米を食べるコサックと一向一揆
明がずるずると清に負けて行ったのはいくつか理由があるが、清の政策もその一つである。
明軍は鉄砲の装備数も多く、圧倒的な海軍力で支援されていて沿岸部の拠点を抜くのには清の大軍といえど苦労をしていた。そこで清が実施したのは遷界令である。つまり広州から浙江まで、沿岸30里(唐里、約15キロ)の住民をすべて拉致、ちょうど良くなぜか無人になっていた四川にことごとく植え替えて行ったのである。
これにより明は生産力や人的資源をまったく失うとともに、清は荒廃した四川を回復し税収を得ることができた。そして毛利水軍が補給したり、交易する余地をなくしたということで明を大陸から追い出すためには一石何鳥の名政策であった。なお、住民の生活は考慮されていない。
それから100年ほどたち、ようやく沿岸部には住民が戻りつつあった。
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宝暦・明和年間(1751~1772)
大陸では清が名君と呼ばれる乾隆帝の治世で全盛期を迎えていた。ベトナムやミャンマーにも遠征を行い、陸上では全世界でも最強の軍隊を抱えていたといわれる。
……海上では毛利海軍による倭寇行為が猖獗を極めていた。討伐艦隊は何度も壊滅させられたため、清国ではなんとか大量の艦隊を集めて北京近海のみを死守している。結果、山東省から浙江、福建に至るまでの沿岸部は毛利による交易(物理)がはびこり、密輸品や犯罪者が逃げ込む混沌地帯となり果てていた。
広州から南の海は交易と引き換えに海賊退治を委任したポルトガルをはじめとする西洋艦隊が固めているため手を出せないでいるが、その西洋艦隊も台湾近海に来た瞬間に大艦隊に襲われて拿捕される有様である。
そんな危険地帯に船が到来し、イギリスとオランダの敵を名乗って連携を呼びかけてきた。フランスの船である。
フランスはイギリスと第二次百年戦争と呼ばれた長い戦いの中にあり、全世界で植民地の取り合いと欧州での殴り合いを続けていた。
全西欧と敵対関係に陥っていた幕府はありがたくその申し出を受け、国交を結んだが、あまりにもお互いの拠点が遠すぎ、ほとんど意味をなさなかったようである。
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安永・天明年間(1772~1781年)
ついに乾隆帝は黒竜江遠征を決意。モンゴルと満州からなる騎兵10万を満州北部ブラゴヴェシチェンスクに向かわせた。
ブラゴヴェシチェンスクは「米の粥を食べるもの」アムール・コサックの根拠地であり、アムール川とゼヤ川の合流地点に作られた城塞都市である。
この都市に、はるばると伊豆水軍の船がアムール川を遡って石狩米や弾薬を運び込み、毛皮や砂金を受け取る交易が成立していた。そのため、アムール・コサックたちは受け取った米を粥にして、豚の脂身の塩漬けや牛乳を入れて食べているのである。
毎回それを見ては北条侍が米が勿体ないと嘆くのだが、寒い地方では効率的な栄養補給手段なのであった。
乾隆帝は騎兵に命じて黒竜江沿いのコサックの拠点や船着き場を次々と焼き払わせ、ブラゴヴェシチェンスクに迫った。コサック軍は籠城。伊豆水軍の川船が黒竜江から砲撃で支援を行い、なんとか耐え抜くことができた。
アムール・コサック軍の拠点の9割を破壊したことで清国としては完全勝利を宣言したが、清国の撤退後にコサックと北条家の協力でことごとく再建されるのであった。
そのころ、日本では天明の大不作が発生。東北地方から蝦夷に及ぶ大冷害によりせっかく開発した石狩米ですら収穫が見込めない状況にあった。米が壊滅したため、やむを得ずロシア人向けに栽培していたジャガイモやライムギを食べることになり、東北諸侯は税収の激減に苦しむことになった。
これ以降、日本の東北から蝦夷地、樺太の栽培作物が大きく変わっていくことになる。
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寛政・享和年間(1789-1804年)
