよ」
朝食を食べ終わって部屋に戻るまでに、鏡を見た。俺の左眼は、やはり黒かった。
「さて、これからどうしようかな」
オルパロン――「ディヴァイン・ウィル」のゲームマスターを倒して、《神》を操作する。それが俺の、今日できた目標。そうしないと、世界のたくさんの人々の一年間が消えてしまう。最悪の場合、命そのものですら。
今日もあのゲームを三億人がプレイしているんだと思うと、ぞっとする。
オルパロンの好きにはさせない。《神》の好きにはさせない。俺は――アーレッジとして世界を救う。




