怪異其之四・神速夜行の山姥 一
それは、とある山寺。
一人の住職と、一人の小坊主が住んでいた寺に、マレビトが訪れていた。
「わかりますか! あんたたちに俺の気持ちが! 意気揚々と稲荷さんについていき、怪異の謎を解明しようとした矢先『猿神はちょっとシャレにならなそうだから、永休のところに行って?』といわれた俺の気持ちが!」
一人は若者――渦河燐才。
幕府から派遣された、怪師の補助と監視の任を負う、《怪師補助警吏事務官》。
「オジサンにそんなこと言われてもねぇ」
傍らに座るのは、キセルを吹かす生臭坊主――永休僧正。
人魚の肉を食らい不老不死となった、永遠に悟りを得ること叶わぬ坊主。
「それに、稲荷ちゃんの判断も間違っていないと思うわ。あなただって何回もあの子が切り刻まれる姿なんて見たくないでしょう?」
もう一人は、西洋から流れてきた、横に長い耳を持つ美女――ルルエル・ラクローン。
神々の寵愛を受け、老いにも、病にも、外傷にも犯されない鉄の肉体を持った、不老不死のエルフ。
怪師として幕府に所属し、怪異被害の調査を請け負っている彼らは、当然のごとく何の目的もなくこの土地を訪れたわけではない。
いや、永休の場合はあまり怪異退治に乗り気ではないため、そういったケースもないではないが、今回ばかりは普通に任務だ。
彼らはこの寺の裏手にある山に住む、ある怪異事件の解決に乗り出すためにこの場へとやってきていた。
「そりゃそうですけど……それならこっちだって大概危なさそうじゃないですか! なにせ、人食いの山姥が出るって話ですよ?」
「そう。そうなんだよねぇ」
燐才の言葉に、永休は首肯を示しながら窓から見える山へと視線を巡らせた。
日ノ本の文明は発達し、各所に張り巡らされたレイライン――『霊脈』から莫大な霊力をエネルギーとして引き出すことができるこの国。
そのエネルギーを使い、都市部にはいくつもの霊力灯が輝き日ノ本の夜を駆逐している。
だが、こういった田舎ではいまだに霊力灯は普及しておらず民家の明かり以外はいまだに深い闇が支配していた。
おまけに神々や妖怪の支配地たる山ともなれば、人間が変質させた霊力を走らせること自体が不敬に当たってしまう。そんなことをしでかせば、あっという間に祟られ死んでしまうという迷信がいまだに日ノ本では根強く信じられていた。
(……神々はさすがにその程度で怒ったりはしないんだけどね。問題なのは妖怪連中の方さ。あいつらは間違いなくキレる。なにせ明かりっていうのは人間の繁栄圏を保障するもの。そんなものを縄張りに常設された日には、侵略の前段階だと思って反撃に転じてくるだろう)
永休の思考と同じものであるかどうかはさておき、とにかく山にはいまだに霊力灯の明かりはなかった。
そのため、永休が眺める山は黒々と天に向かってそびえたち、音をも吸い込む深い闇が山の静寂を守っている。
普通の人間が見れば、さぞ恐ろしい世界に見えるだろう。
だが、
「でもねぇ、だからこそ不思議なんだよねぇ」
「は? 何がです?」
「あの山の山姥が――妖怪から怪異になったことがさ」
永休のつぶやきに、燐才は首を傾げた。
いまだに怪異とのかかわりが浅い燐才にとって、怪異とは妖怪が悪さをするためにした悪あがきという印象でしかなく、どのような妖怪が怪異になり果てるのかを、いまだに理解していなかったのだ。
だが、彼がその疑問を永休にぶつけ、認識の差異を是正する前に。
「た、大変です、永休どのぉっ!」
寺の住職が半泣きになりながら、永休たちが借りていた客室に転がり込んできた!
「ん? どうしたのです住職殿? そんなに慌てて。寺の主たるもの、泰然自若としておいたほうがよろしいですぞ?」
永休の言葉に、「どの口が」と言いたげな顔をするルルエル。
だが、二人のそんないつもの漫談に付き合っている余裕すらないのか、住職は永休につかみかかり、その体をがくがくと揺らした!
