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その楔を砕くために【cacao 99%】@裏山おもて

 ホテルから出てくる夫を目撃した瞬間、頭が真っ白になった。


 その日は朝から嫌な空気が漂っていた。

 最近、お互い仕事が上手くいかずに愚痴ばかりを言い合っていたし、気温の変化が激しくて風邪気味だったせいか鈍い頭痛が続いていた。

 結婚して二年。夫より早起きして朝食を作る習慣に対して、初めて文句を言ったのも今朝だった。彼が「嫌ならやめていいよ」と淡々と吐いたその一言に、私は苛立ちを隠さずに舌打ちをした。その後彼は何も言わずに、黙々と朝食を済ませて仕事に出かけて行ってしまった。そんな言い方をしなくてもと思った反面、言って後悔したのも事実だ。

 天気予報は晴れだったのに、空は暗く陰っていた。気圧のせいか頭痛が少し痛みを増した気がして、嫌いな薬を嚥下する。仕事を始めてもいないのにこんなに憂鬱なんて、今日という日が思いやられる。

 上司は嫌味で加齢臭がきつい。面白くもない冗談を漏らし、仕事の邪魔をしてくる。部下に仕事を押しつけて暇なのは貴方だけですよ、と小言のひとつも言えればどれだけスッキリするだろうか。もちろん、私にそんな啖呵を切る度胸なんてない。上司の言葉を脳内で踏みにじり、路傍の空き缶のように蹴り飛ばすだけだ。

 残業する予定はなかった。もちろん、いつでもそんな予定を入れるつもりなど毛頭ないのだけれど、その日は特に定時で帰るつもりだった。夫との関係は少し悪くなっていたけれど、決して夫を愛していないわけじゃなかった。今日は夫の誕生日なので、腕によりをかけて料理を作って少しは仲直りをしたかった。

 そんな時に限って、運命は非情だ。

 私の同じ部署の同僚が、数年に一度あるかないかの大きな契約をとってきたのだ。社内はお祭り騒ぎになった。これが上手くいけば会社が一回り大きくなる。それほどの取引だった。

 部署内総出ですぐに仕事にとりかかった。普段は何もしない上司も、この時ばかりは船頭に立って一心不乱に必要な手続きをこなしていった。定時になっても誰も帰ろうとはしなかった。これが成功すれば、自分たちの立場がどれほど優遇されるかわかっていたからだ。

 そんななか一人だけ帰るわけにもいかず、私も渋々仕事に取り掛かり、気づけば時計の針は十一時を回っていた。

 疲れた肩をほぐしながら会社を出た。料理を作って待つどころか、夫より遅くなってしまっただろう。せめて誕生日祝いに何か買って帰ろうと繁華街へと足を向けた。

 夜に浮かぶネオンのなかに夫を見つけたのはその時だった。

 隣にいたのは見知った顔だった。夫の大学時代の親友と言っていた背の低い女。結婚式の二次会では何度か話したこともある。大学生の頃は、二人で過ごすことが多かったらしい。

 一度、あまりにも仲が良すぎて関係を疑ったことがあった。その時夫は「異性でも男女の関係はない」と鼻で笑っていたから気にしなかったが、その女と夫が寄り添ってホテルから出てきた瞬間、私は持っていたバッグを取り落として何も考えられなくなった。

 視線を感じたのか、夫もまた私に気付いた。

 その時の夫の表情はとても不可解なものだった。少し安堵するように、私を見て微笑んだのだ。私は夫に裏切られたことに深い眩暈を憶えていたせいで、その表情の理由を考えることは無かったけれど。


