籠城する北条足軽と困る幕府老中
19世紀後半は混沌の世紀であった。
弘化・嘉永・安政(1840-1860年代)は特に出来事が多い。
その時、弘化3年(1846年)にご即位したのがのちの孝明天皇である。孝明天皇は相次ぐ天災や飢饉に心を悩まされ、特に西洋人がもたらしたジャガイモの疫病で多数の餓死者が出たことに激怒。異国の野蛮な作物が神国には合わないのだとして、ジャガイモ追放の勅令を出された。
このジャガイモ追放の勅令はすでに東北以北ではジャガイモがないと経済が成り立たなかったため受け入れる藩はなく、また東海以南では唐芋が栽培されていたため、結果、山城や近畿一円でのみ通用した。いまでも京都の住民はジャガイモを食べず、京風カレーは里芋やサツマイモで代用することになっている。
なお、唐芋は明から伝来したため、文明と見なされて敵視はされなかった。
ジャガイモの追放はうまく行かなかったが、このような異国の物品を排斥する動きが一部の国粋主義者にすでに広がっていた。
アメリカではテキサス戦争が発生、アメリカ人移民の権利を守るためにアメリカ合衆国が正義戦争を行い、メキシコからテキサスを分捕る。なお、講和の仲介はロシア・アメリカ総督が行い、報酬としてカリフォルニアを没収した。
欧州では再度町民の大規模な一揆が発生。すでに革命を経ていたイギリス以外のすべての国で議会制定や憲法制定に向けた反乱が発生した。諸国では国王と町民が譲歩して政治改革が進んだものの、フランスは王政が倒れ、共和制が倒れ、またもや帝政になった。
大清帝国では北方にロシアのコサックによる山賊、伊豆水軍による海賊、南方に村上水軍による海賊、さらに国内に一向一揆と、イギリス商人によるアヘンの流行を抱え、その苦しみにのたうち回っていた。その間に属国であったベトナム、ミャンマー、ネパールを西洋諸国に奪われまさに内憂外患極まる状態である。
まずは皮膚病よりも内蔵病である、国内問題に対処するため、大規模な討伐軍を発して一向門徒100万人を殺すとともに、大臣に命じて広州で大規模なアヘンの没収を行わせた。
これにイギリスが激高。広州に蒸気船を中心とした海軍と、インド兵を送り込んで大激戦となった。
しかしこのことあるを予測した清国の特任大臣は広州に20万の兵を集中。大砲や小銃も大量に集めていた。
海戦ではいまだに唐船中心であったため、広州防衛艦隊は一瞬で壊滅、商船など百隻近くを拿捕されてしまうが、広州に上陸したイギリス・インド軍とは互角に戦い、侵攻を許さなかった。
イギリス軍はやむなく方針を変更。防備が薄いと思われた北京を直撃するため、日本と明に台湾海峡の通行許可を要求した。
毛利は他国の戦争に関わらずと中立を宣言し台湾海峡の通行許可も出さず、明はイギリス女王の使者が皇帝に三跪九叩頭の礼を取らなかったとして交渉もせずに追い返す。
そして、これらの事後報告が名古屋に届いたころ、不遜な外交態度に怒った英国艦隊が台湾海峡を実力で突破していた。毛利水軍はオランダ船の複製である幕府船のさらに複製であり、3本マストでスピードの出る交易船型である。海賊行為には最適であったが、西洋の火力偏重の戦列艦には火力で及ばず、蒸気船には機動力で圧倒的な差をつけられていたのだ。
今までいいように清の艦隊を翻弄していた毛利水軍と明の倭寇艦隊にとって数百年ぶりの敗戦であった。
その後、舟山諸島に英国艦隊が現れたため、水と食料と薪炭を補給することで和睦。そのまま英国艦隊は天津に攻め込み、ついに清国皇帝から講和を引き出すことに成功した。
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「異国での戦争に関わるは不祥である、明からは毛利艦隊を引き上げるべし」
朝廷や国粋主義者がそのように主張する中で、幕府の考えは違った。
「なぜ負けた!? そのための西洋船ではないのか!」
この蒸気船というものは何なのか、幕府の老中であった山内豊信は苦悶していた。山内家は尾張譜代の出であり、筑後柳川藩10万石の家である。幕府では稲葉山譜代までは老中になれるのである。
「調べさせねばならぬ、このまま艦隊が負けては幕府が守れぬ!」
海路はイギリス艦隊がいるため、幕府の調査団は陸路シベリア経由で露都へ向かうのであった。
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清国では一向一揆を平定したと思えばイギリス艦隊に攻め込まれ、アヘンとキリスト教を広める許可を奪われたのであるが、そのキリスト教が爆発的に勢力を広めていた。
そしてついに、とある科挙受験生であったが、上帝ヤハウエから破邪の剣を授けられ、イエスからその戦い方を習った預言者が広州に再臨、地上の天国を作るために動き出した。
「やはりキリスト教は禁教すべきではないか!」
「北部九州在住のカトリックが一揆をおこすからやめてくれ!」
清国での大混乱を見て朝廷と幕府の意見対立は激化するのであった。
◆ ◆ ◆
そのころ、ロシアはいつも通りトルコを殴っていた。
とある戦いでやりすぎてちょっと虐殺してしまったところ、ロシアの非道の戦いに憤った(南下させたくないので口実を探してた)イギリスとフランスがトルコ側で参戦。海戦や陸戦で殴られまくりついにセヴァストポリ城塞を包囲されたのである。
イギリスで史上最強の看護婦が発生したクリミア戦争である。
「トシさんトシさん!なんだいあのフランスさんの銃、ロシアさんの腕が吹き飛んだぞ?」
「近藤サン!こりゃあまずいぜえ?」
武州多摩出身の北条家足軽、セヴァストポリ防衛隊に参加した近藤サンとトシさんは困り果てていた。火縄銃や刀剣でなんとかなりそうにない。
「どうだい天然理心流」
「……ヤットウで切り殺せる距離まで近づける気がしねえや」
「あの鉄砲なんとか奪わないとヤバイな」
その後、セヴァストポリは開城、戦争は終わった。近藤サンとトシさんはなんとかフランス兵の首とミニエー銃を奪い、士分に取り立てられることになる。
かれら近藤サンとトシさんのようにたまたま派遣されていた幕府の研修使節団や北条の義勇兵が蒸気船やフランス軍のミニエー銃、ナポレオン砲などの兵器の情報を得るとともに、ロシア帝国をはるかに超える西欧の技術力を目の前にして、ロシアも幕府も北条も近代化の必要性を痛感するのであった。
戦後、幕府の老中、山内豊信は朝廷の反対を押し切ってフランス第二帝政と国交を回復。名古屋城の金シャチをパリ万博に送って、技術を回収すべく代表団を送り込むことになった。この際イギリスやその他の国とも国交を結びたかったが、朝廷の反対でフランス一国に絞ることになったのだ。