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怪異其之一・夜詰め切り 四

お待たせしました。夜詰め切り編完結。あと十三個……なにげに作中最長になるのではと戦慄中。

つ、つぎは軽めになるはずだから!

 昼ごろ。

 ぐったりした様子で商家から出た稲成は、目元に浮かんだ隈に思わず眉をしかめつつ、大きく伸びをした。


「はぁ、ようやくまとめ書類が終わったわ。昨日一晩かかって対策案全部試して、その後書類作成しなきゃいけないなんて……」


 不満げに頬を膨らます稲成に、俺――賢者の石は、一応いさめる言葉をかけておく。


「仕方ないだろ? 人死にが出るタイプの怪異なんだから、確実な対策方法をきちんと調べておかないと。お前だってこの調査不足のせいで人が死んだなんてことになったら寝覚めが悪いだろう」

「そりゃそうだけど……」


 というかお前、実際寝なくても体調不良になったりしないだろう……。という野暮なツッコミは、なしにしておいた。

 そりゃ稲成は現人神だ。本来ならば血液であるはずの物の代わりに俺が封入した原始霊力を体内中に流しており、思考一つでありとあらゆる不調をなかったことにし、老化すら止め、およそできないことはないと言えるほどの全能の力を有している。

 とはいえ、俺は娘を化物にしたいがゆえにそんな力を与えたわけではない。

 やむに已まれぬ事情があったし、稲成もそれは理解している。

 だからこそ、稲成はできるだけ人間らしい生活を心がけ、精神性を人だったころのまま維持しようと努力しているのだ。

 そんな健気な娘の努力を、どうして無駄と切り捨てられようか? いいやできない! その努力の結晶が今の健全な稲成の精神と思考を保っているのだから!

 下手に人から外れて、もし時廻みたいな性格になったらどうする!


「ん? なに? 何か言いたいことでも?」

「……いや別に」


 そんな風に俺が内心、ちょっとだけ娘の努力を誉めつつ、かたわらで「すごい死にっぷりだったねェ、稲成ちゃん! どうどう? 一晩で百ほどの死を体験した気持ちは? ねぇ、どんな気持ち? ねぇねぇ、どんな気持ち?」と、寝不足の稲成をあおりさらにいらいらさせていた時廻へと視線を向けた。


――というかコイツ、本来眼球がないはずの俺の視線にどうして気づく? 元仙人だからか? 仙人はなんでもありか?


 と、そんな風に俺たちがいつもの雑談を交わしているときだった。


「あんたらの書類、確かに受け取った……これでこの事件は終わりだ」

「……与力さん」


 稲成がまとめた分厚い書類を片手に、あのおしゃべりな番頭に撤収の旨をつげていた与力が、眉をしかめながら商家から出てきた。

 彼の後ろからは、無数の警吏たちが続々と続き、現場検証に使った道具などを抱えて元の警吏所へと帰っていく。

 そう。事件は解決した。怪異が起こした事件として、また警吏所と幕府の問注所当たりの図書室あたりにでも怪異事件案件として記録・保存されるはずだ。

 そうして夜詰め切りの被害状況を全国へと拡散し、夜中の爪切り等の禁止などが公布されるのだろう。

 だが、


「不満そうだね」

「ちょ、やめなさい時廻。与力さんが言ったようにこの事件は終わったの」

「だってぇ、与力さん本人は終わったなんて微塵も思ってないみたいだったしさぁ!」


 にやにや笑いながら、与力に近づこうとした時廻の襟首を、稲成はガッと捕まえるが、それでも時廻の口は止まらない。

 明らかに不満げな与力の顔を面白がっている時廻の言葉は、与力の神経を逆なでしたのだろう。与力の手の中で、分厚い書類の束がぐしゃりと歪む。


「あ、私の徹夜の結晶……」

 

 瞬間、稲成の顔がちょっと切なげに歪むが、与力はそれどころではないらしく、震える声を放つ口を彼は開いた。


「言われなくてもわかっているさ! しょっ引くべき犯人もしょっ引けず、俺達は情けなく肩を落として下がるしかねぇ。この事件はもう終わったと! この事件はもう解決しちまったと! 全部怪異のせいにして、確かに人を殺した女を見逃し、俺達は帰るしかないんだ!」