 どうやって家に帰ってきたのか、あまり覚えていない。

 ただ、家に帰ってからすぐにかかってきた病院からの電話で、夫が交通事故に遭ったことを知ったのだった。



 粒 粒 粒 粒 粒



「それじゃ、また来ます」

 もう来なくていいですよと出てきそうになった言葉を呑みこんで、私は会釈で見送った。

 事故に遭った夫は、ひどい有り様だった。

 頭蓋は割れ、脊椎は折れ、内臓は破裂していた。それで一命をとりとめたのは奇跡だと医者が言っていた。

 しかし、その後遺症で夫は動けなくなったのだ。

 仕事を辞めるどころではない。首から上だけしか動くことができず、移動するにも食事を摂るのも介助が必要だった。脳障害か、あるいは精神的なものか、それから言葉を話すこともできなくなってしまった。ただぼんやりと虚空を眺め、口元に運んだ食事を咀嚼するだけの人形になってしまったのだ。


 天罰だ、と私は最初思った。

 いつから私を騙していたのか知らないが、その報いを受けたのだ。そう考えた瞬間、私は自分の血がすうっと冷めていくのがわかって、ドキリと心臓が跳ねた。違う。決してそうじゃない。確かに夫は私を裏切った。夫を許せない気持ちはあったが、夫を愛している気持ちが薄れたわけでもなかったのだ。

 そうしてすぐに気づく。

 自由を奪われた夫と、彼に寄り添う自分。

 数日が経ちその事実を冷静に考えたとき、私は気づいてしまった。

 これは夫への罰ではない。

 私たち夫婦への罰だ。

 全身不随の夫は、もう働くこともできない。食事も下の世話も、何もかも自分でできなくなってしまった。彼の両親はもう亡くなって身寄りはいない。いるのは妻である私だけだ。

 たった二人で生きて行かなければならない。文字通り、私は二人分の命を背負わされてしまったのだ。

 私は自分の人生が、真っ暗な闇に呑まれていくような、そんな気がした。


 夫は寝たきりのまま、家で介護を受けることになった。

 保険金はそれなりの額を支給されたが、介護師を毎日雇えるようなものでもなかった。私は仕事に行きながら毎日夫の世話をし続けた。会話をすることもできず、慣れない介護のストレスばかりが募った。仕事もうまくいかず、会社ではため息ばかりつくようになってしまった。

 そんな私の状況をどこで聞いたのか、見かねて介護に駆け付けたのは夫の親友の女だった。頼んでもいないのに、彼女は私が仕事の日は、介護や家の掃除を行ってくれていた。

 あんなことがあった手前、どんな神経をしてるのだろう。そう思いながらも介護に疲れ始めていた私の負担が大きく減ったことも事実だった。彼女からは金銭の要求もなく、ただ夫の世話を焼き続けてくれた。

 とはいえ彼女に対して、ありがとうと思ったことはない。彼女からは謝罪の言葉も何もなかった。彼女は私のために駆け付けたわけではないのだ。彼女は、ただ夫を愛しているのだ。動けない、話せない、ただの傀儡のような夫を深く愛しているのだ。

 憎い気持ちと、悔しい気持ちが渦巻いた。

 私はどうすればいいのだろう。夫を愛していた。誰よりも愛している自信があった。結婚した時は、何があってもその気持ちは変わらないだろうと思っていた。どんなことがあっても、夫を愛し続けると誓うことができた。

 でも、裏切られ介護するしかなくなった夫に対しての愛情は、自分でもハッキリと感じられるほど薄れていくことがわかった。対して、妻でもない女が私の夫を私より深く敬愛し、例え夫からの見返りがなくても愛し続けていけることがわかってしまった。

 言葉にできない想いが、風化するように崩れていく。

 それでも私は妻として、夫の世話をしないわけにはいかなかった。もちろん夫と別れて彼女に任せることも考えたが、もし夫に意思があって同意が得られたとしても、身動きできない夫を捨てたと世間は私を非難するだろう。どんな罵詈雑言が降りかかってくるのか、考えるだけで恐ろしかった。

 私は死ぬまで、夫と生きて行かなければならない。

 自由はもう、どこにもなくなってしまったのだ。



 粒 粒 粒 粒 粒



 一年が経った。


 会社と家を往復するだけの生活になっていた。生活に疲れ、仕事に没頭した。平日は夫の親友が夜まで世話を焼いてくれているようになっていたので、なるべく遅くまで仕事をして帰る。おかげで昇進をすることもできたけれど、周囲からは心配されていた。

