不思議な世界へ
「またね アリス」
あの不思議な出で立ちをした男が言い残した、また再会をする事を前提にした別れの言葉。
それに昔からあたしを知っていたかのような思わせぶりな態度。それが引っ掛かって真偽を確かめたくなったのは事実。
「あのウサギといい…なんて日なの今日は。
だいたい“アリス”って何よ。ファンタジーに浸りすぎじゃないかしらあの人…」
男が闇に同化して消えていった辺りを隈無く探索するも、一瞬で姿を消せるような出口などどこにも見当たりはしなかった。
それが不思議で不可思議で。自分に空想癖があったのかなんて思うけれど、まるで魔法を使ったんじゃないかと錯覚してしまう。
「もうー!何なのよほんとに!嫌になる…」
反響して虚しく響くあたし自身の声。どうもやっぱり人の気配を全く感じないあたり、夜も大分深まった時刻なのだと理解できる。風も大分強いものになっているのだろうか、ひゅうひゅうと音を立て畝り小さな竜巻が起こっている。周辺に落ちていたらしいペットボトルは音を立てながら風で飛ばされビニール袋は空を舞いながら空へ飛ばされていく。やはり予報通り、嵐は近いようだ。
止まない雨の中、全身ずぶ濡れでやはり多少の寒さは否めない。それでも何故か自分の中で先程のように”家に帰る"という選択肢が消えていたということをまだ気付いていなかった。
「って!あのウサギもいなくなってるし!しまった…?」
目を逸らした先に見つけたのは2列に並んだダストボックス。先程男が腰を掛けていたものとはまた違うタイプのもののようだ。どうやら、燃えるゴミと燃えないゴミに分別される為に設置されているらしい。が、こんな裏路地の隅にあるものだからだろう、あまり使われた形跡が見られず酸性雨のせいで所々に 錆が見られるが、至って綺麗なまま設置されている。
「…風が聞こえる…?」
近付いて耳を澄ませば…、燃えるゴミの箱の方から何やらぴゅうぴゅうと春に吹くような穏やかで、でも時折見せる激しさがある風の音が耳に入ってくる。
それがやけに気になり何も考えず引き込まれるようにすぅと蓋を開ける。そして、覗き込もうと体を曲げる。
案外、底は深めに作られているらしい。背伸びをして中を覗き込む。ゴミ袋は入っているようで、中身は何も入っていない。新品同様だ。何の変哲のない普通のダストシュート。見て損した、そんな気分になり体勢を戻そうと少し動かし始めたと同時に、ふわりと身体を持ち上げられ、宙に浮くような感覚。
「えっ!?…きゃあああ!」
その力に抗うことが出来ずにあたしはそのまま、ゴミ箱の中へと…転落した。
叫びは谺することなく、夜の闇に溶け、この街から姿を消した事実を誰にも気付かれることはなかった。
底なしの奈落へ落ちていくとは、こういう事を指すのだろうか。重力の赴くままに体を預けて流れにのる。なかなか止まりそうにない、速かったりゆっくりだったり…疎らなスピードに身を任せながら頭から真っ逆さまに落ちていた。
声を出そうにも気圧の影響か、口を開くことさえ出来ない。
そうこうしているうちに、真っ暗だった世界がいきなり色彩を取り戻したかのような輝きを放つ。赤 白 黄色と様々に色が踊りだし、透明な球体がどこからともなく現れシャボン玉のようにふわふわと映りは消えを繰り返す。そして突如無音映画のように鮮明に映し出されるビジョン。
「…!?な、なに…これ…?」
絞り出した唯一の言葉。
視界にはあり得ない映像が流れている。
あの日を…忠実に再現している。
あの日のあたしも、あの人もそこに、いた。
降り始めた雨 声にならない慟哭。そして微笑み。
頑丈な木箱の中へ封じ込め重石をのせて、幾重にも鎖で巻き付け錠をして深く深く記憶の海へ落としたはずのそれ。
「…や…め…っ」
何も思い出したくない、何も見たくないの…!
嫌だ…嫌だ…嫌だ…!!
生理的にあふれだす涙は流れとは反比例して、上へと上昇していく。
こみ上げる吐き気と目眩であたしはそのまま意識を失った。記憶を遮断させ心を閉ざして、目を背け忘れた振りをして眠りの世界に逃げ走る。何時もと同じように。
落ちる 落ちる
現実と非現実が織りなす矛盾だらけの世界へ。