 与力の口元から、ギシリという音が響き渡る。

 悔しさのあまり歯を食いしばったのだろうか? その形相は憤怒にまみれていた。

 だが、だからこそ。


「与力、お前の悔しさはよくわかる。俺だって悔しい。何一つとして解決できていない現状で、解決したものと、終わったものとしてこの事件を扱わないといけないんだ」

「だったら!」

「だがなぁ、それが今の時代なんだよ……」

「っ!」


 俺のその言葉に、与力は黙り込むしかなかった。

 そうだ。今はそういう時代なんだと……今を生きる者は、納得するほかないのだから。


「今は時代の過渡期だ。榁町幕府の手腕によって、日ノ本はようやく厳寇の被害から復興しつつある。だが、今までその打撃を受けた経済を立て直すために、幕府はあまりに力を使いすぎた。怪異への対応は、まだまだ時間がかかるだろう。……被害面でも、法律面でもだ」

「…………………」

「だからこそ、俺達怪師は日ノ本を巡っている。たとえ今はどうしようもなくとも、いずれ来る未来が、いまよりマシにできるようにと。それが、いまを生きるおれたちにできる、唯一のことだからだ」

「……そうか。あぁ、そうだな」


 長い年月を生きていて理解できることがある。

 今解決できる問題なんてものは、所詮は大した問題ではないのだと。

 本当に解決しなくてはいけない問題は、今すぐ解決できない問題なのだと。

 だが、そこで諦めていいわけではない。

 所詮今はそんな世の中だからと、今は決して変わらないからと……諦めて問題を先延ばしにするだけでは、その問題は永遠に解決しないままだ。

 だからこそ、こいつのような人間が必要なのだ。

 今解決しなくてもいい。だがそれでも、何とかこの問題を解決したいと、未来のために自分は何を託してやれるのかと……そんな考えができる人間が。


「お前にはいろいろ期待している。与力」

「はっ! 付喪神風情が、言ってくれるね。ずいぶん上から目線じゃねぇか」

「まぁ、実際貴方より長生きしているし」


 とはいえ、俺を下に見る発言は許容できなかったのだろう。若干稲成の言葉に刺が生えていたが……まぁ気にしても仕方ない。事実、俺はただの喋れるだけの石ころだ。だからこうして、話し合っていくくらいしか、世にかかわれる手段はない。だから、出し惜しみはなしだ。


「そこでだ、お前の予言一つくれてやろう」

「なに?」

「この事件を契機に、榁待幕府は本格的に怪異対策に乗り出す。シャレにならん奴がいよいよ姿を現すからだ。怪異のことが広まり、周知され、そしてそいつらの力のいくつかが明るみになった今だからこそ、奴はおそらく動き出す」

「……一体何の話だ。何を言っている!」

「あの女は諦めろ。あれはもう終わった奴だ。だが、その死を無駄にすることは許さん。お前は、お前にできる最善を選び取れ」

「…………………」


 その言葉を最後に、俺は稲成を促しその村を後にした。

 これ以上関わることも、必要もないと……そんなことを呟きながら、


「そう思っているなら、その悔しそうな顔どうにかしなよ?」

「……顔なんてないはずだが」

「おっと失敬! そういえばそうだったね。いやぁ、それにしても賢気朱巌命様がそんなに死を惜しむとは! 確かに美人さんだったしねあの後妻さん。性格がいくら悪くても、美人が死ぬのは人類の損失じゃない?」

「え? 父さんそんなこと考えてたの?」

「ちょ! 人聞きの悪いこと言うなっ!? 違うから! ただちょっと救いようがなさすぎるのが哀れ過ぎてだな!!」

「どうする稲成ちゃん? 電話帳、開く? 開いちゃう!?」

「岩守さんの番号何番だったっけ時廻?」

「や、やめろぉ! ちょっと美人さんだなとか、これが今からいま死ぬのかとか確かに考えたけど、それだけだから、よこしまな気持ちは一切ありませんから! 天地神明に誓って!!」

「じゃぁその誓われた岩守さんに聞けば万事解決ね?」

「ち、畜生! 墓穴だった!! 大体お前ら、いつも言っているけど何でおれがちょっとエロいこと考えたら岩守のところに電話かけるんだ! おいやめろ、マジやめろ! フリじゃない、フリじゃないからっ! あ、ちょ、あぁああああああああああああ!!」