 あとこの一年で私に変わったことといえば、目の下に深い隈ができたことくらいだろう。隈を消すために化粧を濃くしたことで、鏡を見れば少し老けたようにも感じる。

 家に帰れば夫がいる。それを考えるだけで憂鬱になった。仕事の間はなるべく夫のことは忘れるように努めていたけれど、それでも私は夫の妻だ。休日は夫の世話をするためだけに生きていた。

 辛くて何度も泣いた。

 何度も喚いた。

 それでも夫は動けるようにならなかったし、話せるようにならなかった。それどころか夫に持病があることがわかった。地元の病院の医者が、定期検診に来ないこないことを不思議に思って連絡をとってきたことで判明したのだ。寝耳に水だった。そんなこと、付き合っていた頃から一言も言ってなかったのに。

 夫の持病はいつ発病するかわからない脳腫瘍だということだった。発病してしまえば、軽くても言語障害が出ることと場合によっては死に至ること。もしかすると、夫が話せないのはその腫瘍のせいかもしれないとのことだった。

 そう聞かされても、私に何かできることがあるわけでもない。ただ杞憂の種が増えただけだった。


 このまま、私は夫と共に死んでいくのだろう。

 誰にも褒められることもなく、愛を感じることもなく、ただ夫と結婚したという理由で、夫とともに死んでいくのだろう。結婚式の時に神父に誓った愛の言葉を取り消すことができたらどれだけいいか。何度も何度もそう考えた。

「少し、お話してもいいですか?」

 そんな折だった。

 この辺りでは珍しく、雪が降っていた夜だった。

 私が帰宅すると言葉も交わさずに帰る夫の親友が、その日は口を開いた。

 少し驚いた後、戸惑った。この一年、私は彼女のことをただの介護師のように考えるように努めていた。夫が事故に遭う直前にホテルにいたことなど、忘れたほうがマシだと思っていた。その事実があろうがなかろうが、私と夫の関係や私の人生に影響があるような状況ではなくなってしまったからだ。

「貴方は、彼のことを愛していますか?」

「……ええ」

 私は拳を握った。

 何を言い出すのかと思えば、なんてふざけたことを言うのだろう。確かに夫への愛は薄れていたが、存在すらしなければこんな生活に耐えられるわけがなかった。しかも仮にも隣で夫が寝ているというのに、妻に向かって愛を問うなんて非常識にもほどがある。この場で平手打ちをしてやろうかと思ったけれど、私はぐっと耐えてうなずいた。

 彼女は少し落胆したような表情を見せた。悲しそうな、それでいてなぜか安心したような表情でもあった。

「そうですか。私も、彼を愛しています」

 そんなことは百も承知だった。

 自分もこの一年、嫌というほど考えた。動けない夫を看病することの辛さと、それを続ける覚悟を。夫が死んでしまえば楽になると思ったことも何度かある。けれど、そうなってほしいと願ったことは一度もなかった。それこそが愛している証拠だと、私はその想いを胸に夫と生きていくつもりだった。

 夫への献身的な介護を続けているということは、彼女もまたそういうことなのだろう。

 だからこそ彼女が言った言葉に、私は耳を疑った。

「……もうすぐバレンタインデーですね」

「それが、どうかしたんですか」

「貴方にお願いがあります」

 彼女はじっと私の目を見つめて言った。

「一年前、彼が事故に遭う直前に言ってました。今度のバレンタインに欲しいものがある、と。貴方にそれを買って来て欲しいのです」

「自分で行けばいいじゃない」

「貴方が買うことに、意味があるんです」

 やけに力強い言葉だった。

「彼は私に欲しいと言っていたのではないんです。妻である貴方からもらいたい、というニュアンスで言ってました」

「そんなこと……」

 信じられるわけがなかった。

 それでも彼女は諦めずに、私の目を見て「お願いします」と頼んできた。

「……わかったわ。何を買えばいいの」

「ありがとうございます。ここでしか売ってないので、少し遠方に出ることになりますが」

 そう言って彼女が差し出してきたのは、ここから少し離れた地方都市の洋菓子店のパンフレットだった。

 夫が欲しいと言ったものは、どうやら変わり種のチョコレートのようだった。確かに夫は甘いものが好きだったし、この地方都市は夫が何度か出張で行ったこともある。彼女の言葉を信用はしようとは思わなかったが、納得はできた。