「それどころではありません! うちの小坊主が! うちの小坊主がぁっ!」
「あばばばばばば⁉」
「じゅじゅじゅ、住職! 落ち着いてください! 師匠がいくら不老不死だからって、そんなに揺らされては吐いてしまいます! この人さっきまで、こっそり持ち込んだお酒で酒盛りしていたんですからっ⁉」
「それに関しては後でじっくりお話を伺いたいですが、それどころではないのですっ! うちの子坊主が……あなたたちに倒される前に山姥を退治してやると、あの山に登ってしまったのですぅっ⁉」
住職の言葉が響き渡った瞬間、一瞬にして場の空気が氷結する。そして、
「「な、なんだってぇええええええええええ⁉」」
「おぼろろろろろ……」
想定外すぎる事態に、ルルエルと燐才が悲鳴を上げる中、永休の嘔吐が容赦なく客室に酸っぱいにおいをまき散らす。
こうして、渦河燐才初の怪異退治事件――神速夜行の山姥事件が幕を開けることになるのだった。
…†…†…………†…†…
気に食わない。
愚僧が初めに永久僧正を見た時に抱いた感想がそれでした。
あいさつに来た住職殿を前にしなお、キセルをくわえたままの失礼すぎる態度に、懐から漂う酒の匂い。
不老不死となり、悟りを抱けなくなった罪深き僧侶とはうかがっていましたが、確かにあれではその罰もうなづけるというもの。
だが、どういうわけか住職殿は永休殿に敬意を払われておられた。
愚僧からすればありえん話だ。
あんなものはただ長生きしただけの生臭坊主に過ぎない。
だからこそ、あの永休殿が「この山にいる山姥について調べに来た」と言ったときはチャンスだと思った。
実をいうとあの山の山姥は、古くからのこの寺の顔なじみだという。
歴代住職とも懇意にしており、何やらたまに悪戯を仕掛けることがあったそうだが、それだってかわいいものであったと聞いている。
そんな山姥殿のことだ。怪異になったのも、ちょっとした気の迷いからに違いない。
ここで愚僧が山姥殿に御真の教えを説き、見事改心させることがかなえば、あの永久僧正に一泡吹かせることがかなうだろう。
そう。山姥殿に会うまでは、愚僧は本当にそんな愚かなことを考えていたのだ。
「おや、こんな時間に迷い込むなんて……珍しい坊主もいたものだ」
「ひぃっ⁉」
そして、その根拠のない自信は、山頂付近の山小屋に到達したとき、瞬く間に消え去った。
小屋の中から現れたのは、身の丈三明取近い巨躯を持つ老婆だった。
真っ白になった髪はまるで針のように鋭くとがり、耳まで避けた大きな口からは、オオカミなど目ではない鋭い乱杭歯がのぞく。
目はらんらんと輝く黄金に染まり、手足には一体何の血かもわからない黒ずんだ何かが付着していた。
「あ、あば、あばばばばばばば⁉」
――やばい。思った以上に化け物すぎた。どうしよう。殺されるっ⁉
そんな風に愚僧が怯える中、山姥殿はその耳まで避けた口を笑みの形へと変え、愚僧の手を取る。
「とはいえ、夜の山道は危ない。今晩はうちに泊まっていくといい」
「い、いえ。けけけけ、結構です。い、急ぐ旅ですので、愚僧はこれにて失礼をば」
とにかく逃げよう。逃げて永休殿にお任せしよう。赤っ恥をさらすことになるが構うものか! 何よりも命が大――
「泊っていけ」
「……ひゃい」
愚僧の後ろ向きの決意は、わずか三十秒ほどで覆ることとなった。
愚僧の情けない返事を聞き、山姥殿の手が愚僧の腕から離れる。
そしてあらわになった愚僧の腕は真っ赤に染まっており、山姥殿の手形を色濃く残していた。
それほどまでの力で、腕を握りしめられたのだ。あとちょっと力を込められていれば、間違いなく腕が折れていた。
断ることなど、できるはずがなかった。
…†…†…………†…†…
そうして、愚僧が山姥殿の家に泊まることになった時だった。
山姥殿に案内された客室には、ボロボロとはいえ割としっかりとした布団があり、寝る分には困らない環境が整っていた。
だが、
「ひひひひひ! ひーっひひひひひっ!」
眠れない。眠らせてくれない……。
山姥殿の笑い声と、明らかに包丁を研いでいるとしか思えない音が、愚僧を眠らせてくれない!
――か、確認。確認しないと。何か他のことをやっているだけかもしれんし。むやみに人を疑うのはよくない。
そんな現実逃避じみた良識を内心で騙りつつ、愚僧はこっそりと居間に続くふすまを開き、居間に居座る山姥殿の様子をうかがった。
「ひひひひひっ! 今晩の獲物は久々の坊主だ。肝を食えば数十年。脳をすすれば数百年。心の臓なら数万年寿命が延びるんだよ……。ひひひひひ、ひーひひひひっ!」
――研いでる~。めっちゃ包丁研いでる~。ものすごくキレ味がよさそうな出刃包丁研いでる~。あと、隣に用意してある変わった形のノコギリは何に使うんですかね? え、野生動物の解体で見たことがある? 骨を削り切るためのノコギリだって? HAHAHAHAAHA! ひえっ⁉
現実逃避ができたのはそこまででした。
バラされる。間違いなく愚僧をバラす用をしている!