『やれやれ。このありさまでは、これが日ノ本を作った創世神話の神とは、だれも思わないでしょうに……』


 刀剣に封じられた最適解の溜息など聞こえることなく、俺はためらうことなく岩守に一報を入れた稲成の暴挙により、神祇板をくくりつけられることとなる。

 結果として、約三時間強に渡る岩守のネチネチとした説教を受けることになるのだが……今回の一件にそれは関係ないので、割愛することとしよう。



…†…†…………†…†…



 警吏の連中や、あの忌々しい巫女たちが姿を消し、静かになった主の喪に服す商家の一室。そこで、喪服に身を包んだ美しい女が自分の腹をさすりながら不気味に笑う。


「ふふふ。うまくいったわ。うまくいったわ。これでこの店は私の物……。あぁ、ようやく私は、人になれる」


 女はいわゆる貧民であった。

 厳寇による経済打撃をもろに受ける世代だった彼女は、ただでさえ食うに困るような農家の娘として生まれた。

 当然のごとくまともに働けない幼い彼女に、食料がいきわたる筈もなく、彼女は幼子の頃から飢餓と、そして親族からのごみを見るような目と戦いながら生きてきた。

 そんな彼女に契機が訪れたのは、厳寇により日ノ本経済が崩壊したときのことだった。

 統治機関がかわり、混乱する日ノ本の市場価格は予測不能な乱高下を繰り返し、日ノ本経済は一度完全破綻。それにより金があっても食糧が手に入らないという暗黒時代がやってきた。

 それを解決するため幕府は獅子奮迅の活躍を見せるらしいのだが、そのことは女にとって関係ない。

 女にかかわりがあることは、不安定になる情勢に耐えきれず、彼女の両親が最も手っ取り早い方法で、確実に何かの対価になる存在を、食料の代わりに差し出したことだ。


 それが彼女……いわゆる人身売買である。

 金が力を失ったご時世、唯一確実に物品代わりの担保となるのは、食料なのだが、両親にはそれがなかった。だからこそ、彼らは幼い娘を売り飛ばし、明日の自分たちの糧へと変えたのだ。

 まともに飯を食わせてくれない両親でも、一応親であったからには、彼女はそれなりに二人のことを愛していた。

 虐待なども行われなかったし、ただつねに飢えているだけで、親としてはまっとうな部類であったはずだ。

 だがそれでも、彼女は見てしまったのだ。

 自分を売り飛ばした二人が、詰まれた山のような食料に喜ぶ姿を。

 その喜ぶ姿には一切両親の呵責などなく、自分たちが産み育てた娘に、一瞥すらくれない姿を。

 その時彼女は悟ったのだ。自分は人間などではなく、ただの物でしか無かったのだと。こういう緊急事態に備えるための、ただの備蓄財産でしかなかったのだと。


 それからの彼女は必死にはたらいた。妓楼に売り飛ばされた彼女は、必死に女を磨き、男を誑かす手練手管を学び、無数の男に偽りの愛をささやき、そして誰からも好かれる妓楼一ノ妓女になった。

 すべてはそう――彼女が人間になるために。

 誰かに愛してもらい、誰かに認めてもらい、お前は人だと――認めてもらうために。

 だが、


――身請け? あぁ、いや。うちには金がなくてだな。

――すまない。妻と別れるわけには。

――はぁ? 私が大切でないのかだって? 調子に乗るなよ売女風情が。お前など一時の性欲のはけ口にすぎんわ。


 客たちからかけられる心無い言葉。そしてこちらを気遣ってはくれない、あくまで自分本位の言葉に、彼女は悟る。

 私はまだ人間ではないのだと。

 ならばどうすればいい。どうすれば自分は人間になれる? いったいどうすれば――どうすれば!!