フランスにて大規模な百姓町人の一揆があり、国王が処刑されたため、日本国大君および大明皇帝は連名にてフランスと断交。王政の復活を要求した。
このころ、ロシアは蝦夷地から大量の穀物や船舶、鉄を買い付け、アラスカの開拓に乗り出していた。ロシアの皇帝はアラスカ住民を公平に扱うように勅令を出していたため、アラスカ総督は現地人の集落を襲撃して人質を取ると、現地に学校を作り、布教とロシア語教育を行い、また日本製の穀物や鉄を毛皮と有利なレート(ロシアに)で交易することで原住民の生活に新しい道具をもたらし、原住民の生活を改善していったのである。
謎の疫病で原住民はばたばた倒れて行ったが、ロシア人神父たちは献身的に看病や医療を施しアラスカ原住民の信頼を得ることに成功しており、この成功により暖かい海を求めて開拓地を南へ南へ伸ばしていくのであった。
幕府においては蝦夷地の田畑の開発が進み、ロシア人の指導で牧畜なども行われているのを見て、函館奉行の献策により北海道を設置。朝廷の許可を得て石狩国、樺太国、千島国を始めとする1道12か国を設置して本格経営に乗り出した。
しかし開拓の中心となったのは北条家を中心とする関東、東北の武士たちであり、自ら開拓して土地を得た武士たちの間には一所懸命を実感する者たちが増えているのであった。
その後、フランスでは町人一揆を平定した大将軍が皇帝に即位して王政復古したため、ロシア皇帝の仲介もあって日本と明国はフランス帝国との国交を回復した。
注:その後フランスのロシア遠征で断交し、ブルボン朝の王政復古で回復し、第二共和国の成立で再度断交することになる。
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文化・文政年間(1804-1831)
清国にて大規模な一向一揆が発生した。
毛利が援軍にでて以来、福州や寧波を中心に安芸門徒が本願寺の別院を招請しており、浄土真宗の布教が行われていたのであるが、これは明の敗退とともに坊主は枯れ、寺は裂け、大陸全ての本願寺門徒は死滅したかのように見えた。
だが、一向宗は死滅していなかった!
生き残っていた熱心な本願寺門徒が同じ阿弥陀信仰ということで白蓮教集団に合流。唐大陸南部に念仏と阿弥陀信仰を布教して回っていた。これが清朝の重税や漢人差別に対する反感に結び付き、百万人を超える大規模な宗教反乱に発展したのである。
一向宗を名乗った彼らに対して山科本願寺は無関係を宣言していたが、全くお構いなしにこの一向一揆は一時期北京に攻め込むなど清全土で猛威を振るうのであった。
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天保年間(1831-1845)
東北を中心に大冷害。稲刈りの季節に雪が降ったという。天保の大不作である。東北では冷害に備えてジャガイモの栽培に乗り出しており、米は全く取れなかったが芋を食べることで生き延びることができた。東北諸藩の財政は再度大打撃を受けたため税法を切り替え、米の税率を引き上げジャガイモを無税とすることで安定して米を収奪できる体制とした。
このころロシアは中央アジアにてイギリスとの抗争が激化、またメキシコの独立のどさくさでロシア開拓地がカリフォルニア北部に進出し、メキシコ軍との抗争が始まっていた。日明は一生懸命声援を送っている。
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弘化年間(1845-1848)
東北のジャガイモが疫病で絶滅した。
東北諸藩は改定した税率どおりに米を名古屋で売却してしまっており、食料がまったくなくなってしまった。弘化の大飢饉である。
東北諸藩からは村人の逃散が相次ぎ、被害の少なかった北海道や樺太に大規模に逃げ込んでいくことになる。東北諸藩は幕府から飢饉の責任を取らされることを恐れてむしろ移民を公認していた。北海道への移住は国防上幕府から推奨されていたためである。