怪異其之五・飛縁魔 四
お縁さんの言葉に私……尼野弓剣は絶句した。
そうか……この人はもう。
「旦那様の命を、私が……私が吸い取ってしまう! 私はそういう者だった。そうだ。そうだった。私はそうだった。そういうものになってしまって……契約を……」
「お縁さん、もういいっ! もういいからっ!」
でも今はまずい。今この場でそれを思い出されてしまっては、お縁さんが何を起こすか完全に分からない。
何より……この態度。
間違いなく、お縁さんは……アレの肝いりだ。アイツが直接手を下して作り出した怪異だっ!
未確認だけど、最近怪異になった山姥と同じ、アレが絡んでいる怪異。
だとすると、どこでアレが見張っているかわからない現状で、話をするのは!
「どうして。どうしてなの? どうして。私は、私はただ、お父さんおお母さんが言っていた……綺麗な外の景色を。ただそれだけだったのに。どうしてっ!」
「お縁さんっ!」
もはや半狂乱になりながら、髪を振り乱し、一歩、二歩とがけっぷちに向かって後退していくお縁さん。
それを必死に止めようとするけど、私はなぜか近づくことに躊躇する。
怪異とは現象だ。ある行動をとると発生し、問答無用でその被害を人間の押し付ける現象。
それに対して私の不死性がどこまで働くかがわからなかった。
そう。私はこの時、恐怖してしまったんだ。
あの時……山本五郎左衛門に敗北したあの記憶が、私の足をすくませた。
そして、そんな情けない私の横を、
「お縁ッ!」
「っ⁉ 伝介さんっ⁉」
もう動けないほど弱り切っていたはずの男が駆け抜けた。
「っ! 旦那さまっ!」
驚き目を見開き、必死に伝介をよけようとするお縁だったが、立っている場所はもう崖っぷち。よければ伝介が落ちてしまう。
それを悟り、固まったお縁を、
「もういい! もういいんだっ!」
伝介は力強く抱きしめた。
…†…†…………†…†…
「だん……な様?」
暖かい。心地いい。
今まで何度となく味わったその感触に、私は目を見開く。
そして気づいた。旦那様の体から、幾筋もの光が抜け出し、私に注がれているのを。
「あ、あぁ……あぁっ!」
あまりにも悍ましい、旦那様を殺す光を。
「旦那様! ダメ! 放して! このままじゃ私、旦那様をっ!」
「もういいんだっ! 思い出さなくていい! お前は俺の妻であればいいっ! だからお願いだ!俺の前から、俺の前から消えないでくれっ!」
「でも、このままじゃ旦那様がっ!」
「お前のために死ねるならっ! 本望だっ!」
「っ!」
息をのむ。幸せがあふれ出る。
うれしい……嬉しい。嬉しい!
こんなことを言ってもらえるなんて、天にも昇る気持ちだ。
そして、思う。
おいしい……美味しい。美味しい! もっとだ。もっと食べたい!
「あぁ、あぁああああああっ!」
泣き崩れた。泣くしかなかった。
幸せなのに、幸せなのにっ! 幸せなのにっ! こんな……こんなことを思ってしまうなんて。
「旦那様……。旦那さまっ」
「お縁! お縁ッ! お願いだっ! お願いだから!」
だからせめて! せめてっ!
「思い出さないでくれ! お前が誰かなんて、俺には関係」
「私を……殺してください」
「っ!」
声を振り絞り、自身の本能が拒絶したその言葉を紡いだ。
…†…†…………†…†…
「いやだ。嫌だっ! 嫌だっ! 嫌だぁああああっ!」
私――尼野弓剣は、泣きじゃくり妻に縋り付く男を見つめることしかできなかった。
それでも妻――お縁さんは、泣きながら笑い、そっと男――伝介の頬を手で包む。
「いいえ。だめです。旦那様。私を未亡人にするつもりですか? ダメです。旦那様は、私よりたくさん生きて、たくさん幸せにならないといけないんです」
「そんなこと知らない! お前がいないと幸せになんて」
「いいえ旦那様。あなたは人です。人である以上、幸せはたくさんあります。実際旦那様は私に会う前には別の幸せを感じていたはず。だからきっと、大丈夫」
「違う! 違うお縁! 俺はお前を知らなかったから。お前がそばにいてくれるという幸せを知らなかったから。だから」
涙があふれる。
救いはないのかとない頭をひねってみる。
でも、結局救える方法なんて見つからなくて。
「旦那様……私もう死んでいるんですよ? あの村の、さびれた家で。ずっと前に……両親と一緒に死んだんです。きっと誰かが助けてくれるはずだと……最後までそう願って。そして、ずっとずっと、ずっと待っていて」
「お縁ッ!」
「そして、旦那様が来てくれた。私が知らない綺麗な景色を。たくさん見せてくれた。だからもういいんです。私はもう、旦那様にたくさん救ってもらいました。たくさん、幸せをもらいました。だからっ! だからっ!」
お縁さんが、別れの言葉を継げるのを止めることができなかった。
「私に、旦那様を殺させて……私を、不幸にしないで」
「っ!」
伝介はその言葉を聞き、息をのむほかなかった。
縋り付いた体を離し、肩をつかんでお縁さんの顔を見る。
胸が張り裂けそうな、つらく苦しい日々に耐え忍ぶような、そんな苦悶に満ちた顔を。
「お前は、それで幸せになれるのか?」
「はい。はい……旦那さまっ。だからどうか、この名を私にお告げください」
お縁さんはそういうと、伝介の耳元にそっと耳打ちをする。
そしてそれを聞いた伝介は、泣きじゃくりながらその名を告げた。
「お縁……いいや。飛縁魔。今まで……幸せをたくさん、ありがとう」
「はい。旦那様。お縁も……あなたとの旅の日々は幸せでした」
その名を聞いて、ようやくなにかから解放されたのだろう。
お縁さんは涙を流しながらも、必死に笑みを形作り……光となって消えていった。
…†…†…………†…†…
飛縁魔……もとは真教より伝来した言葉で、女犯の愚かしさを説く言葉であるという。
転じて央国や日ノ本では、男性に取り入りその家や男性をダメにする女を差す。
その名を持つ怪異が生まれたのは、何とも皮肉なことといえた。
いいや。皮肉を利かせたというほうが正しいのだろうか?
