アリスとうさぎ
街並みの光。
一見それは美しく華やかに見えるものだけれども、その光は人工的に造られた物であってただ闇を覆い隠すためのもの。決して温めてはくれはしない。
それに…光から一瞬でも離れた人間にはもうそこには戻ることさえも出来ず、時とともに何もかも消されていってしまう。
そう思えて、どうしても好きになれなかった。
どれだけ…人工の光が煌々としていようとも、心は真っ暗闇。暗すぎて…星さえ見えることはない。
「ちょ…っ!待ってよウサギ!ぴょんぴょん跳ねるな!」
追えば追うほど遠くへ逃げてしまうそれを、何故か気になって本来の目的を忘れ夢中になって追いかけ走る。気になるのはそれだけはない。風のように囁いて消えた不可思議な言葉の羅列。
「アリスって、一体何の事?…誰のことを言っているの?」
ウサギの後を追い、降り続く雨の中必死に走るもさすがに追い付けず一瞬にして見失ってしまった。街灯もない雨と真夜中の闇、毛並みの黒が同化したせいでもあるだろう。ウサギの位置を肉眼で把握する事は不可能に近かった。
「はあー…。何だったのよあれ…やっぱりただのメルヘンな夢の話だけだったのかな…」
身体を屈め息を整えながら前方を睨みながら吐き捨てる。その言葉の返答は有り得ないのだけれども。
…シーン。吐息だけが谺する夜特有の物静かさ、深々と雨は降り続けて傘を持たないあたしを容赦なく濡らしていく。
忘れようとした“寂しさ”が胸にこみあげてくる。心に比例して、身体にもある感覚が甦る。
とうに消え失せたはずの“寒さ”。走ったせいで出てきた汗もゆっくり冷えてきて、予め濡れていた服も冷たさを呼び火照った身体は肌寒さを覚える。
ぶるっと身体は寒さで震え、鳥肌さえも現れてしまう始末。
「…馬鹿みたい。あたし、なにやってんだろ…」
変な夢に振り回されて自分を無くして。ぽつり、雨と共に流れ落ちた言葉。自分が吐いたものだと気付くのに少々時間を要いた。心がやけに寂しく虚しい。
「ともかく、今日は帰ろう…」
我に返り、身体を摩りながら家路につくため、来た道を戻るために方向転換をする。
馬鹿なことを考えた、とりあえず今はもう何も考えず暖をとりたい。
そして何もかも忘れて…何時ものように眠りの世界へ逃避すればいい。
"どこに?"
そんな事を考えていた、突如頭の中に響く澄んだ声。
「…えっ…!?」
慌てて振り返るもそこには何もない。変わらない雨と氾濫する川の激流の音、そしてそれを増長する拡がる闇の光景。単なる、気のせいなのだろうか…。
「…何だったの今の….。あたしの聞き間違えかな…」
一言呟いて、もう一度歩みだす。するとまた、響き渡る凛とした声。
どこに帰るの?"
今度ははっきりと聞こえる。凛と張ったソプラノのような高い声。でもどこから聞こえてきているのかはわからない。
「…どこって決まってるじゃない…」
"独りぼっちで可哀想なアリス。"
あたしの言葉を遮りそれは発し続ける。
心の中を見透かされているようで、嫌悪感が身体中に駆け巡る。
"君に帰る場所なんて…あるの?"