「今度の日曜日、私が代わりに介護しにきますので、ぜひ買ってきてくれないでしょうか」

 休みの日にどこかに出かけるなんて随分と久しぶりだ。

 その提案に、私は渋々うなずいた。



 粒 粒 粒 粒 粒



 電車に揺られて山間を進み、数時間。

 開けた視界に映ったのは、雪の積もった街並み。

 いつも住んでいる街とは違い、街の建物は背が低かった。盆地の向こう側の山まで見渡せる広い景色だった。

 ゆったりと走っていた電車が止まったのは、小さな駅だった。自動改札だけが綺麗で、壁や天井はまだボロボロだ。降りた客も私のほかに数人だけ。

 目的の店に着くまでは駅から少し歩いた。タクシーを使うほどでもなかったので、散歩がてら雪のちらつくアスファルトに足跡を残す。吐き出す息が白く凍っていく。

 見知らぬ街。誰も私を知らない。

 すれ違う人は当然見覚えのない顔ばかりだった。こんな寒い街なのに、私が住んでいる街とは違ってみなゆっくり歩いていく。まるで異国に迷い込んだような、そんな気がした。

 ……もし。

 もし、すべて捨ててこの街に引っ越して来れたなら、どれだけいいか。

 夫のことも、仕事のことも、すべて捨て去ってしまうことができれば、どれだけ幸せか。

 そんなことをふと考えてしまう。

「あ……」

 止めることができなかった。

 ダムが崩壊するように、そんな考えが堰を切って流れ始めた。夫を見捨てる罪悪感も、世間からの視線の恐怖も、私の体を縛り付けている楔も、全て水に流すことができればいいと、心の底でずっと考えていた。

 そしていま私の目の前には、そんな風に苦しんでいる私とは違う世界が静かに存在している。

 この街は、私の苦しみとは無縁だった。

 立ち止まる。

 ちょうど目的の店に着いていた。その店のガラスのショーケースに、一粒のチョコレートが置かれていた。赤いハートの包み紙のなかで、ぽつんと寂しく横たわる小さな黒い塊。夫が欲しいと言っていたらしいものだった。珍しい洋酒が入ったチョコレート。

 私はその一粒をじっと眺めて、ホロホロと涙を零してしまった。

 こんなところまで、私はなんのために来たのだろう。私を裏切りそして動かなくなった人間のためなんかに、遠い場所まで来てたった一粒を買うなんて。私は夫を愛している。でもいまは、それ以上に憎しみのほうが強かった。解放されたい。自由になりたい。赤いハートの包装に囲まれて動けない、小さな一粒のチョコレートに、私は見入ってしまっていた。

「あのう、大丈夫ですか?」

 店の人が心配そうに扉から顔を出した。

 とっさに涙を拭く。私のなかに強く渦巻いてしまった黒々とした感情を見られてしまったような気がして、慌てて誤魔化した。

「ええ……あの、これを一つ頂きたいのですが」

「かしこまりました。どうぞ、お店のなかへ」

 店員の後について店内へ入る。

 洋菓子店というだけあって甘い匂いが充満していた。店内のケースに並んでいるケーキやクッキー、チョコレート。色とりどりで装飾されたその透明な箱のなかは、私とは別の世界に存在しているように思えてしまった。