 そんなことを思い悩むうちに、とうとう彼女はその結論に至った。


「そう……私が人でないのならば、人であるものの存在を乗っ取ればいい。その人間のすべてを奪い、私がその人間の後釜に座る。そうすれば、私も誰かに愛してもらえる。私は人間になれる!!」


 そうして彼女はその考えを実行に移し、今に至った。

 彼女は気づいていなかった。自分を身受けしてくれた老人が、本当に自分を愛してくれていたのだということを。彼女が望んだものはとうの昔に手に入れていたのだということを……愛に憧れ、しかしついぞ愛を受けることがなかった彼女は気づけなかった。


 老人が確かに、自分を愛してくれていたのだという現実に。


 そして、その愛に気付けなかったがゆえに、


「ん? 何かしら」


 これから、死ぬほどの恐怖を味わうことになるなど……。



…†…†…………†…†…



 女がそれに気づけたのは偶然だった。

 廊下と部屋を分け隔てる障子に、何かの影が通り過ぎた気がしたのだ。

 だが、商家の住人達は皆通夜の最中。身重であった彼女だけが体調を案じられ、こうして別室にて休めていたのだ。


――この近くの廊下を、通るものなど居るはずがない。たとえいたとしても、自分に一声かけていくはずだ。


 そう判断した女は不審に思い、障子を開いて廊下を確認する。

 すると、彼女は不思議なことに気付いた。


「おかしい、明かりが消えている」


 霊力による技術発展が促された日ノ本では、明かりは前時代的な油と芯を使った燭台ではなく、霊力を用いた霊力灯が使用されている。

 これは、霊脈直上に作られた霊力編流所からの霊力供給によって各家庭に配布されるエネルギー――霊力を燃料に稼働する明かりなのだが、まぁそれはいい。

 今分かっておくべきことは、この商家で使われる明かりは早々簡単に消えるものではないということだけだ。


 女は不思議に思い、廊下の壁に設置された霊源(すいっち)をみてみるが、そちらはしっかりと霊力流通の方へと押されている。明かりへの霊力供給は滞りなく行われているようだ。


「じゃぁ、いったいどうして?」


――まさか霊灯の故障?


 女がそう訝しんだときだった。星空耀いていたはずの空に、突如落雷が輝いた!


「えっ!?」


 突然のあり得ない雷光に、女の身はすくむ。同時に女は見てしまった。


「だ、だれ?」


 雷の光に照らされた、廊下の闇にたたずむ巨漢の姿を。

 女に存在を悟られたことに気づいたのだろう、巨漢はそのままゆっくりと歩を進め始めた。

 ガシャリ、ガシャリと、不気味で騒がしい足音が近づいてくる。

 幾度もの落雷が暗い廊下を照らしだし、その明かりが確かに近づいてくる巨漢の姿を女に目に焼き付けた。


 一歩、また一歩と、確実に近づいてくる、全身甲冑を纏った巨漢の姿を!


「ひ、ひぃ!?」


 女はそれを見て逃げ出した。当たり前である。突然現れた巨漢の鎧男が、無言でこっちに近づいてくるのだ。怯えない方がどうかしている。


 彼女ははしる、膨れ上がったお腹を抱え、必死に商家の廊下を走り抜ける。

 それはお世辞にも早いとは言えなかったが、不思議と巨漢は女に追いつくことはなかった。

 いいや、逆だ。


「ど、どうして!? どうしてっ!?」


 いくら大店の商家とは言え所詮は田舎の一商売人。店と屋敷が合わさった建物がそう広いわけもなく、女はすぐに人がいる通夜の席に戻れると思っていた。

 だが、走れど走れど、突き当りを曲がった先に待っているのはただの廊下。通夜の席につながる廊下は、幾ら走っても姿を現さない。


「どうして!? どうして!?」


 怯える女の後ろを、巨大な鎧が一歩、また一歩と追いかける。

 そう、鎧は足が遅いわけではない。

 どうせ逃げられないと理解しているから、ゆっくりと、じっくりと、相手の心が圧し折れるまで、こうして女を追いかけ続けるのだ。

 そして、その時は意外と早く訪れた。

 もとより女は身重な身。どれほどの体力自慢であろうと、膨れ上がったお腹を抱えてではそう長く走り続けることはできない。

 女の体が崩れ落ちるのは必然と言えた。かろうじて腹をかばえたことは奇跡と言えるだろう。


 走りつかれ、廊下に這いつくばった女に対し、鎧武者は変わることのない歩調でゆっくりと近づきつつ、腰に佩いていた刀を抜く。


 そして、


「だ、だれなの! あなたいったい誰なのっ!!」


 悲鳴のような女の問いかけに、鎧武者はただ一言だけ返事を返した。


『山本――』

「え?」

山本五郎左衛門さんもとごろうざえもんである』

「……あぁ、嘘。そんな、あ、あり得ない――」


 女はその名前におびえたように身をすくませ、


「ばれていたというの。殺したのが私だと……。だから私を殺しに来たの、あなたっ!!」


 その名前は、つい先日亡くなった――この商家の主の名であった。



…†…†…………†…†…



 報いを受けたのだろう。女はようやくそれを悟る。

 人になりたくて、人となりたくて、ありとあらゆるものを投げ捨て、そして一人の老人を食い物にした。

 その報いを今うけているのだろうと女は悟る。

 だが、それでも嫌だった。認めたくなかった。


 だって、だって!