「…!うるさい!うるさい!!そんなの…関係ないでしょ!」
図星をつかれ堪らず、頭の中の問いかけに激情。
「あたしは可哀想なんかじゃない!独りなんかじゃない!」
違う!違う!違う!必死に否定しながらも心はその言葉に…肯定的だった。
精一杯の強がり。虚勢を張らなければ1人で立つことなんて出来なかったんだ。けれど本当はわかっていた。理解っていたのだ。“帰る場所”だなんて…
「朱鳥くんがいなくなった日から…あたしに居場所だなんてどこにも…」
もうどこにも“ない”と言うことを。
気が付くと、見失ったはずの黒ウサギがあたしの様子を伺うように一心に見つめている。
じっと佇む様に、まるであたしを見守るように。
「…っ」
言葉を無くし小さく舌打ちをして、髪を掻きあげ立ち往生を決めていると、またもやウサギはぴょんと一跳ね。今度はわかりやすいように裏路地へと侵入していく。
「ちょ…っ、待って、ウサギ!」
心の奥底で思っていたのかもしれない。誰でもいいから、誰かの傍にいたい。
何時ものように、またあの人の事を思って泣き眠りたくない。もう独りではこの寒さに耐えきれそうにはないから。
だから無我夢中で正体不明のウサギを追いかけていたのかもしれない。
嘲笑うかのように跳んでは振り向き、此方の様子を伺いあたしが近付けばまたぴょんと跳ねる黒ウサギ。
「…っ、ちょっとほんとに待っ…!?」
追っても追っても近づかない距離。雨は尚も降り続き、視界不良も相まって苛立ちと疲労ばかりが増す一方で、吐く言葉も徐々に少なくなっていく。
「…だ、駄目だ…。しんどい…」
絶え絶えな呼吸を一度落ち着かせようと一時的に歩行を中断。こんなに走ったのは何時ぶりだろうか、自分の日頃の運動不足を呪うばかりだ。
ふと目線をあげ気付くと、何時の間にか路地に入り込んでいてそこは大きな壁があり行き止まりだった。
漸く周りに目をやる。暗すぎて気付かなかったが、壁の両隣にはダストボックス。進入禁止のプラカードも掛かっていてこれ以上先に進めないようになっていた。
そして、今度こそようやくウサギが消え気配がない事を気付いた。
「あれ…?どこに行ったんだろうあのウサギ…
ちょっと!出てこないなら捕まえて食べちゃうわよ!」
精一杯の脅し。まあ言葉がわかるはずないだろうと、思いつくまま罵倒を繰り返す。
そんな馬鹿馬鹿しい事に集中していたからだろうか、迫り来る気配に全く気付く事はなかった。
「聞いてるの!?あんたを鍋なんかにして夕飯に食べちゃうわよ!知らないからね!」
「やだなぁ。僕を食べても美味しくもないよ?
こーんなに愛らしいのに、相変わらず怒ると怖いなぁ。アリス」
「ひゃあああ!!」
予想だにしない声。驚きの声を上げて声のする方向に視線を向けると笑みを禁じ得ない様子でクスクスと笑う一人の男の姿。
ダストボックスに腰を掛け、頬杖をついている姿はどこか気品を感じられる。
少しウェーブのかかった長い黒髪とシルクハット、全身真っ黒で所々にレースが付けられていて、あれはロングスカート?少しばかりゴシック調な衣服で身を包み、瞳はさっきの黒ウサギと同じ瞳の色。真っ赤。
そして、胸には懐中時計のような丸いアクセサリー。
「…い、一体何これ…。夢…?」
頬っぺたをぎゅーとつねり夢を見ているわけではないことを確かめる。
ウサギを追っていた筈であるのに、何故か肝心のウサギの姿は消えていて代わりに全身黒ずくめの物凄く怪しそうな男…のくせに物凄く整った顔をしている。
造形美ってこういう事を言うのだろうか。肌が白雪みたいなのがいる。それだけであたしの思考はパンクしそうだった。
「アリス、僕はずっと君を探していたんだよ。やっと会えたね」
あたしを見て嬉しそうに綺麗な笑みで微笑む眼前の男。思わず後退りする。
「…貴方あたしの事を知ってるの?と言うかアリスって誰の事?」
それだけ告げると、男はぴたりは笑みをやめ、静かに凝視する。その視線はあたしに向けられたまま背かれることはない。
「な、何よ…」
「本当に忘れてしまったの、アリス。僕、僕たちの…事を。」
確かめるようにゆっくりと吐き出す。…一瞬、赤い瞳が哀しげに伏せた気がした。
「忘れるって…?ちょっ…」
「あっ!もうこんな時間!」
言葉は言いかけた途端に、男の驚愕を含んだ声色に掻き消されてしまった。
立ち上がり、胸の懐中時計を確かめ慌てる様な動作でダストボックスから飛び降りてあたしを横切る。
「な、何よ急に!吃驚するじゃないの!」
「ごめんね、アリス。ゆっくりと話していたかったのだけど、僕もう行かなくちゃだから」
後ろ振り向き淋しそうな笑顔を浮かべすっと背筋を伸ばしてまっすぐに立つ。更に胸の懐中時計の針の様子を伺いながら。
「は…!?行かなきゃってどこに?」
「早く行かないと、女王様の機嫌を損ねてしまうから。またね、僕のアリス」
答えになっていない答えを言って一瞬にして消えてしまった男。
雨が降り止まない真夜中の裏路地に取り残されたのはあたしひとり。
「意味…わかんないし!何なのよ今の!」
鳴り響くのは自分ひとりの声。
闇の中。…ひゅうとどこから風が吹き荒れる。それは案外すぐ近くらしい。