「贈り物ですか? なにかメッセージを添えますか?」

 店員が、可愛いメッセージカードとペンを差し出してきた。

 私は迷ったけれど、うなずいてペンを手に取る。

 たった一言だけ言葉を添えて店員に渡した。店員は一瞬、そこに書かれていた言葉に戸惑ったような表情を見せたが、すぐにその態度を隠した。

 無心を努めて代金を支払い、紙袋に入れられた包装を受け取ると、私は逃げるようにその店から出た。

 足早に駅へと戻る。

 頭のなかがぐちゃぐちゃだった。どうしていいかもわからなかった。書いたメッセージを夫に渡しても、彼はその意味を理解できないかもしれない。あるいは理解して、絶望するのかもしれない。だけどどちらにしろ、彼には何もすることができないのだ。私の自由を奪った彼は、運命に自由を奪われてしまっている。逃げることもできないのだ。

 帰りの電車は、ひどく眠かった。

 考えることに疲れてしまったのだろうか。電車の揺れに誘われ、意識を失ってしまった。

 目が覚めたのは数時間後だった。

 電車は家のすぐ近くの駅で停まる。終点を告げるアナウンスの声に起こされて、私はぼうっとしたまま紙袋を抱えて電車から降りる。

 すでに夜になっていた。

 視界が暗く沈んでいるなか帰路につく。見慣れた景色には雪など積もっていなかったけれど、さっきの街より寒く感じた。

 異変に気付いたのは、家の近くまで戻ってきた時だった。

 暗くなったはずの空が、赤く照らされていた。

 それが猛々しく燃える炎によるものだと気づいたのは、不覚にも私の家が見えてからだった。

「……え……?」

 呆然としてしまった。

 家が、燃えていたのだ。

 夫が親から引き継いだ古い一軒家。それが、轟々と雄叫びを上げて燃えていた。私は血の気が失せて、手に持っていた荷物をすべて落としてしまった。

 中にはまだ夫がいるはずだ。動けない夫がいるはずだ。

「うそ……」

 信じられなかった。

 家の周りには人だかりが集まっていた。消防車が何台も停まり、家に向かって水を注いでいる。それでも激しい炎は止まる気配を見せず、家の壁や天井を崩していく。

 誰かの叫び声が聞こえた気がした。

 たぶん、きっと、幻聴だ。 






 いつのまにか、私は卒倒してしまっていたらしい。

 病院で目を覚ました私は、なぜか夫に買ったチョコレートだけを握りしめていた。しばらく頭が回らなくて、意識も曖昧になっていた。ハッキリと思い出せるのは、夜が明けてから警察官が面会に来たときだった。

 警察の話では、家に中には二人の遺体があった。それが誰かは聞くまでもない。夫と、彼を看護していた親友の女だった。それが確定するのはまたしばらく後なのだが、それ以外の可能性は考える必要すらなかった。

 火事の原因はキッチンからの出火ということだった。私も何度か事情聴取を受けたが、料理中の事故だということで事件性は乏しく、料理をしていた彼女と寝たきりの夫は煙を吸い込んで死に至った。その後炎に焼かれてしまったらしい。

 不慮の事故ということで、私が何もしなくても手続きは勝手に進んでいった。そのなかで私が犯した大きな罪は、周りのすべての人間に彼女と夫が親友以上の関係だったことと、彼女が家で料理をすることなどいままで一度もなかったことを黙っていたことだ。

 私には解っていたのだ。

 あの炎が吐く黒々とした煙を見上げたとき、深い絶望と共に、私はかすかに昂揚していたのだ。これで解放される。これで私は自由になれる、と。

 そして同時に、彼女が夫と二人で死ぬために私に買い物を頼んだことも理解していた。それ以外に、私を遠くの街に買い物に出かけるように促す理由が思いつかなかったのだ。

 重い罪悪感は残った。喪失感も。

 でもそれ以上に、私は救われたと思ってしまったのだ。私が直接手を下したわけでもない。ただ勝手に彼らは死んでしまったのだ。

 そう思うと、自然と心が軽くなった。




 それから私は職場近くのアパートを借りることになった。

 しばらく会社を休み、生活の基盤を整えることに専念した。色々な物を失ってしまったが、保険金はかなりの額がいずれ手に入るということだった。結果的に独りになってしまったが、私を裏切った夫も、あの女も、始めから存在していなければ同じことだったと思うようにすればいい。時間だけは取り戻すことができないが、それでもこの一年の生活に比べれば微々たるものだと思えた。

