北(へ向かう)条
慶安・承応年間(1648~1655年)
「蝦夷地(現北海道)に清軍が攻め込んできただと!?」
松前藩からの報告に徳川幕府は驚愕した。
よくよく調べたところ虚報と判明したのだが、同時に恐ろしいことも判明した。地図を詳細に改めたところ清国の本貫地である満州と蝦夷地は繋がっているようなのである。実際はその間に間宮海峡があるのだが、この時代そこまで正確な地図がない。
「女真騎兵が松前藩まで攻め込んできたら東北諸侯が裏切るのではないか」
徳川幕府は真剣に国内政策としてこの問題を検討し、東北諸侯監督役は北条家である。ということで蝦夷地の探検と防衛を命じた。
そして、第一次蝦夷地探検隊の9割が凍傷と吹雪で壊滅した。
これらの教訓をもとに、幕府水軍の測量隊を北海に派遣。また松前に幕府の奉行を置いて、本腰を入れて島人との交流調査に乗り出した。
結果、判明したのはかなり活発に清人が蝦夷地に入り込んでおり、さまざまな清の物品を島人が保有しているということである。
島人が清に買収されては先兵となって攻めてくるかもしれない。幕府は米や鉄、綿布など島人の喜ぶ品々を以って先んじて買収することにした。
そして土地の人間の案内で北条が蝦夷地に砦や港を築き、清との国境地点を探す探検を開始したのである。
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こういった幕府の過剰反応には理由があった。徳川家光の子である家綱がまだまだ幼少であるのに、家光の弟であった徳川忠長が横暴を極めたため切腹を命じていたため、親藩を探しても次代将軍たるべき最適な人材がたまたまいなかったのである。
さらに、佐渡金山や生野銀山の生産量が落ち込み始めていたが、明からの絹や生糸の輸入は継続しており、幕府の収支は急激に悪化しつつあった。主に絹を一番買うのが幕府や大奥、そして家光の愛人たちであった。
その中で5代将軍徳川家綱が11歳で将軍位を継承。天下大乱の引き金となると思われた幼君の登場である。
「であるからして、諸君が天下を望まれるならば大変良い機会である」
天下の大名を名古屋に集め、言い放ったのは秀康から4代にわたって幕府に仕えた宿老の酒井忠勝である。
「少しでも野心のあるものは今この場で申し出よ。御代始めの祝儀として攻め滅ぼし、その知行を皆に分配しようではないか」
諸侯は音もなかったという。というのも毛利も北条も軍を異国遠征に取られていて国内で乱を起こすような余力がなく、それ以下の中小大名が蠢動しようものならば、酒井の言う通り即座に粛清改易されるのは明白だったからである。
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明暦・万治年間(1655~1661年)
そのころ明では軍事に理解の深い隆武帝が死去し、弟の紹武帝が即位していた。代替わりの混乱に伴う科挙官僚たちの蠢動により、倭寇たちが下野したり、また科挙官僚が無謀な遠征をおこなって失敗し、倭寇たちが再度登用されるなど無駄に国力を浪費していた。
そして清はついに20年近くの歳月と四川の住民数百万人を費やして張献忠を滅ぼすことに成功。大明の南部広州への侵攻路を確保した。
毛利は杭州新城で20万を超える清軍に包囲されており、南方への転戦は拒否。また金銀の産出減少により交易量が低下しており、国力的にも追加の出兵は厳しかったため、明の広州総督が明の正規軍を率いて立ち向かうことになった。
幕府としても援軍は出せないものの、明の要請に応じて1万丁を超える鉄砲を明軍に売却。官軍の強化に努めていた。
「金だ!砂金だ!!」
なお、北条武士は蝦夷地の探索中、砂金の川を発見して盛り上がりに盛り上がっていた。本格的に探索を増やそうと防衛用に作った砦の周りで島人と一緒になって野菜を作ったり、米を植えて枯らしたりと防衛任務を忘れて蝦夷地に根を下ろす準備を始めている。
関東武士が田畑を作ったからにはここは関東である。幕府の思惑を超えて奇妙な動きが発生していた。
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寛文年間(1661~1673年)
ついに広州が陥落した。大明の勢力はついに旧明国15省のうち、浙江と福建の2省のみとなり、頽勢は既に如何ともしがたい状況である。
ただ、清軍の杭州新城を無視して寧波や福州に攻め込む作戦は山越えとなることもあり、大軍の動員が容易ではなく侵攻作戦はことごとく失敗に終わっていた。杭州周辺を騎兵で強引に突破しようにも杭州周辺に網目のように張り巡らされた水路に阻まれ成功していない。
その時、オランダがイギリスと戦争を始めたので、福建の制海権を確保すべく、明は台湾のオランダ植民地を攻撃して占領。オランダのアジア植民地拠点であるジャカルタからの援軍艦隊は明艦隊に阻まれ、何もできずに引き返した。結果、明と同盟国の日本はオランダと断交することになる。スペイン、ポルトガルとは布教と奴隷売買の関係で断交しており、結局国交が残った西洋国はイギリスのみであった。
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元禄年間(1688~1704)
オランダ総督がイギリス王に即位。イギリスからも国交断絶を食らってしまう。西洋船は清に占領された広州に入港し、福州や長崎には近寄りもしなくなってしまった。
泉州や福州も清の大軍に占領され、明の拠点は舟山諸島と寧波府、台湾といまだ持ちこたえている杭州のみとなってしまう。幕府と明との交易もどんどん先細りして行っていた。
その中で日本には明からの亡命者が大量に渡来。生糸や製茶、製糖、医学、陶器、火器づくりなどの明の技術が日本に伝わることになる。諸大名も自らの藩の殖産興業のために好待遇で明の職人を呼び集めていた。
「ともに清と戦おう」
そのころ、樺太から黒竜江にわたった北条の探検隊が、ロシアのコサック隊と遭遇。ロシアのコサックは毛皮捜索の拠点としてアムール川沿いにいくつも砦を築いていたが、満州への侵略とみなした清軍によりことごとく破壊されていたのだ。
対清政策で利害が一致した幕府とロシアは協議を重ね、毛皮と米や弾薬の交易所を設けることで合意。対清で共同作戦をとることになった。
脅威と見た清軍が遠征してきたものの、大量の弾薬を補給した北条軍とコサックの連携攻撃により撃退。黒竜江沿岸の実効支配に成功することになる。
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享保年間(1716~1736)
享保の大飢饉が発生。西国を中心に訪れた冷夏により、収穫は例年の1/4となり、西国諸大名の財政が崩壊。交易収入も激減していたため、ついに遠征軍を維持できなくなり杭州新城を明官軍に任せて帰国することとなった。
その後、数年で大陸の明の領土はすべて清に奪われ、明帝は台湾の淡水に遷都。台北府と改名して明の首都と定めることになった。
そのころ、北条家は石狩地方での稲作に成功。粘り強く冷害に強い品種を探し続け、田んぼにひく水を温めたり、筵を引いて苗を温めるなどの地道な努力が実を結んだのである。
米がとれるとなれば話は違う。蝦夷地は幕府と各藩に分配され、それぞれ開発に乗り出すことになった。