「……聞いているんでしょう。《魔天》」
崖っぷちで泣きじゃくり、もういない妻を思い、何もない場所をかき抱く男を見つめながら、弓剣は低く、怒りに満ちた声でつぶやいた。
「これで満足? すべてアンタの計画通り?」
『…………』
「答えなさいよ」
『イーヒヒヒッ。凄んだところで俺は倒せねぇよ?』
答えたのは、弓剣が胸元にしまっていた神祇版だった。
弓剣が憤怒の形相で取り出したそれには、勝手に画面が展開されていた。
表示されるものは、円形の中にとらえられた鳥居が横一線に貫かれる模様。
『とはいえ、ご感想をお求めとあらば、答えてやるのもやぶさかじゃねぇ。さてと、今回の件、思い通りかといえばその通りっ! まさに計画通りよっ! 初の恒常発動型怪異だったが、なかなかいい戦果を挙げてくれたんじゃねぇの?』
「貴様っ!」
怒りに燃える弓剣が、力いっぱい神祇版を握りしめる中、中にいる存在はゲラゲラ笑い話をつづけた。
『やっぱり男は馬鹿だねぇ。自分の言うことを何でも聞いてくれる美人な女がそばにいりゃ、それがたとえ危険な存在であったとしてもそばに置きたがる。挙句惚れて死んでもいいなんて抜かす始末だ。度し難い、度し難いねぇ。化け物に殺されるのは耐えがたく、美女に殺されるのはいいと来たもんだ。唯一の失策といえばそうだなあ……飛縁魔の素体が、少々高潔すぎたことくらいか? 本当なら死んでもいいと言われた段階で、あの男の精気をすべて吸い上げる算段だったんだ。それ相応の食欲も与えてやっていたし』
なんであそこまでかたくなに抵抗しやがったかなぁ?
と、神祇版の中のモノは、心底苛立たしげに呟き、唯一の誤算に鼻を鳴らす。
『まぁいいや。どうせあれは恒常発動型。一度祓われたところで、また別のところに出現し、次の獲物を探すだけだ』
「私は……お前を絶対に許さない。お縁さんを、あんなふうにしたお前を絶対にっ!」
弓剣のその言葉を聞き、中のモノは息をのむ……ふりをした。
『えぇ~。こわ~い。弓剣ちゃんに殺されるぅ! さて、そんな弓剣ちゃんに質問で~す。俺を殺す方法分かっているのかにゃ? かにゃかにゃ?』
「っ!」
『舐め腐ってんじゃねぇぞ人間風情が。怪異が! 恐怖が! そう簡単に退治できるかよっ! ましてや俺は山本と同格。《怪異を生み出す者》。《魔天》の称号を与えられしモノだぞ。頭の足りねぇ猪武者ごときにやられるほど、俺の称号は安くねえんだよ』
何一つとして、弓剣は言い返せなかった。
そうだ。これが、今弓剣たちが追いかけている存在。
怪異事変の最後に戦った三本五郎左衛門と同じ格を持つ、怪異たちの王の一人。
『イヒヒヒヒヒッ! ついでだ! ようやく決まった俺の名を告げよう。山本と同じく、名前を得た段階で、俺もようやく本格始動だ。覚えておくがいい……これから人間を恐怖のどん底に叩き落す名を』
《怪異生み出す者》《最新の恐怖をまき散らす者》――《魔天》
『我が名は神野悪五郎。魔性の天を作る者。怪異の王である』
その言葉を最後に、弓剣の神祇版の画面が消える。
あとに残ったのは、伝介の泣き声と、歯を食いしばりながら拳を強く握りしめる弓剣の姿だけだった。