「いや、いや……死にたくない。死にたくないっ!」

『…………………………………』

「やっと、やっとここまで来たのに。ここまでようやくやってきたのに……やっと人間になれるのにっ! どうして、どうしてよっ!」

『……………………………』

「あなたはいっぱい持っていたじゃない。私にないものいっぱい持って、もう十分生きたじゃない! なら私にちょうだいよ! 私に全部ちょうだいよ! 本当に私を愛していたというのなら、私に全部をくれてもいいじゃないのっ!!」

『………………』

「私はこれからなの。やっと人として生きていけるの、まだ死ねない。死にたくない! 私はようやく生まれたばかりなのにっ!」

『…………』


 それは、女の人生を現した悲鳴だったのだろう。自分はこれからなのだと。ようやく人になれるのだと、人として生きてこなかった女の悲痛な懇願だったのかもしれない。

 だが、鎧武者にそんなことは関係ない。

 彼はただ彼女が最も怯えすくむ名前を出しただけなのだから。

 そして鎧武者は刀を振り上げる。事務的に、淡々と、それこそが自分が生み出された使命だと知っているから。

 だが、


「いや、いやっ! いやぁあああああああああああああああああ!!」


 その時、女は不思議な動きを見せた。

 死にたくないのなら、頭を守るように両手を掲げるはずだ。

 まだ生きようとするのなら、這いずってでも逃げるだろう。

 だが、彼女は、


『………………ほう?』


 悲痛な悲鳴を上げながらも、生き汚くあがくのではなく、自分のお腹をかばうように、振り下ろされる刀に背を向けた。

 刀剣が、背骨をへし折り断ち切る音が響き渡る。

 当然のごとく助からない。致命傷だ。

 助かったとしても、一生歩けぬ生活が女を待っている。


 それでも女は確かに、鎧武者の攻撃に対して、自分の腹をかばった。

 お腹に宿る確かな命を守るために。


『……何故だ?』


 鎧武者は問う。それはいったいどうしてだと?

 だが、死にかけの女にはその問いは届かなかったのだろう。

 ただ虫の息で、ヒューヒューという不気味な呼吸をしながら、女ははいずり鎧武者から逃げようとする。


「あぁ、あぁ……いや、いや。死にたく……ない。死にたく」

『………………』


 だが、やがてその力はつき、光を失った目で女は自分の腹をさすった。


「あぁ、ごめんね。不出来な母さんで。あなたは、貴方だけは……私みたいに」


 それが女の最後の言葉だった。

 不気味な鎧武者は、哀れな女の姿を暫くの間眺めた後、


『……ふん』


 鼻を鳴らし、動かなくなった女の体を蹴り上げ仰向けにした。

 そして、


『子に罪はない』


 その言葉と共に、女の膨れた腹めがけて握りしめた刀剣を振り下ろした!



…†…†…………†…†…



 主人の通夜から一夜明けた日のことだった。


「奥様、葬儀が始まります。お体の方は大丈夫……っ!?」


 女が休んでいた部屋へ、おしゃべりな番頭が顔を出す。

 瞬間、番頭の顔は青ざめた。


「あぁ、そんな。そんなことが!」

「あぁあ! あぁああ!! あぁあああ!! あぁあああ!!」


 そこにあったのは、無残にも惨殺された女の遺体と、雑に切り開かれた腹の中から取り出され、床に転がされて泣いている、ひとりの赤ん坊の姿だった。

 今まで聞えなかったのが不思議なくらい、赤ん坊は元気よく泣いている。

 そして、その部屋の壁には、


「旦那様……魔に堕ちられたのですか? やはり奥様が、旦那さまをっ!!」


 女の血で書かれた、怨念まみれた犯行声明。


『山本五郎左衛門参上』


 その血文字が壁いっぱいに書きなぐられ、女の死をあざ笑い続けた。



…†…†…………†…†…



 数時間後、商家には再び警吏の面々が押し寄せ、現場検証に明け暮れていた。

 だが、その陣頭指揮を執るはずの与力は、なにやら不満げに押し黙りながら、商家の外にて煙管をふかせている。


「あの、与力。中に入らなくていいんですか?」

「良いもくそもあるか。どうせまた怪異の仕業だろうが」

「いや、確かに関係者は全員通夜の席にいたそうですし、外部から侵入者があった形跡もありません。人が行ったとは考えがたい犯行ではありますが、そうと決まったわけでは……」

