一向一揆と尊王攘夷
明治20年(1887年)
「なんだあれは?商船ではないか」
籠城中の対馬府中城への攻撃を支援中の清国北洋艦隊は接近してきた艦隊を見て嘲笑った。日本艦隊の旗を掲げてはいるが、装甲すらない商船改装の巡洋艦ばかり、はなはだしくは帆船が混ざっている始末である。
「それでは奴らを血祭に上げて、対馬を降伏させることにしよう」
清国北洋艦隊は日本艦隊を殲滅すべく、旋回を始めた。
第二次対馬沖海戦はまたもや清国の大勝利に終わった。日本艦隊も奮戦し、またもや多数の命中弾を定遠以下の清国艦隊に与えたが、日本艦隊も木造の商船改装巡洋艦が2隻沈み、またもや敗走に追い込まれたのだ。
そして、海戦の敗北を見た対馬藩から降伏の使者が訪れたことで、清軍は勝利を確信し、水兵たちにも特別配給を行い、勝利の宴会を始めてしまった。
◆ ◆ ◆
……その夜。清国艦隊に近付く黒い影が2つ。そして巨大な水柱が上がり、定遠が炎上した。そしてもう一つ鎮遠にも火柱が。
「ワレ夜襲に成功せり」
清国艦隊の大混乱の中、水雷艇「信頼丸」と「友情丸」は魚雷を放つとするりと夜の海に消えていった。艦長の東郷平八郎少佐は本国に作戦成功を打電。この2隻のアボ級水雷艇は対馬での敗戦を受けて急遽ウラジオストクのロシア太平洋艦隊から供与されたのである。
「これで鹿児島モンの扱いが良くなると良いでごわすが」
日本連邦帝国の海軍ではやはり旧幕府の志摩・淡路水軍と村上水軍、伊豆水軍の出身者が優遇され、外様の薩摩藩士の扱いは軽いのである。
そのため巡洋艦に乗る機会もなく、やむなく供与間もない慣れない船での半ば特攻に近いこの作戦に同僚の上村彦之丞少佐とともに志願したのであったが、なぜか幸運にも清艦隊の警戒はゆるく、拍子抜けするほど簡単に接近できてしまったのである。
東郷は生涯「あれは望外の幸運でごわした」と言っていたという。
◆ ◆ ◆
「まだ沈まずや定遠は!?」
翌朝、大きな損害を負いながらもいまだ沈まない定遠と鎮遠を見て、日本海軍は驚愕した。魚雷を食らっているのにまだ戦うつもりなのか!?
日本艦隊の提督、村上水軍総帥来島中将は総攻撃を命じるべきか、否かを迷い、ついに禁じ手を使うことにした。
ロシア帝国太平洋艦隊旗艦、戦艦ガングートが僚艦の戦艦ピョートル大帝および、装甲巡洋艦6隻を連れて対馬海域に出現。
これを見た清国北洋艦隊の丁汝昌提督は中立違反を抗議するも「練習航海である、ここは公海であり通行に他国の許可は不要」と回答されてしまう。実力で追い返そうにも主力の定遠と鎮遠が損傷しているのである。見た目からは分からないが内実魚雷の直撃被害は大きく、一刻も早い修理が必要であった。そこで対馬太守の降伏を見届け、大勝利を得たという口実で清国艦隊は威海衛に引き揚げて行ってしまった。
しかし、清国艦隊の撤退と、ロシア艦隊の出現を見て、対馬藩が方針を転換。受け入れた朝鮮の代官を城外に放り出して、再度籠城を始めてしまった。
この状況を逃さずに来島中将は日本艦隊を率いて対馬海峡を再度封鎖、艦隊の砲撃支援の下で河野連隊1500を逆上陸させることに成功した。河野連隊は毛利家家老河野氏の費用により編成された連隊であり、連隊長代理は河野家臣の秋山好古少佐である。
「利助さん、上陸したはいいが、これは難儀じゃのう」
「そうですなぁ、連隊長代理殿」
副官の伊藤利助がのんきそうに言う。利助はもう初老に差し掛かっているが、もとが足軽身分のため出世しても副官どまりなのである。だが、実戦経験は豊富で、この優秀な副官を秋山は信頼していた。
