私の心は紅の涙に
本作は、遥彼方さま主宰「紅の秋」企画参加作品です。
くるり ひらり
紅が舞い落ちる
くるり ひらり
紅が舞い落ちた
あの古都の秋の夕暮れ……
「香子、寒くないか」
「ええ。大丈夫」
真人の言葉に私は、薄紫色のカットソーの上から厚地の赤いタータンチェックの大判ショールを軽く羽織りながらそう答えた。
京都・大原寂光院。
『平家物語』建礼門院徳子ゆかりの地として知られる尼寺。
私達は歴史の古いその場所を訪れていた。
季節は晩秋。
山門へと続く石段に背後の山々を彩る紅葉は見頃を迎え、紅に黄葉にそれは見事な光景だ。
静けさ漂う境内で、私達はしみじみと秋の風情に浸り、のどかな山里の秋を心ゆくまで満喫している。
しかし、
「そろそろ帰ろう。もう夜は冷える」
真人がさりげなく私の肩を抱く。
「そうね……」
名残惜しさを感じながら、私はそう呟いた。
こんなこと、ここでしかできない……。
彼の節太く長い左指が私の肩にかかっていることを思い切り意識しながら、私はその場を後にした。
十五分ほど歩いて私達は、老舗旅館『大原温泉』に戻ってきた。
「おかえりやす」
動きやすそうな藍色の着物を綺麗に着付けた仲居さんからにこやかに声をかけられながら、部屋へと入る。
広いゆったりとした和室『桜の間』。
奥の間には二組のまっさらな布団が敷かれている。
ここが私達が今夜泊まる部屋……。
「風呂、入る?」
真人が黒いレザーのジャケットを脱ぎながら、問うた。
「真人、先に入って。私、ちょっと疲れたわ」
「わかった」
そう言うと、真人は温泉へと一人で入りに行った。
私はそんなことにドキドキしている。
貸し切り露天風呂だからって……一緒に入るなんて……。
一人、火照る頬に手を当てる。
こんなことで動揺していては、今夜はいったい……。
そんなことを考え、つくづくと私は彼と私の関係を思い知っていた。
「ここの湯豆腐は美味いな」
部屋の中央のテーブルで、真人が熱い湯豆腐の鍋をつつきながら、機嫌良く舌鼓を打つ。
会席料理を予約していたのだが、私に食欲がなく、喉ごしの良い献立に変更してもらったのだ。
それにしても、京都の湯豆腐というものは普段口にするお豆腐とはまるで違う味わいがする。
私達は静かに箸を動かしていた。
「……真人」
「何だい?」
私は大原に来てずっと考えていた言葉を結局は口にした。
「私……やっぱり……」
彼の目を見つめることができずに、私は斜め下方に視線を泳がせる。
「帰る。……のかい?」
果たして、彼の言葉が私の心を貫いた。
私は涙ぐみそうになるのを必至で堪え、無言で頷く。
「わかってるよ。こんな所まで来たって。例え地の果てまで逃れても、僕達に未来なんかない」
真人の冷静な言葉。
本当はわかってる。
私達は決して結ばれない。
私達に未来なんか、ない。
「でも」
真人が呟く。
「これだけはわかって欲しい。僕の胸にある女性は。僕が心底愛しているのは……。僕が欲しいのは君。君一人だけだ」
真人はその場からゆっくりとにじり寄ると、中腰で私を折れんばかりに抱き締めた。
真人……。
中堅の翻訳事務所で働く私の上司。
留学はしたけれど大学で学んだだけの私のドイツ語力を酷く買ってくれて、大きな仕事からちょっとした雑務まで私に回してくれる。
私達がほぼ同時に恋に落ちるのに時間はかからなかった。
私の耳の紅い雫型のピアスが、揺れる。
真人がフランクフルト行きのルフトハンザ航空の中で買ってきてくれた私への初めてのプレゼント。
このピアスのみ身に着けて今夜、真人に抱かれるつもりだった。
どこか、私達のことを誰も知らない街で、二人ひっそりと暮らすつもりだった。
さりとて、行く宛などない私達の足は、今時分、紅葉が美しい秋の古都・京都大原へと向かったのだ。
でも。
現実はそんな絵空事の様に単純ではない。
そのことも私達は知っていた。
知って、尚、この古都へと逃れてきた。
住所も、名前も、家族さえも何もかも捨てるつもりで。
けれど。
私は、しょせん真人に抱かれる覚悟はなかった。
遂に、唇が重なる。
永遠のような時間が始まる。
それは、私達にとって初めての口づけ。
真人には妻子が、私には夫がいるから。
だから今まで手を触れることすらせず、耐えてきた。
行動だけは律しよう。
私達はそのことだけは誓っていた。
それだけがお互いの家族へのせめてもの償い。
私達の心は……。
想いは純真だった。
でも──────
「別れよう」
ゆっくりと身体を離し、真人が呟いた。
私を畳の上へと押し倒すことすらせず。
「僕に君の幸せを壊す権利はない」
真人の痩せた横顔が苦渋に歪む。
「君の真の幸福は、今の家庭にある」
真人の言葉が再び私の胸を衝く。
私は……。
私は……。
それは、月の綺麗な蒼い夜。
外では、肌を刺す木枯らしが吹いていた。
ショールで首元を包んでも暖かさは感じられない。
先ほどまで触れていた真人の身体の、唇の温もりを今更のように思い出す。
夫を愛しながら、何故彼に惹かれたのかわからない。
彼に恋したのは本能だった。
それは、生きることと同じこと。
謳うように、呼吸をするように彼が好きだった。
彼を愛して、愛されて幸せだった。
「さよなら……真人……」
くるり ひらり
紅が舞い落ちる
狂うが如く紅い紅葉が舞い乱れ、想いとは裏腹の言葉を呟きながら一人帰途に就く私の心を、紅い涙で染め上げた。
本企画には、詩歌「三部作」を投稿しましたが、小説は初参加です。
何か書きたくてたまらず、掌編ながらもなんとかひねりだしました。
「企画」は発想力に決定的に欠ける香月にとって、アイディアを提供して頂けるので、本当に有難いです。
尚、作中イラストは遥彼方さまより頂きました。
企画に参加させて頂いた上、素敵なFAを下さった遥彼方さま、そしてお読み頂いた方、本当にありがとうございました!
【付記】本作は、2020年12月19日に改稿しました。