 私はたった一粒のチョコレートを買いに行っただけで、楔から解き放たれたのだ。

 引っ越してしばらくして、荷物の中からチョコレートが出てきた。少し逡巡した後、私はその箱を乱雑にゴミ箱に突っ込んだ。包装が破れて中からメッセージカードが出てきた。床に落ちたそのカードをしらばく眺めてから、過去と共に捨て去った。



『あなたへ


  いままで愛していました。


       あなたの妻より』


 

 さあ、これからはどんな人生を送ろうか。

 仕事に専念してもいい。新しい趣味を見つけてもいい。

 しばらく結婚は考えられないだろう。もし、また心から愛することができる人に出会うことがあったなら、それもいいかもしれない。

 ただし今度は、私のことだけを愛してくれる相手にしたいものだ。























 粒 粒 粒 粒 粒






『あ~、あ~、聞こえるかな? 録音できてる? 大丈夫? よしよし。

 ……突然だけど、僕はもう先が長くない。だからこんな風に、遺言めいた言葉を残そうと思う。もちろん、これを誰かに聞かせるつもりはないよ。愛する妻にも毛頭ないし、他の人にも聞かせるつもりはない。ただ僕は、僕が妻を愛しているという証拠を、形として残したいんだ。形にすることで神様に誓いたいのかもしれない。だって、こらから僕が妻にすることを考えれば、僕はきっと天罰を受けるだろうから。

 僕は生まれたときから脳に腫瘍がある。いままでは少し言語障害が出る可能性があるくらいだったんだけど、僕の成長とともに育った腫瘍が、体の感覚を少しずつ奪い始めているんだ。僕の寿命は長くてもあと一年と少しらしい。結婚して、これから幸せになろうってときにこんなことになるなんて……ほんと、残酷だ。

 でも一番可哀想なのは僕じゃない。僕の妻だ。僕は死ねばそれで終わりだけど、妻はその後の人生がずうっとある。

 僕はもう確実に死ぬ。だから僕は妻に嫌われようと思う。彼女が僕を憎めば、僕が死んだ後の人生はずっと楽になるだろう。だから辛いけど、僕は妻を裏切るフリをするつもりだ。幸い僕には協力者がいる。彼女も僕と同じ病にかかっていて、それで仲良くなった同級生だ。彼女の寿命は少し長いらしいけど、僕と同じ運命を歩いている心強い味方だ。兄妹のように想い合っている、大事な友達だ。

 おっと、今日はここまで。妻に勘付かれたら意味がないからね』















『これは……天罰だろうね。

 妻を深く傷つけた罰だ。まさか、病気のせいより先に体が動かなくなるなんてね。

 でもこれで、僕の目的には大きく近づいたよ。あとは時期を見て、僕と協力してくれる彼女が共にこの世から姿を消すだけだ。僕のことを愛せなくなった妻を見るのは……とても……とても辛いけど……でもすぐに妻は僕に愛想を尽かせてくれるはずだよ。僕が浮気をしたと思ってるからね。愛し続ける理由なんてないだろう』

















『……僕はなんて酷い夫なのだろう。

 妻はまだ僕のことを愛している。僕はこの一年ずっと妻の前では沈黙を続けてるのに。言葉も話せないフリをした、動けない、裏切った僕のことをずっと想い続けてくれているんだ。

 なんて嬉しいんだろう。涙が止まらないよ。

 でも僕は妻に嫌われなければならない。妻を、誰よりも愛しているからね。

 妻には自分で気付いてもらう。僕の近くにいても気付けないことはたくさんあるってことをね。だから僕はこの録音を最期に、この世から消えるつもりだ。

 本当に……たくさん、辛いことがあった人生だった。

 でも君と出会えたことで、僕は生まれてよかったなと思えるんだ。

 ……じゃあ、このあたりで。

 妻の楔を、砕けることを祈って。

 君を愛する夫より。

 では、さようなら。天国から見守っているよ――――』



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