「バカ野郎が。決まってんだよ」

「なぜ?」


 燐才の問いかけに、与力はただ一言だけ、自分の勘を支える根拠を告げた。


「アイツらはこうなることを知ってやがった。救いようがないだと。クソッ! だから終ったと、終わっちまったとあいつらは諦めたんだ」

「アイツらとは?」

「アイツらはあいつらに決まってんだろう、この事件にかかわって早々にここを立ち去りやがった、あの忌々しい連中だ!!」


 与力の言葉に、ようやく燐才はその正体を悟った。


「まさか、彼らは知っていたのですか。こうなることを?」

「そうとしか考えられねぇ。だからよぉ、燐才」


 そして与力は、後の歴史家たちに英断と評価されるある決断を下した。



…†…†…………†…†…



 そんな事件が起こったのが一週間前。

 警吏所もようやく事件の整理ができたのか、この怪異による連続殺人事件を世間一般に公開。同時に神祇板経由である決定を大々的に公表していた。それが、


「怪師補助警吏官――《怪師補助警吏事務官かいじほじょけいりじむかん》の発足ねぇ」


 動画配信されている記者会見にて、あの与力が説明を行っている新制度。俺と稲成はその動画を見つめながら、つい先ほど俺達に追いついた警吏――渦河燐才へと横目を向ける。


「目的は……」

「さ、先ほども言ったように怪異事件の一刻も早い解決と、並びに法整備を行うために、面倒な書類仕事や、各種手続きなどをこちらで負担しようという制度でして」

「あぁ、いい。そういった建前は。要するに、可及的速やかに怪異たちの事件を解決するために、気まぐれなせいで仕事にむらっけがある俺達怪師のケツをひっぱたくためにお役所から役人を派遣しようってことだろ?」


 これでも俺達はまじめな方なんだが……。と、俺――賢者の石は内心独りごちながら、真っ先に俺達に対して怪異を専攻していた燐才が送られた理由についても推察する。


「そしてお前さんが俺達の元にすぐ送られた理由はこうだ。あの女が殺された。それも怪異に。その怪異について聞いて来いと、大方あの与力に言われたんだろう」

「……よくお分かりで」

「これでも俺は気を使ってアイツに言わなかったんだぞ。あいつがあれが来ると知っていたら、与力としての務めとかなんとか言ってあの女を守ろうとしただろうからな。そうなりゃ巻き込まれて死ぬのはあいつだ。そうでなくとも、護衛対象を守れなかったと酷い挫折感を味わうことになる。どうなってもあいつが警吏を辞めなきゃならんことは確定的だった。これからの時代は、ああいった諦めが悪い奴が必要だっていうのにな」


 だから俺はあえて言わなかった。旦那を怪異を使って殺した後、あの女に降りかかるであろう災厄に対して、見てみぬふりを決め込んだ。

 わるいことをしたとは正直思っている。だが、あの魔王はあの時死んだ妖怪たちの執念の結晶だ。いくら俺とはいえ、対抗することは難しい。


「それで、現場には何が残っていた。自分の仕業だと示すために、あの女を殺した怪異は、何かしらの痕跡を現場に残しておいたはずだが?」

「現場に残っていたのはただ一つ。自分の名を書き記したと思われる血文字のみ。『山本五郎左衛門参上』と、ただそれだけ」

「……そうか、あれに名前がついたか」


 それにしても、山本五郎左衛門とは……因果だねぇ。と、俺は前世においても日本の魔王の名前としてソコソコ有名だったその名前に、内心で肩をすくめた。

 あの商家の主人の名前を聞いた時から、なんとなく嫌な予感はしていたんだと。


「いったい何者なんです、山本五郎左衛門というのは?」

「名前に関しちゃたいした問題じゃないの。おそらくあの場で最も人を恐怖させる名前だったから、あれはその名前を使っただけ。とはいえ正式発表された今は、それこそがあれの体を表すなとして定着するだろうから、山本五郎左衛門で通すでしょうけど」


