第一夜ノ前夜祭 猫騒動
日の光の入らないはずのロビーは、ほのかな明かりを残していた。誰かが今でも使っているのか、それとも、電気がただ今でも流れているだけなのか。兎には何も分からない。分からないのでもない。知ろうとしていないのが事実か。
ロビーは十分な広さを持ち、中央に階段、階段の隣に巨大な支柱が2本。ロビー端に見える扉の数は左右合わせて、6つ。多いな。この中から猫を探すのか。猫…そういえば。
「そういえば、この猫の種類は」
「特殊な猫で…一般的にはチェシャ猫と呼ばれているわよ」
いきなりの話しかけでもびくりともしないこの少女、一体神経に安定用のネジか何かでもねじ込んであるのだろうか。少女は、兎の話しかけの返答を即答した。即答の内容に躊躇いができていたのは、チェシャ猫という猫の種類が特別だからだろうか、それとも、即答したことに後悔でもあったのか――。
とにかく探そうとしている猫がチェシャ猫ということは…。
「大変な猫探しになりそうだ」
「どうしてよ」
「普通の猫ではないからだ。理由はこれで十分だろう」
「…そう」
今の一声は悲しみの声でも、困惑の声でもない。ただひたすらにその心の温度を摂氏の限界点まで下げようとしたほどの、そう、その声はかなりの冷徹な一声だった。
「この部屋の血しぶきは、この前の猫騒動か」
部屋全体をこれでもかと赤く塗りつぶした血の痕跡。縦横無尽に駆け巡るように天井、床、壁、家具全てに血しぶきが飛んだようで、ほんのりと赤い痕跡が残っている。この部屋に入った人物は鑑識だとか、国家関係職員だろう。この部屋の異様な様を未来に伝えていくわけがないといわんばかりに、ほんのりと残った痕跡以外はきれいなまま保たれ、まるでまだ家具だけはどこからか持ってきたと思わせることも可能だろう。
「すいませんね、アリスさん」
「何がよ」
兎の後ろから部屋の様子を見ていた少女に、兎はいきなり話しかけた。まぁ、話しかけるというよりは疑問をぶつけただけだが。
「猫騒動について教えてもらいますか?」
「何よ、いきなり礼儀正しくなっちゃってさ。テヒヒ、でもいいわよ」
なんだこの口調は。最初に会ったときの礼儀作法が崩れかけているではないか。親しくなった途端にすぐ、これか。ひどい少女だ。
「テヒヒ。あ、これ人と話すときに出ちゃうから気にしないで。猫騒動はね。とある夜に猫を探しに屋敷内を歩いていた屋敷の主人が何者かに殺されたってのがきっかけらしいよ」
少女は部屋の中央に向かって歩き出す。
「テヒヒ。その後、なぜだか知らないけどその後の夜に誰かの足跡が聞こえて、翌朝誰かが死んでるってことが続いたの。その結果、屋敷の主人の家は没落。いろいろ調べたみたいだけど何も分からなくて、犯人がいまだに逃走中ってこと」
「なぜ、お前はそんな猫を欲しがる」
「そんなの簡単よ。その猫が珍しいから」
メインストリートと呼ばれる懐かしさを感じる通りを歩く自分。ケラケラと頭の上が笑い、それに続けてかばんの中の物達が笑う。いろいろな物が意思を持ち『笑う』。その笑いに続けて笑おうと口が変化し始めるが、我慢する。こんなところで笑っては気味悪がられるのが落ちだ。
メインストリートの一角に、一軒の家がある。その家の主人は自分の友達なのだ。自分を理解してくれるのだ。いろんな意味でだが・・・。笑わない、笑わない。
「む?」
ふと、その家の目の前の看板に目をやると『外出中』という目を疑うような3文字の言葉が縦に並んでいた。気のせいだろう。そういえば、家の中の明かりがついていない。気のせいだろ・・・?
扉のドアノブに手を伸ばし、グイッと回してみる。固い・・・鍵がかかっているようだ。嘘だろ。嘘だろ。頭の中にいろいろな理由、嘘という文字が無限に増殖し始める。嘘、いや、嘘、いや、・・・。
「・・・・・ヒヒヒ!!」
途端に笑い出した自分を抑えるべく、その家の向かい側に向けて「開店」とつぶやく。自分の持っていたかばんからいろいろな家具が飛び出す。絨毯から始まり、テーブルや椅子、本棚にポット。合わせて食器棚。その光景はメインストリートを通る一般人からしたらへんな光景にしか見えない。なにせ、そこには一つの部屋が誕生したからだ。
そして、もう一度つぶやく。
「開店、帽子屋」
テーブルの上に置いたかばんから数多くの帽子が、絨毯の上に並べられる。
「とりあえず、白兎が来るまで帽子屋でもやっていようかなぁー」
自分がそうつぶやいたのが合図なのだ。自分の頭の上に乗っていた奇妙な目や口がついていた帽子が笑い出した。目がニヤニヤしながら、口が大きく開いて笑う。しまった、つられて笑ってしまう。
メインストリートの一角に甲高い笑い声が響いていた。
「ちょっと・・・どこ行っちゃったの〜!!」
薄暗くまるでお化け屋敷のような屋敷の中に、少女の声が響く。街外れということでその声の響きに合わせての、外の蝙蝠の空へ舞い上がる羽ばたきが聞こえた。蝙蝠の羽ばたきはこの屋敷内のムードを極限まで高めた。少女はゆっくりと屋敷の廊下を歩く。
不安な感情が高まるのが分かる。辺り一面に感じられない生物反応。この道を進めば・・・。
「・・・?」
ふと気づく、生物反応。目の前にいる。何かが。黒い何かが。信じられない。生物? この屋敷に? 生物がいたのか・・・。あの時・・・。いや、まさか。
廊下の突き当たりの窓には暗闇が広がっているのが確認できる。雲一つない、暗闇だ。すると、その窓の下に黒い何かが立ち上がる。ひょこっ。今まで暗闇しかなかったはずのその空間に怪しく光る恐ろしい蛍光色。その光は・・・まるでこの先に進むことを危ないと照らす信号機の灯。禁止の一歩手前の恐ろしい光。故に逃げなければ。
「シャーーー!!!!」
屋敷内に猫の鳴き声が響いた。