戦い続ける毛利和泉
正保2年(1646年)。
明亡命政権領 温州府
「火を噴いて飛ぶ筒?ああ、神火箭でござるな」
「知っておるのか鄭都督!」
意気消沈して温州まで撤退した毛利和泉守光弘を見舞ったのは倭寇の鄭成功である。(書類上は)数十万の兵を失った記録的な大敗であったが、水上にあって支援に回っていた倭寇たちの兵は温存されており、鄭成功自身は元気いっぱいである。
「仕組みは単純でござる」
鄭成功の説明するところによると、火薬を詰めた筒に火をつけて飛ばし、ひゅるひゅると空を飛び、落ちたり、刺さったり、そのうち爆発するだけの代物らしい。命中率としてはだいたい標的の方角には飛ぶ感じであり、たまに味方ごと吹き飛ぶそうだ。
「そんなものにわが足軽どもは崩れたったのか!」
毛利和泉が悔しそうにうめく。
そこまでの威力はないため、直撃すればただでは済まないが、基本的には爆発音で敵を脅かし、混ぜ込んだ毒によって毒霧を生じさせて敵を倒したりするそうだ。
「毒物を混ぜますと射程が落ちますゆえ、野戦ではあまり毒は使いませぬな」
「ひょっとして、明軍でも作れるのか?」
「南京の工匠が逃げてきておりますので作れますが、高くて使い捨てでさらにあまり直接的な効果がないので……」
「くれ!」
毛利和泉は幕府からもらった大判が詰まった箱を持ってこさせ頼み込んだ。
「大砲も揃えましょう!」
明でもなかなか見ない大量の黄金を見て、鄭成功はさっそく工匠たちに命じて火箭と大砲の製造を開始させた。
◆ ◆ ◆
正保2年(1646年)冬。
大清帝国 寧波沖舟山諸島
200隻に及ぶ幕府水軍、村上水軍、倭寇水軍の連合艦隊が押し寄せ、長州軍と倭寇の連合軍2万が上陸。瞬く間に舟山諸島全域を制圧した。
清軍は杭州、寧波から奪還のための水軍を出すも、幕府の西洋船にさんざんに大砲を撃ち込まれ隊列を崩すと、倭寇水軍による接舷斬り込みで次々と船を失い100隻近い唐船を失う大敗北を喫してしまう。
以降、東海の制海権は明・日本連合軍が握ることになる。
なお、村上水軍は火力で幕府水軍に負け、斬り込み戦闘ですら経験豊富な倭寇水軍の後塵を喫し、完全に特に役に立たなかった。毛利家に叱責され、芸予諸島では血涙を流しながら大型船の建造に取り掛かることになる。
◆ ◆ ◆
正保3年(1647年)春。
大清帝国 寧波府
科挙官僚に率いられた明の官軍号して35万が寧波城を包囲。海上を倭寇水軍が固め、海陸双方から猛烈に攻め立てた。
陥落寸前の寧波の包囲を解くために、南京から皇族が率いる清軍号して80万が進軍、寧波に到着するというときに、幕府水軍により毛利家を中心とした島津、竜造寺、木下、大友などの西国大名軍2万5000の兵が清軍の後方に上陸。清軍の補給路を切断した。
清軍は補給路を回復するため西国大名軍に対して号して40万の兵で攻撃を開始、清軍の火箭や大砲による攻撃に対して毛利軍からも火箭と大砲で応戦があり、激しい火力戦となった。
「鉄砲組を前に出せ!敵の火箭兵をつぶせ!」
西国大名軍総大将の毛利和泉の号令により鉄砲足軽隊が火力戦に参加した。1万丁を超える鉄砲が次々に轟音を放ち、清軍を圧倒していく。
装備に劣る漢人歩兵たちが次々に打倒され、変わって女真騎兵が前に出てきた。騎射によって鉄砲足軽組に矢を雨のように降らせるが、圧倒的な鉄砲の反撃を食らい、馬が跳ね、落馬するものが多数現れた。
射撃戦では不利と悟った女真騎兵が長槍を構えて突撃に移る。
しかしその手は読まれていた。
「長柄足軽、前へえええ!」
鉄砲足軽の備えが後退し、代わって長柄足軽が前面に出て、槍衾を形成。騎兵突撃の足を止める。
そしてそこに騎乗武者が突っ込んだ。
◆ ◆ ◆
改元して慶安元年(1648年)
徳川家光は日本国王源家光として冊封されているのだが、返書には日本国源家光、だとか日本国大君源家光と記載し、日本側では日本国王という称号を利用することはなかった。これは朝廷から「他国から王号をもらうのは臣下としてどうか」という話があったためである。
このことには科挙官僚たちからいろいろと意見もあったのだが、現実問題、清と戦う中で日本と喧嘩するわけにもいかないため、棚上げされている。その代わり明側にも朝貢を受ける余裕がないこともあり、朝貢はしばらく見合わせることとなっていた。
しかし、日本からの貿易船は、遠征軍に補給するという口実で、毛利家の大船が次々に寧波に寄港していた。
寧波の攻略以降、毛利家としては長年の遠征を埋め合わせるだけの利益を得つつあった。ただ、大量の金銀が明に流入しているため物価があがりつつあり、また清領の蘇州や杭州との密貿易もはびこり始めている。
寧波の戦いで大敗して以来、清軍の動きは鈍かった。
皇兄に率いられた主力が大陸の西の端、四川を攻略しているため、大軍を東部寧波に回せないのも理由の一つである。
その四川では唐土の歴史上最凶最悪の殺人鬼と名高い張献忠が大西帝国を建国、皇帝として即位しており、清軍と地獄のような戦いを繰り広げていた。張献忠は四川の入り口である漢中から四川の首都である成都に至るまでの村々を一つずつ念入りに焼き払い、執念深く住民を殺しつくすことで完全な焦土に清軍を迎え入れたのである。
そのため清軍ははるばる西安や漢中から補給を運ばなければ進軍もできず、山がちな四川においてとぎれとぎれの補給と少数での奇襲をしかけてくる張献忠軍と戦いつづけている。張献忠の虐殺を生き延びた住民を見つけ次第食糧を全て奪っても全く足りないのである。
こうして、漢中王劉邦や蜀漢皇帝劉備などを支えた豊かで人口の多い四川の地は、蜀の歴史が始まって以来初めての戸籍把握人口ナシという状態になっていた。
しかしそれでも、明の亡命政権や倭賊を一旦脇に置いてでもこの張献忠をとにかく一刻も早く殺すべきであると清の宮廷は一致していた。
◆ ◆ ◆
慶安4年(1651年)
明軍はついに北伐のため、号して100万の大軍と500隻の兵船を用意して、南京に攻めあがった。杭州、蘇州などの穀倉地帯を攻め落とし、大軍を水路で揚子江に進めたところ。
台風に遭遇して全軍の1/3を失ってしまった。
日本兵からは「異国で戦っていたため、神風の怒りを買ったのでは……」などという声が上がり士気が低迷。それでも明軍は体勢を立て直し、南京を包囲したが、さすがに無視できなくなった清軍が号して300万の軍を北京から南下させ南京にて決戦。西国大名軍も奮戦したものの、圧倒的な清の兵力に押され、南京から撤退。結局蘇州を奪還されてしまった。
毛利軍は杭州に日本式の城として杭州新城を築き、銭塘江に軍船を浮かべて清軍への防衛体制を整備した。清軍はさらに杭州を号して200万の大軍で囲むが、海から補給を受け続けられる杭州新城をどうしても抜くことができなかった。
そして状況は膠着した。