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改札、巣立ちの扉【cacao50%】@楠木千歳

 彼女にはいつも、必ず改札前の右端に寄ってカバンをあさる癖がある。

 

 スクールバッグとは別に肩から下げた紺色の小さな肩掛けカバンには、見た目からして明らかに容量オーバーなくらい物が詰まっていて。

 酷い時は、チャックが閉まらずその口から本の角が覗いている。

 そんな整理のついていないカバンだから、毎日毎日定期の在り処を探し当てなければならない。だから彼女は、毎日お決まりの時間にお決まりの駅員室の側へ身を寄せて、がさごそがさごそと飽きもせずその行動を繰り返す。

 

 定期、といっても近頃の定期はハイテクで、ICカードに期限が印字されるタイプのものがほとんどだ。俺の学生時代とは訳が違う。したがって彼女が駅員室のそばへ来るのは、駅員に定期を見せるためではない。カバンから定期入れを引っ張り出す、ただそれだけのためにやってくる。


 彼女がこの辺ではちょっと有名な中高一貫校の制服を着て現れた最初の一週間は、改札の目の前でよく立ち止まっていたのをよく覚えている。

 さすがにマイペースそうな彼女も通勤ラッシュ時の圧力とイライラを感じたのだろうか、しばらくすると数本早い電車になり、また鞄をあさる行動の場所も改札目前から駅員室の近くへと移動した。

 その学習能力があるなら、道すがら準備しておくという考えには至らないのか、という話になるのだが。


「寒いですね、おじさん」


 やがていつの頃からか彼女は、定期をあさりながらにかっ、と人好きのする笑顔で俺たちに話しかけてくるようになった。


「寒いねえ」


 くりっとした茶色の瞳。あどけなさは残るが凛とした顔立ちと抜けるように白い肌は、どこか日本人ばなれした顔立ちにも見受けられる。

 駅員に話しかけてくる物好きな女の子など、そうそういない。おまけに彼女が名札をみて朝番と遅番全員の名前を覚えてくれたもんだから、彼女は駅員室ではちょっとした有名人で、人気者だった。


 配属になったばかりの新人くんが、彼女に惚れて見事に玉砕したのはいつの話だったか。

 淡い恋心をぺしゃんと潰されて半泣きになった彼を笑いながら慰めてやったのは、今では良い思い出だ。




 雨の日も、風の日も。部活だと言っては土曜日も日曜日も。毎日毎日、ほとんど休むことも無く彼女は学校へ通い続けた。

 

 ああ、俺が見た中では一度だけ……しんどそうにマスクをしていた日があったかな。

 無理をしてでも学校へ行きそうだったから、必死で帰れと宥めて学校へ連絡させた。

 逆に泣きそうな彼女を前にして、俺は些細な罪悪感に駆られてしまった。駅員室のお茶請けにと置いてあったチョコレートをひとつ渡して、いい子にしていなさいと家路につかせたのだった。これもまた、懐かしい話である。




「おはようございます!」

「おう、おはよう。今朝も寒いねえ」


 がさごそ、がさごそ。

 音が聞こえるわけでは無いけれど、まるで掘り出すかのように紺色の肩掛けカバンをあさる彼女。俺はちらりと時計を見た。今日はいつもより、さらに少し早起きしたようだ。


「寒いですねー! 友達とか後輩はみーんな生足で登校してますけど、ほんっとありえないですよね。若いっていいなー」

「喧嘩を売ってるのかい?」


 半睨みで言ってみれば、「やだこわーい!」とキラキラした笑顔で笑い飛ばされる。

 十代独特の、若さが溢れる輝かしい笑顔がそこにあった。

 

 一分一秒を急いて小走りに歩く人々の群れをよそに、彼女はこの「ムダな時間」をやめようとしない。

 彼女の中に流れる時間は、俺たちの外側にあるのではなかろうか。そんな事を考える。

 

 この年頃の娘と上手く話せない同僚たちからは、天使と仰がれている事を彼女は知らない。その輝かしい笑顔が父親に向けられる事は、ほとんど無いという事も彼女は気づいていないのかもしれない。

 俺にもとっくの昔に家を出た息子がいるきりだ。彼女の存在は癒しだった。


 ようやく右手が定期を見つけたようだった。ICカードをかざして改札をすり抜ける彼女が、振り向きざまにこう言った。


「明日、楽しみにしててくださいね!」


 明日?

 何か、あっただろうか。

 首を傾げる俺を尻目に、彼女は「いってきます!!」と告げて元気に人波へと姿を消した。

 

 駅員室の薄汚れた壁に引っかかっているカレンダーを見る。

 明日……明日……。

 二月十四日か。

 何かあったかな。そう思って例の振られた青年に尋ねたら、「ちょっとちょっと、枯れてますねえ五十嵐さん」と馬鹿にされてしまった。

 世にいうバレンタインデーだと気づいたのは、彼が往生際悪く「俺も欲しいなあ、あの子のチョコレート」なんて言っていたからだ。

 それを聞いた俺の同僚に「お前にだけはやらねえ、貰ったら言いつけてやる」と小突かれていて、俺達はひとしきり笑い転げた。


 彼はこの春、二年付き合った綺麗な年上の女性と結婚する。





# # #




 翌朝は雪が降っていた。

 深々と冷え込む今日みたいな朝は、俺達が立つ改札のテーブルにも時折雪の便りが舞い込んでくる。

 小さな駅の改札口は吹きさらしの屋台みたいなもので、足元のストーブだけではなかなか暖まらない。けれども、背筋をピンと伸ばして、まるで寒がっていないかのようにして堂々と立つ。これは俺の、俺なりの美学である。そうして立っていると、本当に寒さを忘れていくのだから不思議なものだ。


