江東の小覇王
一九二年 荊州
「ここまでは順調だな。」誰にも気づかれないような声で呟く。程普(字を徳謀)彼は孫軍にあって、智勇に優れその才で主君孫堅を補佐してきた。だが、この度の劉表攻めには反対であった。前年の戦で惨敗を喫し、多くの兵を失った。今回は明らかにその報復戦である。
「私怨で戦をすべきではありません。荊州などいずれ手に入ります。焦ってはいけません。」そう諌めたが聞き入れられなかった。程普は何か得体の知れない不安を感じていたのだ。しかし、孫軍は強かった。諸城を落とし、その勢いをもって本拠、襄陽城を囲むにいたった。程普の心配は杞憂のように思われた。
そんなある夜、見張りが敵の逃亡兵を見つけた。何のことはない、ただの逃亡兵。だが、孫堅は自ら兵を率い、それを追った。一軍の将のすべきことではない。程普は諌めたが、孫堅は追撃を止めなかった。
そして、突出した孫堅は敵の罠にはまり、戦死した。
三十七歳という若すぎる死だった。孫堅の死後、孫軍は盟友袁術を頼った。
まだ十七だった孫策は袁術の客将となり、孫軍の兵はすべて袁術軍に組み込まれた。
あれから二年。
失意と絶望のなかで孫策は袁術の元で多くの功をあげた。
だが、袁術はそれに報いることはなかった。それどころか、成人した孫策に孫軍の兵を返そうとすらしなかった。
「クソッ。」一人、鬱憤を晴らすため、狩りをしていた孫策が喚く。
「袁術め!畜生。」近くの木を力まかせに殴りつける。
「クソッ。畜生。」何度も、何度も喚き、殴り続ける。拳から血が滴り落ちているがそんなことは気にも留めていないようだった。
「そんなに大声をだしたら、誰かに聞かれてしまいますよ。」懐かしい声に孫策は耳を疑った。よく通る柔らかな声、父の死後聞くことのなかった声。
「公瑾?公瑾なのか。」恐る恐る尋ねる。
「はい、伯符様。お久しぶりです。」茂みの中から現れたその男は、間違いなく周瑜(公瑾)であった。
彼は、孫策と同い年の幼馴染で無二の親友でもある。
「お前、どうして?」
「そろそろ我慢の限界だろうと思いまして。」満面の笑みを浮かべる孫策と、軽く笑うだけの周瑜。孫策は周瑜をおもいっきり抱きしめた。
「俺と、来るんだろう。そのために来たんだろう。」何よりも一番に聞きたかったこと。誰よりも一番側にいてほしい奴。
「はい、伯符様に仕えるために。」周瑜がゆっくりと答える。孫策はいまだはしゃいだ様子のまま、腰を下ろした。
「なあ、俺はどうすればいい。お前の策ならなんだってのってやる。」周瑜は孫策の現状を打開すべく、策を語った。
数日後 寿春にて
孫策は袁術の前にひざまづいている。豪奢に着飾った衣をまとい、美姫をはべらせ、玉座にある袁術。
「どうか、叔父を助けるべくこの伯符に兵をお貸し下さい。」
「うーむ、呉景か・・・あいつは期待外れだったな。あれで孫家の親族とはな。」孫策が唇をかみしめる。幸い平身低頭しているため、袁術には見えない。
「袁将軍、これを。」孫策は袋の中から父の形見をとりだした。
「これは、玉璽か?」袁術の目の色が変わった。美姫をおしのけ孫策に近づく。
「もしも、玉璽を渡すのが惜しいと思ったら近づいてきた袁術を殺してしまいなさい。」そう言った周瑜の顔を思い出す。
(いっそこのまま殺してやろうか。)
だが、周瑜はこうも言っていた。
「ですがそのときは、伯符様は主殺しの罪をかぶることになりますが。」一瞬迷ったが、孫策は決意した。
「この玉璽を袁将軍に差し上げます。その代わりに・・・」
「うむ、よいよい。兵を返そう。」袁術は満面の笑みを浮かべて玉璽を受け取った。
さて、玉璽である。これは秦の始皇帝がはじめて用いたもので、以後代々皇帝に受け継がれてきた金印である。
袁術はこれを欲していた。玉璽があれば、皇帝になることが可能であると思っていたからだ。それを知っていて、孫策は玉璽をかたに袁術から兵三千を返してもらった。
五万もいた兵のうちわずか三千、袁術の強欲さがうかがえる。
ここで、揚州の勢力図に触れておこう。袁術は寿春を本拠とし、曲阿の劉ヨウと敵対していた。寿春は長江の西、曲阿は東に位置する。そこで、袁術は寿春の東、歴陽に前線基地を築き、その城将を孫策の叔父呉景に任せた。そして、三万の兵を与え横江・当利攻めを命じた。ここをおとせば、長江を渡り曲阿を攻めることができる。名将・孫堅の一族のものならそれくらい容易いだろう。そう袁術は考えていた。
