第0話
第0話「始まりの舞台袖」
これは夢だ。
最初は特に理由があった訳じゃないが自然と、というよりも直感的に気付けた。
夢の中で夢と気付くことを何て言ったか忘れたけれど、問題なのは気付いたことじゃない。
気付いても身体の自由がきかないことだ。
自分の意志で動かしているのではなく、何かに動かされてるような奇妙な感覚が身体の自由を奪っている。
夢に理由を求めるのも可笑しな話だが見慣れた街並みを歩き続け、道路には時たま車が走り去っていく当たり前の日常の光景が続く。
絵に描いたような田舎町、とは言えないが発展しているとも言えない微妙なC県に存在する自分が育った街並み。
駅周辺はデパートやマンションが立ち、有名チェーン店のファミレスが車で移動すれば五分から十分ほどで何件も現れる。
住めば都。なんて言葉で表現すればいいのかもしれないそんな街を何故か歩いている夢を見ている。
率直に、なんでこんな夢を見ているのか意味が解らなかった。
見慣れ過ごした街を目的も知らずに歩き続ける夢は、まるで現実感だけを丹念に、精巧に造られたゲームのよう。
「ねェ」
信号待ちをしているところで、横から誰かが声をかけてくる。
そちらを見てみれば、在ったのは黒いモヤにも似た塊が浮いている。
モヤなのだから不定形で口があるのかも解らないし、そもそも形を成していないために生物なのかすら疑わしいこれが日本語で俺へと話しかけてきたのだろうか?
だとしたら間違いなくこれは夢だと確信できる。
非常に当たり前の話だが黒いモヤだかガスだかスモッグだかに知り合いはいない。なにより喋る訳が無い。
断言できる。何故か今、電柱や歩道を咀嚼音を響かせながら食べるような何かに知り合いはいない。
「言語ガ、合ってナイ?」
黒いモヤの言葉は理解できても、身体の自由がない俺には返事をすることはできない。
奇想天外な夢とはほど遠いと思っていたところに、未知との遭遇をしているのだから驚きの一声をあげてもおかしくはない。
というのに夢の中の自分の体はそれを、まるで見えていないのかのように無視していた。
「G異、rぁ、syn、◇■、Uガァ#k」
発声器官があるのかどうかも疑わしいモヤは完全に意味不明の言葉をこちらに投げかけてきたが、ますます理解できない始末。
横断歩道の信号が青に変わるとやはり勝手に体は動き出す。
「偽Cc? k%h!■」
慌てているように見える黒いモヤを置き去りにして歩道を渡りきると、不可解なことに景色がガラリと変化する。
そこはまるでファンタジーな図書館だった。
天井や足場、左右さえも本がぎっしりと詰まった棚だけで出来た場所。
見渡す限り本であり、本好きならば一度はこうしてみたいと思ったことがあるような場所だ。
どう考えても重力を無視していて、本も難しい哲学書や何かの参考書のような厚みを持ち、背表紙のタイトルも読めない言語で書かれている。
一冊手にとって中を見れば中身は画本で、パラパラとめくると異様な姿をした妖怪だか怪物だかの絵ばかり。
気休め程度に途中で可愛い美女たちが三猿の真似をしたような像が書かれていたが……芸術本なのかもしれない。
ラノベかマンガ、同人誌や攻略本などなら自分らしい夢とも思ったのに。
「おや? 人が此処を訪れるなんて珍しいこともある」
天井の本棚が左右に別れ、その奥から本棚で出来た螺旋階段が目の前へと降りてくる。
棚に詰まった本は変わらず難しそうな……んっ? ラノベらしき物が見えた気が。
棚の階段から降りてくる足音へと視線が動いてしまい本の正体は解らず仕舞いだが、そんな妄想を考えていたことをも吹き飛ばすような美人が現れる。
「ようこそ客人。キミは貴重な蔵書を狙う盗人かい? いや、見たところ迷い人なのかな?」
暗い階段より顔を露わにした美人は、今までテレビで見たアイドルや俳優よりも群を抜いていた。
一度目にすれば鮮明に脳へ焼き付いて目を離せなくなるほどの美女だ。
肌は白く、髪は闇のように黒く、整いきった顔立ちは神の領域でありながら、しかして直感的に察する全体的な雰囲気は関わる者を破滅に導く悪女というべきか。
「ヒドい言われようだよ、初対面でよくもまぁ。あぁ、皮肉には皮肉で返すということかな? 夢では誰もが迷い人だろう、と? 面白い冗談だね。この場所に何者かが介入するなんて……私が言うべきことではないが、これこそまさしく神の悪戯というやつだよ? フフフっ!」
とっておきの冗談を言ったという顔で含み笑いをする彼女を見ながら、いい加減夢から覚めて欲しいと思うようになってくる。
恐ろしいほどに美人な女性と人外魔境と表現すべき場所で会話さえも置いてけぼりをくらう現状に、夢でなければ長い溜息を吐いてるだろう。
最近のアイドルは握手だって出来るのに……生殺しなのか。それとも焦らしプレイ? どちらも趣味じゃないのだから解放してほしい。
「まぁまぁ。生憎と私は古風でね。それに、キミが何者なのかという重要なことが分かっていなくて扱いに困っているのさ。迷える子羊よ」
誰が子羊だ。
こっちはこんな美女に刈られるような毛は持ち合わせていない。
持っている奴はSMクラブにでも行って女王様とマニアックなプレイでやればいい。俺は普通に床屋か美容室にでも行く。
「クッ、フフフッ! キミは愉快だね。そこまで警戒せずともいいじゃないか。知らずとも直感で答えに辿り着くタイプなのかな、キミは? それとも何処かで会っているのかな? 幾千幾万幾億という因果の中で。砂漠の中で落とした金貨を見つけたような気分だよ、私は」
何を言ってるのかさっぱり分からねぇーと思うが……という体験をまさに経験しているなか、彼女は興味深いモノを観察するように見るだけだ。
この少しの間で随分と疲れたような気がする、夢なのに。
「適度な緊張は心を鍛える。精神も肉体も同じこと。そうだねぇ、今日のところはお引き取り願おうか。どうやら私の知らないところで面白い舞台劇をやろうとしているようだ。全く持って不愉快極まる話じゃないか。配役が埋まらないうちに観客席のチケットを配ってしまう暴挙というべきかな? はたまた渡された台本のキャスティングを知らないうちに変えられたようなものなのかねぇ? どこの素人監督か知らないが面白いことをしてくれるよ。絡まり合った糸(意図)同士の間に、私という糸をどうやって絡ませられるか探してみないとね……」
言葉とは裏腹に、怒りが見え隠れする彼女の血にも似た赤い目と裂けたのかと思うほどの口角をあげた笑みに身震いする。
心体が一致するほどに逃げ出したいと素直に思う。
触らぬ神に何とやらである。
「本当に、やってくれるよ」
オーマイゴット、などと別に信じていない神様を嘆いて天井を見たとき、そこには無数の本ではなく鬼火染みた三つの赤い目が……。