実際は難儀なんてものではなく、艦砲射撃の援護があるとはいえ、清・朝鮮連合軍15000の圧力をまともに受けるのである。
「まず、はよう塹壕を掘って、あとはこいつ頼りじゃな」
「ええ、そうですなぁ、商会の連中が言ってただけの効果があれば勝てますなぁ」
そういうと伊藤利助はイヴァン&ドラコーン商会の納入したマキシム機関銃を撫でた。
◆ ◆ ◆
対馬の戦いは日本の勝利に終わった。清の西洋軍隊はきちんと訓練されており、教本通り戦列歩兵として隊列を組んで河野連隊の正面に攻めかかったのである。
そして瞬く間に機関銃になぎ倒された。
夢想だにしていなかった大損害に清軍が驚愕している間に、日本軍の増援が対馬に上陸。支援の北洋艦隊もおらず、逃げ場もなくなった清・朝鮮連合軍はついに降伏してしまった。
その後は釜山攻略から漢城、平壌ととんとん拍子で攻略、そして鴨緑江を渡って遼東に進撃せんとしたところで、イギリスから待ったがかかった。
「対馬問題を解決するならば戦域は朝鮮および日本連邦両国に限定されるべきである。また戦争目的は対馬の帰属確認であり、領地の割譲などを要求するのは侵略である」
というのである。
結果、清国とははっきりした決着をつけられないまま、多少の賠償金を受け取って講和となった。対馬は日本連邦所属と再確認され、朝鮮とは和平条約を結んで国交を開き、ロシアと日本の顧問団を入ることで戦争は終わったのである。
だが、この結果はどちらにとっても不完全燃焼であった。清国皇帝は日本連邦への再戦を誓い、さらなる西洋化改革を推進していたし、朝鮮王国では清国派、ロシア派、日本派、イギリス派などが入り乱れて火種ばかり大きくなるばかり。そしてロシアは日本と満州朝鮮の分割案を検討しているのであった。
◆ ◆ ◆
明治23年(1890年)
ロシアが満州征服のためにシベリア鉄道を延長し、極東軍を増強しているころ、清国でまたもや巨大な阿弥陀信仰者による一向一揆が発生していた。彼らはアヘン戦争・アロー戦争以降のキリスト教の布教と西洋人の侵略に反感を持ち、清に反抗するのではなく、扶清滅洋を掲げたのである。
彼らは各地でキリスト教徒を迫害しつつ、流民や失業者を飲み込んで瞬く間に巨大化、北京に数十万の勢力を持つようになった。そして攘夷の断行のため、ついに西洋人、特に軍人や外交官を殺し始めたのである。
これに乗ったのが大清皇帝の西洋化改革に後宮予算を圧迫されていた西太后などの守旧派勢力であった。大清皇帝の改革を進めるために、西洋人たちが西太后に引退を要求するという噂が流れ、激怒した西太后が宮廷革命を起こして皇帝を押し込め、実権を掌握。そして一向一揆を正規軍として認め、全外国人の徹底攘夷を勅命として下したのである。
「当教団は無関係です!!」
大日本連邦帝国 参議院 議員 本願寺門主大谷伯爵
「なにが扶清滅洋だ、お前らの主君はこっちだろうが!」
大明帝国皇帝陛下
などと各地から抗議の声があったが、一番激怒したのは外交官を殺され喧嘩を売られた西洋諸国である。
イギリス王国、フランス共和国、ドイツ帝国、イタリア王国、アメリカ合衆国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ネーデルラント王国、ロシア帝国、大日本連邦帝国が懲罰のために出兵。そして最大の兵力を出したのが、ロシアと日本であった。