 独りごちるおれをしり目に、代わりに口を開いたのは稲成だった。

 さすがにあの怪異事変の解決にあたった経験は生きているらしく、物覚えの悪い稲成もあれに関してはよく覚えているようだ。


「人を恐怖させる? いったいどうして?」

「その理由は怪異たちが生まれた原因がかかわってくるね。どうして怪異は生まれたのか? どうして妖怪たちは怪異になることを求めたのか?」

「それは……人に迎合することを嫌った妖怪たちが、再び人々を恐怖させる妖怪という地位を取り戻すために」


 そこまで言って、燐才はその理由を悟ったのだろう。驚いたように目を見開き、「そうか」と小さなつぶやきを漏らした。


「そう。怪異になった妖怪たちにとって、自分たちは人を怯えさせる存在でないといけなかったんだ。だが、同時に奴らは人間の貪欲さについても把握していた。いずれは怪異を利用し、自分が望む悪事を怪異に肩代わりさせようとする奴らが出てくると、奴らは予想できていたのさ。今回の夜詰め切りのようにな」

「だが、それではいけない。人に便利に使われるようになってしまっては、怪異の脅威は半減する。いや、それどころか……」

「怪異は人にとって便利な道具になりさがる。それはいけない。絶対に駄目だ。人々を恐怖させるためにすべてをなげうって現象にまで成り下がったというのに、それが便利に使われるなんて奴らにとっては耐え難い屈辱だったのさ。純正妖怪じゃない僕にとっては、よく理解できない話だけどね」


 だからこそ、怪異たちは自分たちを怪異化する前にある魔王を作り上げた。

 怪異たちを守る王。人々を恐怖させる自分たちという存在に、人が必ず恐怖し、怯えすくむことを保証する怪異の王。


「名づけは人が勝手につけろ。自分たちが最も恐怖する物の名前がこの魔王の名になるとあいつらは言っていたが……。怪異を利用し、怪異を道具として扱った愚か者を恐怖させ殺して回る惨殺の王。それがお前達が追いかけようとしている、魔王――山本五郎左衛門の本質だ」

「…………………………」


 俺の言葉に、燐才は思わずと言った様子でつばを飲み込んだ。

 そう。彼は気づいている。

 怪異の恐怖を保証するための魔王であるというのなら、その怪異をつまびらかにし、その被害を抑えようとしている俺達も、その山本五郎左衛門に狙われる対象になりうるのではないかと?


 当然俺と稲成もそれは理解していた。というか、怪異退治に乗り出した時点で、俺達はあれと相対する覚悟を決めている。

 怪異事変の際、俺達を敗走させた最大の原因である怪異たちの魔王。だがいつまでも怖いからと、勝てないからと逃げ回ってばかりでは、怪異の被害は一向に減らない。

 他の怪異たちはともかく、あれはいずれ打倒しなくてはならない存在だと、そんな覚悟を俺達は決めていたのだ。

 だが、


「燐才。お前は違う。ただ役所の命令で、俺達につき従うように言われただけだ」

「そ、それは……」

「怖いなら逃げてもいい。怖ろしいなら背を向けてもいい。怪異と戦うということはおそらくそういった話になる。人の根源的感情である、恐怖と戦う旅になる。それでもお前は、俺達と共に来られるか?」

「…………………」


 俺の問いかけに、燐才は答えなかった。

 ただ黙って目を伏せ、拳を握りしめながらその場に座っていただけだった。



…†…†…………†…†…



 翌朝、俺と稲成はいまだに寝ぼけ眼の時廻を引きずり、今の宿を後にしようとした。

 幸いなことに魔王改め山本五郎左衛門の襲撃はなかった。おそらくは、まだ俺達はあの魔王の逆鱗に触れていないのだろう。

 だが、その逆鱗が一体どこにあるのか、知る者は誰もいない。唯一分かっていることと言えば、怪異を利用すれば必ずあれが出現し、利用したものを散々恐怖させたうえで殺すということくらいだ。


