怪異其之五・■縁魔 三
弓剣がまるで疾風のように消えた後、しばらく呆然としていた伝介は震える足に鞭を入れ、必死の形相で立ち上がった。
「お縁ッ! お縁ッ!」
すべては、愛する妻のためにっ!
…†…†…………†…†…
「嘘よっ! 嘘よっ! 嘘よっ! 私が……私が旦那様を殺しかけているなんてっ! そんなっ! そんなっ!」
森の中を信じられない速さで駆け抜けながら、お縁は必死に言い聞かせる。
いいや違う。彼女だって内心わかっていた。
自分が人とは違うことを。
自分が人間ではない何かだということを。
だって、だって!
「違うっ! 違うっ!」
普通の村娘が、こんな速さで森の中を駆けられるはずがない。弓剣様が追い付けないような速さで、走れるはずがない!
その事実を必死に頭から追い出しながら、お縁は幸せな自らの記憶を頭の中で反芻した。
…†…†…………†…†…
穏やかな日。初めて村を出て崖から生まれ故郷の村を見下ろした。
夕日に照らされたその村は、かつて受けた洪水の被害から立ち直り、今は川のほとりで金色の稲穂が頭をたれている。
「どうした、お縁。行くぞ」
「……はい。旦那様」
もう二度と戻れない、両親が愛した故郷の景色。
…†…†…………†…†…
初めて温泉というものを訪れた時に、旦那様と一緒にお風呂に入った。
夫婦用の混浴風呂だという。
顔を真っ赤にした旦那様と一緒に、ゆっくりと湯船につかりながら、おかみさんが用意してくれたお酒を片手に、ともに明るい月を眺めた。
「旦那様。いい夜ですね」
「お、おう!」
「もう。ちゃんと見ておられますか?」
「見てって⁉ いや、お前そんな大胆な!」
「……月の話ですよ?」
「……わかってますけどっ!」
この時の旦那様は本当にからかうと面白くて、
「旦那様、月がきれいですね?」
「……あぁ。そうだな」
とても、幸せな気持ちになった。
…†…†…………†…†…
冬は豪雪で、身動きが取れなかった。
私たち二人は旦那様の行きつけだという宿に泊まり、長い……ゆっくりとした時間を過ごした。
寒さで体調を崩されたのだろう。
どことなく顔色が悪い旦那様だったけど、私の体をかいがいしく案じてくださった。
「お縁、寒くないか」
「はい。旦那様」
その言葉をいただけただけで、私の心は温かくなった。
…†…†…………†…†…
「旦那さまっ……旦那さまっ! 旦那さまっ!」
突然倒れた旦那様を担ぎ、私は必死に山を登っていた。
宿場までもう少し。そう言ったときの出来事だった。
最近特に体調が悪かった旦那様の体は重く、私の歩みは遅々として進まない。
まるで旦那様を安静にさせたくないような……そんな足の重さだったように今は思う。
でも……それでも!
「お縁」
「旦那様! ダメです! 今は安静に」
「苦労を掛けて……すまない」
「っ!」
その言葉をもらえただけで、両足に力が戻った気がした。
この人を絶対助けたいと……そう思
…†…†…………†…†…
『本当に?』
…†…†…………†…†…
「いやあああああああああああああっ⁉」
どこかで聞いた声だった。もう忘れていたはずの声だった。
なんだった? あの声は一体誰の声だ?
私は……あたしは……お縁は……ワタシハ?
「いや、いや。違う! 違う! 私は……私は旦那様の」
「お縁さんっ!」
「っ!」
気が付くと、私は森を抜け崖っぷちに立っていた。
傍らでは流れていた川が轟々と音を立てる滝に代わっていて、すべてを飲み込もうとしているかのようだ。
「お縁さん! ごめんなさい! あんな話をして。冗談! 冗談よ! 軽い作り話で伝介さんと盛り上がっていただけだからっ! だからねっ? いったん伝介さんのもとに」
「ダメです! ダメなんです、弓剣様っ!」
あぁ…・・そうか。
「私は……私は、私が近くにいては、旦那様を」
優しい夢は、もう終わりなんですね。
「旦那様を、殺してしまうっ!」