だが、袁術の予想に反し、呉景は戦うたびに敗れ、二万の兵を失った。そこで孫策は叔父の恥をそそぎ、己が独立する拠点を得るべく歴陽に向かった。
道中、孫策の兵は膨れ上がり、六千を越えるほどになった。孫策はこのことに少し当惑していた。
「どうかしましたか。」その様子を見て周瑜が尋ねた。彼は智謀に長け、軍師として常に孫策の側に身を置いている。
「この兵は父上の名で集まってきたんだな、と思ってな。」
「ご不満なのですか?」
「いや。」そう答える孫策はどこか釈然としていないようであった。
「いずれ、破虜様(孫堅は朝廷から破虜将軍の位を賜っていた)ではなく伯符様ご自身の名声で兵が集まるときがきますよ。」そう言って周瑜は前方へ視線を移した。
そこには歴陽の街がみえていた。
孫軍が歴陽につくとすぐに軍議が開かれた。だが、度重なる敗戦で歴陽の将は臆病になっていた。まずは一戦すべきという孫策達の主張に対し、守りに徹するべきだといって耳を貸そうとしない。
「我々は三万の兵で敗れたのだ。現在、歴陽には孫軍の兵を合わせても一万六千。これでは勝てるわけがなかろう。」呉景ら歴陽の兵はみなこのような有様で、軍議では何一つ決まらずに終わった。
その夜。
周瑜は孫策の自室にいる。酒をあおって終始不機嫌な孫策と、側で今にも吹き出しそうになるのを抑え、肩を震わせている周瑜。
「何がおかしい。」怒気を含んだ口調で周瑜を睨む。だが、拗ねた子供のような孫策の仕草が余計におかしく、つい声を上げて笑ってしまった。
孫策が不機嫌なのは、さきの軍議のためであった。歴陽の将が言う慎重論を無視して、横江攻めの策を進言したとき、呉景は孫策にこう言ったのだ。
「功を焦って、兵を無駄死にさせるな。そなたは武勇に優れているが、それだけでは戦はできんものだ。それにそなたはまだ若く、経験が足りない。我々に従っていればいいのだよ。」これでは、孫策でなくとも怒るであろう。
現にこれを聞き、刀のつかにてをかけたものさえもいた。もっとも最悪の事態には至らなかったが。
「公瑾、何でお前は笑っていられる。」二人きりのときは、かつてそうであったように二人は互いを字で呼んでいる。
「横江を陥とせば、呉景殿の対応も変わりますよ。」
「だがな・・・」そう言って、孫策はまた酒をあおる。
「この状態でどうやって横江を攻めるんだ。叔父上の許可がなければ何も出来ないじゃないか。」と、孫策。周瑜は笑いはおさまったもののまだ微笑を浮かべている。
「策があります。孫軍六千で横江を落とせる。」
「本当か?」孫策の表情が一変する。
(この御方は、まるで子供のようだ。)
「はい。」そう言って、周瑜は策を語った。もともと周瑜は歴陽の兵には期待していなかった。士気が落ち、厭戦気分の彼らに戦をさせても大した戦果は得られないだろう。それに孫軍独力で横江を落とせば、孫策を血気盛んな若武者と思うものもいなくなるだろう。横江の守備兵はおよそ八千、当利は一万を越える。横江・当利互いに近い距離にある。どちらかが攻められれば、すぐに救援を送ることが出来る。だが横江を一日で落とすことができれば・・・
聞き終わった孫策は、目を丸くしてしばらく声が出なかった。策自体は奇抜なものではない。孫策を驚かせたのは別のことだった。(こいつ、詐欺師か。)そう思うほどに周瑜の言葉には不思議な力がある。聞いているとうまくいく、成功するそういう気になっていく。
「伯符様?」しばらく黙っていた孫策を横から覗き込むようにして彼の名を呼ぶ。
「ああ、それでいこう。明日、叔父上達にも話して、」嬉々として話す孫策をさえぎり
「伯符様、呉景殿には策の内容は話さず、独力で横江を攻める許可だけをもらうように。」
「ん?」どうして?という顔をする孫策に
「策の内容を話せば反対されるかもしれませんから」と周瑜。
「ああ、わかった。」そう言って、周瑜の器に酒を注ぐ。
「あまり酒は強くないのですが。」そう言って辞退するが、
「いいから、飲め前祝いだ。」と強引にすすめる。(やれやれ、今夜は遅くなりそうだ)そう思い、周瑜は苦笑した。
翌日、呉景から横江攻めの許可を得た孫策は、軍議の間に諸将を集めた。
「こたび、我軍独力で横江を攻めることになった。」孫策が開口一番に告げる。
諸将は驚きを隠しきれない。孫軍六千で横江守兵八千と戦えるのか?
