一寸先は闇
頭の奥から聞こえる声。幼子の笑い声。
まだ光も闇も理解が出来ないくらいの幼子の声。
嬉しそうで幸せそうで、声をあげて思い切り笑っている。
…うるさい。黙れ。
そう念じてもやむことはなく、更に声は甲高く聞こえてくる。
何がそんなに楽しいの
なんでそんなに幸せなの?
苛立ちが止まらないと共に、表れるのは焦りにも似た羨望感。
あたしは笑い方なんて疾うの昔に忘れてしまったというのに。
どうして笑えるの?どうして君はまだ闇を知らない?
あたしは…暗すぎて星さえ見えないというのに。
Scene2 “The forest of the hesitation"
「…いたたた」
下半身に感じる痛覚で目を覚ました。
が、回りは真っ暗で自分の瞳は開いていないのかと寝惚け頭で思案するも、この一帯が暗闇に覆われていることにうっすらと気付き始める。
「なに、ここ…。何処…?腰も痛いしなんか暗いし…」
腰をさすりながら立ち上がり、暗い道を勘だけで辿ってみる。ツーンと鼻腔を刺激する森林の匂い。サク、サクと歩くたびに音を奏でる落ち葉の感触。どうやらここは森のようだ。
「…って!森!?なんで!?」
そういえば身体は寒くない。髪や服を触ってみると、あんなにもずぶ濡れだったのにすっかり乾ききっている。というより濡れた事実がなかったかのようだ。しかも傷みきっていた髪は指通りよくさらさらと靡いている。するとそこに…。
「あ…っ!見つけた!」
目の前には見失ったばかりのあの黒ウサギ。のはずなのだが、あり得ない。信じられない、そんな事が目の前で起こっている出来事にあたしはまたもや言葉を失う。
「…嘘でしょ…。な…なんでウサギが…。
に、二足歩行してんのよ!」
そう。あたしが見つけたあのウサギは見紛うことなきあの黒ウサギだ。特徴的な赤い瞳と首にぶら下がるあの懐中時計がその証拠。
あの裏路地までは確かにウサギだった。どこにでもいる普通の黒い毛並みのウサギ。
じゃあ今あたしが見ているのは一体なに?
…ウサギの顔はそのままなのに、あの変な男の身なりと同じ物を身を包み、懐中時計とにらめっこをしながら必死に駆けている。
「大変だ大変だっ!早く行かなきゃ女王さまに怒られてしまう!」
そんな声が聞こえてくる。信じられなくて耳を澄ましてよく聞いてみる。ブツブツと独り言を繰り広げているようだ。
…ウサギが話をしてる!?まるでメルヘンチックでファンシーな現実が目の前で繰り広げられて、思考が追い付くことが出来ない。
「ちょっ、ちょっとそこのウサギ!ちょっと待ちなさいよ!あんた、一体なんなの!」
自分でも気付かないうちに、そう大声で呼び掛けている。けれどウサギは足を止めることなく、こんなにも暗闇が続くというのにそれをものともせずけれども、焦りながら物凄い勢いと気迫で駆けてゆく。
そんな止まらないウサギに業を煮やしあたしも後を追うように駆け出す。おかしい話だけれども、あんなにも腰を痛めていた筈なのにこちらも痛覚が消えていてそれ以上に身体がいつも以上に軽く走りやすさを体感する。
「えー!もしかして…着いてきちゃったのアリス!?」
此方に負けじとウサギも大声で、でもあたしの顔を一切見ずに会話は始まる。
お互い走りながら、不思議な追いかけっこのようだ。
「着いてきたってか…なんか変なゴミ箱から落ちたらここに着いたの!
ていうか、あたしはアリスとか言う名前じゃないって言ってるでしょ!」
「うわー…どうしょう…。バレたら女王さまに首をちょんぎられちゃうじゃないか…」
ウサギはそのまま思案の海に飛び込んだかのように、走りながら、うん うんと唸り声を小さくあげる。まるであたしの存在なんかは無視状態だ。
「…ちょっと!人の話を聞きなさいよ!」
「聞いているよ!もうアリスは相変わらずせっかちさんなんだから!でも今は急いでるからまた今度ね!」
そう、言い捨て。ウサギはスピードをあげて駆けて行く。それは草原を優雅に駆け抜けてゆく馬を連想させるような速さで。もちろん、そんな速さに追い付くわけもなくまたあたしはひとり取り残されてしまったようだ。
「はぁーはぁー…。何あれ、反則じゃないの?」
自分ひとりだけの息遣いだけが谺する、闇の空間。静寂は冷静さを取り戻させ思考が纏まりはじめた今、新たな感情が芽生える。
「…そういえばなんで…あたし…。こんなとこに独りでいるんだろう」
呟いてみて苦笑する。自分の置かれた状況がまだよくわかっていなかったみたいだ。
「何…言ってんの。どこにいても、あたしは独りぼっちじゃない…」
ぽつりと吐いた言葉を、それを同調する人も否定してくれる人も誰もいない暗闇の静寂。
まるで躊躇の森の中だ。この先に進むのも戻る事も憚れ、どうすればいいのかさえも検討がつかないのだから。こみ上げてくる何かに気付かない振り。
[瑠衣ちゃんどうしたの?…また泣いているの?]
辛くて寂しくて泣きたくなった時、何時だってそう言いながらあの人は頭を撫でてくれて傍にいてくれたっけな。
そう思うと想うほど止まっていた涙がひとつ、ふたつと雫のように足元を濡らす。
「…っ。」
目の前の景色はどうしても黒く塗り潰されているようにしか見えず、恐怖ばかりが先行して一歩を踏み出すことも出来ず膝を抱えて肩を震わせる。
「…っ、ひっく…」
[瑠衣ちゃん、泣かないで。
瑠衣ちゃんが泣いているのを見るのは…辛いから]
聞こえる、そんな声。驚いて顔をあげて周りを見渡す。そこには変わらずの黒と静寂な木々の無音世界だ。改めて落胆する。
「…、当たり前よね。どこにももう…いないんだから…」
ねえ、朱鳥くん。聞こえてるかな。
泣いてばっかりでごめん、悲しませるのは辛いけれど…。
「朱鳥くんのいない世界になんて戻りたくない。だってもうあたしには、何処にも居場所なんてないんだもの…」
そう思うと、瞳には更に涙は溜まり溢れだそうとしている。
「もう、アリスはー…。いつまでも泣き虫さんなんだから」
また新たな声がして、声がする方に視線をやる。
「…あ、れ…?だって…」
そこには、走り去って行ったはずの二足歩行の黒ウサギがいつの間にか隣に立ち、あたしの髪を撫でている。ウサギに慰められるとかどんなだけなのよ、あたし。
「女王さまってね、怒らせると凄く怖いんだ。
…けれど、アリスが独りで泣いている方が僕にとってはそれ以上に怖いことなんだよ。だから…泣かないで。」
「…ウサギ…」
何時だってあの人がしてくれたようにウサギは、あたしの髪を撫でてそっと涙を拭ってくれている。その手付きや暖かさは動物だと思えないほど。まるであの人を彷彿させるには上等な動きだった。
「…っ、ウサギ…」
可笑しい話だ。
あんなにも…涙を流すことが出来なかったのに、こんな得体も知れない動物の前でそれが止められないのだから。幸か不幸か、ウサギが溢した言葉でさえ…あたしは聞き逃していた。
「アリスは本当に変わらないのだから…。
だから彼も心配でおちおち眠っていられないんだよ」