南シナ海海戦
昭和13年(1938年)
重装備をもって優勢なアメリカ陸軍は次々と大陸横断鉄道沿いに進撃。サクラメントおよびサンフランシスコを陥落させた。
緒戦で完璧な勝利を得たアメリカ政府は「明白なる天命」を掲げ、太平洋岸の出口をアメリカ領とするのは神より与えられた責務であるとしてカリフォルニア州の独立とアメリカ合衆国への参加(事実上の割譲)による講和を要求した。
「そもそも自国の兵のいない領域を要求するのは思い上がりも甚だしい」
「ツァーリズムの専制から解放し、世界で最も豊かなアメリカの一部になれるチャンスなのだぞ!」
「黙れ共和主義者どもめ!誇りもない乞食の群れが!」
講和会議は全く歩み寄りを見せずに解散し、アメリカ軍はグレートバレーの農村地帯の完全制圧と残る大都市であるロサンゼルスの攻略に取り掛かった。
グレートバレーの農村地帯に攻め込んだアメリカ軍を襲ったのはカリフォルニア・コサック軍のライフル民兵たちであった。彼らは人種的にはロシアとスペインとインディアンと大和、漢族の混血であったが、100年以上の開拓の歴史は彼らを真のカリフォルニア・コサックに育て上げていた。
正面からの戦いではせいぜいライフルしか持ち合わせないコサック兵はまったく歯が立たず、当初は連戦連敗でアメリカ軍の進撃を許したものの、鉄道から離れて進撃したアメリカ軍に対して、コサック騎兵は地元の協力を得てアメリカ軍支配地域の奥にまで浸透、鉄道や自動車道を破壊して補給を断つことに成功した。
アメリカ政府は鉄道敷設の際に買収したコサックの長老を使って、親米宣伝に努めたが、補給切れとゲリラ攻撃に悩まされた米軍兵が農村で略奪や暴行を始めたことで説得力を失ってしまった。
そうこうしているうちに、大東亜連合の援軍の第一陣約10万がカリフォルニア北部のポートランドおよび南部のロサンジェルスに入港。正規軍が山脈や砂漠沿いに防御陣地を固めてしまい、アメリカ軍による、早期のカリフォルニア全土の制圧は不可能になってしまった。
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昭和14年(1939年) 英領カナダ自治国
英領カナダ自治国は激しい論争に包まれていた。アメリカの一部のタカ派政治家はカリフォルニアだけでなく、カナダをもアメリカの一部とすべきだと発言しているのである。もちろんアメリカ政府の公式の発言ではないとされていたが、アメリカからはカナダに立場を明確化するように要請されていた。
英本国からは深入りを避けるように指示を受けていたが、カナダとしては自国の安全を確保するため、或る程度アメリカに同調する必要があると思われていた。そのため、アメリカと共同して参戦し露領アラスカを攻撃するか、友好の維持にとどめるかで議論が続いているのである。
そのころ、カリフォルニア戦線は双方の投入兵力が拡大し、100万人を超える兵士がにらみ合いを続けていた。
いまだ圧倒的な優位にあるアメリカ軍はコサック兵の対処で忙しく、大東亜連合側も攻撃にでるだけの余力がなかったためである。
また、スペイン内戦も終了し、フランス義勇兵が国内に引き上げていった。次の目標のために。
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同年夏 ベルギー国境
突如、フランスはドイツに宣戦を布告。ドイツ軍はこの日を予期して建造してあったジークフリード線に兵力を集中し、予備兵の動員と国連加盟諸国の援軍を待つ戦略を取った。
しかし、ド・ゴール参謀総長の指導するフランス軍は、ド・ゴールの育てた虎の子の機甲部隊を中心にベルギー国境を突破、そこからドイツ領になだれ込んだ。
フランスは中立国ベルギーの侵犯に慌てたイギリスにも宣戦布告されたが、イギリスの陸軍の常備師団はエチオピアで遊んでおり、イギリスは傍観するしかなかったのである。
虚を突かれたドイツ軍は敗走を重ねた。そしてケルン、デュッセルドルフといった西部工業地帯にフランス軍が乱入した時点で実質的な継戦能力を喪失、和平交渉が始まることになる。
フランス側も不平等だった欧州大戦の講和条約の再交渉が目的として、旧植民地の返還を主軸とした比較的温和な条件を提示しており、欧州での戦乱は早期に収まるかと思われた。
しかし、和平交渉が始まると、独皇帝はひたすら陸軍に責任を押し付け、フランスとの友好を常に考えていたなど責任回避発言を連発。議会と新聞、組合から猛反発を食らって退位に追い込まれた。そして挙国一致内閣が選出されて講和条約を締結したものの、ドイツ国内で圧倒的な批判にさらされてしまうことになった。
ドイツとの講和を見たイギリスはフランスにベルギー解放とベルギーへの賠償金支払いを条件に講和を持ち掛けたが、フランスが賠償金を拒否したため戦争状態のまま膠着していった。
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昭和15年(1940年) 2月
講和が成立し、フランス軍が撤退したドイツで共産主義革命が発生。ソヴィエト=ロシアとソヴィエト=ドイツが同盟を結成し、ソヴィエト同盟が結成された。欧州の二大国家の同盟が成立したことで、ベラルーシやウクライナなどの旧ドイツ属国でも革命が進行、東欧が次々とソヴィエト同盟に飲み込まれていくことになる。
これに危機感を覚えたのがフランス、イタリア、スペインであった。ドイツの共産化防止のためという名目でドイツに再度進駐、ソヴィエト同盟の反撃があったものの、西部ドイツと南部ドイツを占領した。
同 7月 北米大陸
カリフォルニア方面の戦況が膠着し、米大統領の支持率は低下傾向にあった。
そんな折、英帝国カナダ自治領モントリオールにてカナダ在住のアメリカ人を中心に親米反英の暴動が発生。アメリカ政府はアメリカ移民の権利保護を掲げてカナダに侵攻開始。国力の差はいかんともしがたく半年でカナダ軍は壊滅に追い込まれた。アメリカ市民の間では「明白なる天命」がさらにもてはやされ、アメリカ合衆国には全北米大陸を征服する義務があると公然と嘯かれていた。
同 10月 インドシナ半島
イギリスがフランスとの講和を有利にするためにインドシナ植民地への攻勢を開始。シンガポールから東洋艦隊が出撃し、タイから英領インド軍が進撃した。
それに対し、かねてからイギリスに対してフランス領インドシナへの侵入は大東亜連合への宣戦布告と見なすと警告を実施していた大東亜連合の艦隊が迎撃のため出撃。金剛、比叡、榛名、霧島の4巡洋戦艦を旗艦とした艦隊であり、主砲は最大で30cm。東洋艦隊は36cm砲でそろえた超弩級戦艦4隻を基幹としており、砲戦力ではイギリスの勝利が確定とみられていた。
大東亜連合の提督、大和県権知事である松永貞市中将は高速を活かして逃げ回るとイギリス艦隊を南シナ海の洋上に吊り上げ、そこにサイゴンから出撃させた一式陸攻を中心とした基地航空隊による航空雷撃を実施。イギリス東洋艦隊を1日で壊滅に追い込んでしまった。
これにより英領となっていた香港租界、上海租界が降伏、シンガポール攻略が視野に入ってきた。