孫策はざわめきが収まるのを待ち、周瑜に作戦の内容を話すように促した。横江は歴陽の南に位置する。夜襲にて横江の北門を攻撃し、別働隊をして西門から場内に侵入する。その後、城内に火をつけ敵を混乱させる。これが作戦の全容だった。
「仮にうまくいっても、これではハン能(横江の守将)を取り逃がしてしまうではないか。」と、真っ先に異議を唱えたのは程普という先代から仕えている最古参の将だった。
「ええ、確かに逃がしてしまいます。ですが、視界のきかない闇夜の中で逃げるハン能を見つけ、仕留めるには犠牲が多すぎます。」と周瑜。
「ならば、その後はどうするのだ。横江をおとした後、その勢いをもって当利を攻めるのか?」と、黄蓋という程普より幾分若い(といっても四十代なのだが)将が尋ねる。彼もまた先代孫堅のころから仕えている。
「今回は、横江攻略のみで十分かと思いますが。」と、周瑜が孫策を覗う。昨夜は当利のことは話していなかったからだ。
実は、酒をたらふく飲まされてあまり覚えていないのだ。まだ少し頭が痛い。どうしてこの主は平気でいられるのだろう。
「うむ、黄蓋の言うように当利もおとそうと思っていたのだが、公瑾何か考えがあるのか?」
「いえ、そうではないのですが、当利攻めでは呉景殿にも加わってもらおうかと思いまして。」
「うむ。そうだな。その方が叔父上達も喜ぶだろう。」そう言って、孫策は周瑜の策を採用した。
雲ひとつない夜空の下で、その一軍は月と星の明かりを頼りに、静々と横江へ進軍していた。
先陣は歴戦の将、程普。孫策は周瑜と共に中軍にいる。別働隊の将には黄蓋が選ばれた。
彼は選りすぐりの兵と共に、西門近くで息を殺し『とき』を待っていた。しばらくすると北門の方が騒がしくなってきた。
はじまった。黄蓋には、篝火が北門に向かって動き出すのがはっきりと見えた。
見張りの兵が北門に集中していく。
と、黄蓋が笑みを浮かべた。兵が不信がる。合図なのか?
いや、違う。
彼はふと思い出したのだ。この策をたてたのが、まだ若い青年だったことを。(久しぶりだな、戦場にでるのも。)
鼓動が高鳴っていく。長年の経験がいまが『そのとき』であることを教えてくれる。
「よし、いまだ」その声と共に数十名の兵が城壁をよじ登る。
「何なのだ、この軍は。」横江の守将ハン能は城壁の上で直接兵を指揮していた。暗闇の中で、これほど進退の際立った部隊があるだろうか。一気に攻めたかと思うと退き、他の隊と交替する。兵が疲れる前に退くので、常に強攻できる。
「これが、孫軍なのか?歴陽の呉景とは比べものにならない。」驚きながらも、この横江をおとすには兵が少なすぎる。そう思っていたハン能の元に、部下が血相を変えてやってきた。
「申し上げます。敵が西門から侵入。敵は城内に火を放った様です。」ハン能は眉をしかめた。
「西だと?北は陽動か。」一瞬考えたのち、ハン能は撤退の命を下した。孫軍は見事勝利し横江を得たのだ。