どどどどど、どうしよう? どうすればいい? どうすればこの状況から逃げ出せるっ⁉
そんな風に必死に考えていた愚僧は、寺を抜け出す前に持ち出したあるものを思い出した。
「そ、そうだ! こ、これさえあれば!」
懐に収まっていたそれは、万が一に備え勝手に持ち出した、寺に代々伝わる霊験あらたかな三枚の札だった。
…†…†…………†…†…
「札が持ち出されていますな」
「なら大丈夫そうですな」
「何をおっしゃる永休殿!」
おじさん――永休宗純は、その光景を見てひとまず安どの息を漏らした。
おじさんが今いる場所は、泊っている寺のご神体が納められた本堂。
そこには、本尊の邪魔にならないよう端に作られた小さな神棚がある。
そこに祭られていた三枚の札が無くなっているかいないかを、オジサンたちは確認しに来たのだ。
「永休殿だってご存じのはず! あの三枚の札は、修行に熱心でない子坊主を懲らしめるため、山姥殿と口裏を合わせて作った偽物にございます! 霊験など、かけらもございません!」
「あぁ、まぁそうなんですけどね」
ここで一つ暴露話をしてしまうと、実はこの寺と山の山姥、言うほど仲は悪くなかった。
というよりかは、結構親密な付き合いをしていたといっていい。
さすがに堂々と寺の山門をくぐることはなかったが、山姥は定期的に山を下り、寺の住職からいろんな嗜好品をもらい、お礼として山の害獣の間引きを行っていたのだ。
おかげでこの山の周辺集落の畑では獣害というものが出たことがなく、村の人々は山姥に感謝し住職のもとに山姥への礼の品をわたし、住職がその礼の品を山姥にわたし、また獣害の対策を願うという好循環が発生した――妖怪との共生を成し遂げた地域だったのだ。
だが、さすがに山姥は元妖怪。永遠にいい人扱いされるのは気が引けたらしく、山姥は時折悪戯を行った。
峠を通りかかった旅人が泣くまで脅し、乗っている馬や牛が疲れ果てるまで追い回したり――。
修行に不真面目な寺の小坊主をさらい、食っちまうぞと脅したり――。
そして、そんなときに使われるのがこの神棚の上に置かれていた三枚の札だった。
住職は山を通りかかった旅人や小坊主に、危機的状況に陥った際、この札を使うようにと札を渡す。
そして山姥に追い回され、精魂尽き果てた旅人や小坊主は、ようやく住職の言葉を思い出し、様々な願い叶えるよう札に願うのだ。
そして、その願いにこたえるように札は様々な奇跡を起こし、ぎりぎりのところで山姥を退けるのだ。
当然のごとく、パチモンでしかない神棚の札に大した力などない。せいぜいが、妖怪にちょっとだけ「近づきたくないな」と思わせる程度のものだ。
札が叶える願いはすべて山姥の自作自演。彼女が長生きの果てに体得した幻術により、札の使用者の願いがかなったように、使用者に幻を見せているのだ。
だが、
「彼女が怪異になった以上、あの札は住職殿が思っている以上の効果を発揮します」
「……そんなバカな」
「なら一度見てみますか?」
オジサンがそういうと同時に、静寂に包まれていた夜の山を地獄の業火が席巻した!
「なぁっ⁉」
驚き目を見開く住職をしり目に、オジサンは肩をすくめながら、ルルエルと燐才君に指示を出す。
「ルルエル。白湯の用意を。子坊主君がきっと疲れ果てて帰ってくるだろうから保護してくれ」
「はい!」
「燐才君。住職殿を安全なところに。怪異になった以上、山姥殿はかつての山姥殿じゃない。住職に会わせるのは危険だね」
「わ、わかりましたっ!」
そうして、オジサンたちはこちらでできる迎撃の用意を整えながら、今度は鉄砲水を生み出し、燃えあがった山火事を沈下する札の奇跡を眺めた。
「さてと、無事に逃げ切りなよ、子坊主君」
まず間違いなく、人生最悪の逃走劇を演じているであろう、子坊主君の無事を祈りながら。
べ、別に渦河さんのこと、忘れていたわけじゃないんだからねっ!
今更読み直して、「あ、そういえばいたな。やべぇ!」と思ったわけじゃないんだからっ!(白目