「直接対決は避けた方がいいのよね?」

「あれの元になったは恐怖の悪鬼――板子童子だからな。靖明あたりでも甦らせん限りはまっとうな対決は避けた方がいい。幾らおまえでも恐怖で心臓を握りつぶされるのは確実だ。だからこそ、生れ落ちる怪異への対抗策をちまちま調べながら、怪異たちの被害を減らしていくしかない」

「とはいえ、その過程であれが出てくるならどうするのさ?」


 時廻の問いかけに、俺はため息とともに最適解へと質問する。


「山本五郎左衛門。討伐方法は何がある?」

『存在しません。現象となった怪異はこの世界の摂理へと変わっています。それを討伐するということは、発火現象をこの世から消失させるという行為に等しく、全知全能の神であったとしてもおおよそ不可能な類の行いであるかと』

「代替推奨案は?」

『逃走を。現在取りうる唯一の山本への対抗策です。奴の結界は魔的なものであるため、稲成の霊的攻撃は非常に有効であると推察します』

「だそうだ」

「世知辛いね、百年生きた不死者でも勝てない存在なんてものがいるなんて」

「だな……」


 まったく、この世界は脅威に満ちているよ。

 と、俺がため息をついたときだった。


「ま、待ってください!」

「っ!」


 驚いたことに声が聞こえた。

 俺達が振り返ると、そこには無数の書類用和紙と、墨と筆を持った燐才がいて。


「ぼくも、調査に連れて行ってください! 与力に任されたこの仕事、やり遂げて見せます!」

「―――――――――――――」


 俺達は互いに目を見合わせて、各々の反応を見た。


 稲成は仕方ないわねと言いたげに肩をすくめたが、どこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 年を経るにつれ若干おばさん臭さ――もとい、お姉さん的世話焼き精神が成長しつつある稲成にとって、若い人間の頑張りというのは好ましいものなのだろう。


 時廻童は純粋な笑顔だ。いつもと変わらないニコニコとした笑みだが、観測能力に関しては右に出る者がいない俺には、こいつの口元がいつもより三ミリほど上に上がっているのがわかる。どうやら面白いおもちゃを見つけたとでも思っているらしい。性質の悪さは怪異よりも悪質なコイツに目をつけられ、燐才はこれから苦労することだろう。


 最適解はいつも通り。俺に向かって精神世界でガンを飛ばしてくる。こいつにとっては人間の仲間が増えることなど些事でしかなく、せいぜい演算がいつもと違うものになる程度のものでしかないようだ。


 そして、俺はというと、


「行くぞ、これでも俺達は多忙なんだ」

「っ! は、はい!!」


 大変な旅になるぞと、野暮な事は言わなかった。

 覚悟の決まった男のやる気を無遠慮に踏み潰せる程、まだ男の精神を失ったわけではなかったから。

 ただ純粋に、新たな仲間の参入を認め、俺達は新しい一歩を踏み出す。


 この混迷極める榁待時代において、新たな人類への脅威となった怪異。その被害にあう人間を、一人でも多く減らすために……歩みを止めている暇はないのだから。

怪異名称:夜詰め切り

《怪異等級》

 上級


《怪異解説》

 夜に爪を切っていると表れる殺人怪異。

 その姿は非常に不気味で、 全身を覆い隠すように巻かれた包帯の上から、真っ黒な衣服をまとっており、右手には錆びついた日本刀。左手には、どす黒く染まった木箱を抱えている。


《発生条件》

 夜詰め切りが表れた証として、町の入り口か町の中にある町の名を示す看板などがずたずたに破壊される。

 看板が破壊された町で夜に爪を切っていると、夜詰め切りがどこからともなく出現。

 対象の頭部を左手の箱に押し込め行動を封じ、右手の切れ味の悪い刀で、ゆっくりと対象の頭を切り取る。

 その間いかなる悲鳴、いかなる懇願をしようと周囲には聞こえず、対象が夜詰め切りに殺されたことが周囲にわかるのは遅くとも明日の朝になってからになる。


《討伐・予防方法》

 看板が破壊されていた際は速やかに行政機関に連絡。看板が修復されるまでは夜に爪を切らないことを徹底させる。夜詰め切りは看板が破壊されている間しか活動をしない模様。

 万一爪を切らねばならない事態になった場合は、首に油を塗っておくこと。

 これで夜詰め切りの刀は切断能力を失い、ほんの少し怖い目に合うだけで済む。

 なお、太って首に脂肪がたまっている人間は特に対策する必要はない。


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