 白い息を大きく吐いて、俺は彼女の事へ思いを馳せた。

 あれはちょうど――今日のような雪の日だった。

 

「そのカバンの中、一体何が入ってるんだい?」


 俺が彼女と仲良くなってしばらく経った頃の話だ。何気なく尋ねた俺に彼女はふふふ、と笑って、そうですねえ、とちょっとだけ空を見上げて考えた。

 

「夢と、思い出と、大事なもの。全部ここに入ってます」


 ぽん、とカバンをひとつ叩いて、俺の目を見てしっかり頷いたのだった。あの芯の強い瞳は、今でも鮮明に焼き付いている。


「そうか。それはそれは、大事なカバンだね」

「はい。命の次に大事なカバンです」


 彼女はそう答えて、颯爽と改札を抜けていった。

 彼女の後ろ姿は、なんとも言えない瑞々しさで溢れていた。

 あれから、何年の月日が経っただろう。

 近いような遠いような、それは不思議な時間の流れだった。



「おっはよーございまーす」


 ぼんやりとそんな事を思い出していると、溌剌はつらつとした声に引き戻された。

 彼女の姿を探して視線をさ迷わせ……俺は思わず二度見した。


「ああ……おはよう」


 辛うじて挨拶を返すと、トレードマークのにっこり笑顔を浮かべて彼女がぶんぶんと手を振った。見間違いではなかったのだと思い知る。

 

 昨日よりもさらに早く現れた彼女は、いつもとは全く様子が異なっていた。

 まず、制服ではなかった。もちろんスクールバッグはない。

 代わりに、大きなスーツケースを引いていた。ポニーテールの髪は下ろされていて、緩く先端が巻かれている。ぐっと大人っぽくなった顔には、うっすらと化粧も施されているようだ。通学用の紺のダッフルコートに見なれた俺には、今彼女の着ている白いコートが眩しい。

 ただ、パンパンの肩掛けカバンだけは健在だった。それだけが彼女である証といっても過言ではない。

 

 一気に自分が歳をとったような、そんな幻覚に捕らわれる。俺は喉の奥から声を振り絞り、ようやく一言だけを口にした。


「どうしたんだい」

「びっくりしました?」


 彼女は答える代わりに質問で返して、くるっ、とその場で一回転して見せた。そういうあどけない表情を見せられれば「ああ、彼女だ」と安心して、ほっと息をついた自分を確認する。だがそれはほんの一瞬だけ。俺の思考回路はすぐにフリーズさせられる。


「あたし、留学するんです」

「………………え?」

「みなさんに挨拶したかったけど、盛大にお見送りとかされたら行くのがイヤになっちゃいそうで」

「…………」

「色々な都合を突き合わせたら、出立日が今日しかないんです」


 卒業式に出られないのが心残りなんですけど、とほっぺたをかく彼女が、再び別世界の人間に見え始めた。留学って、あの留学か? 海外に行く、あの。

 突然の告白に、脳の理解が追いつかない。受け入れきれずに、言葉がぐるぐると同じところを回っている。

 卒業ということは。

 六年。もう六年も経っていたのか。

 彼女を初めてこの駅で見た、あの日から。

 

 混乱すると同時に、巣立ちの日がやって来たのだと悟りを開いた自分もいた。いつかは必ずやって来る、その「いつか」が突然訪れただけ。出会ったあの日から決まっていた事実が、密かにカウントダウンされていた、それだけの話だ。

 頭の中が騒然としたまま、それでもなんとか「そうかあ」という間延びした言葉を吐き出す。「もうそんなに経つのか」も「寂しいなあ」も全部まとめた、「そうかあ」だった。どこまで伝わったかは分からないが、彼女は「そうなんです」と真面目な顔をして頷いた。


「どこへ留学するんだい?」

「イギリスです。通訳になるのが夢だったんです」


 イギリスには、彼女の父がいるのだと言う。それ以外の情報は残念ながら耳に入ってこなかった。

 スーツケースと共に彼女が持っていた紙袋を差し出されて、ようやく頭が稼働し始める。


「これは……」

「作ってみたんです。今までのお礼を兼ねて。足りないことはないと思いますけど、もし無かったら皆さんで分けてくださいね」


 中を覗いた。カップに入ったチョコレートたちが三つづつほど、可愛いビニールに入ってラッピングされていた。


「バレンタインの?」

「はい」

「……上手いなあ」

「練習しましたから。味見もばっちりです」


 得意げに胸をはる彼女が、まるで実の娘のように愛おしくなる。


「ありがとうね。嬉しいよ」

「どういたしまして」


 思わずこみ上げた涙を隠すために、俺は無理やり口角を上げた。


 まばらだった人の数が、ぽつりぽつりと増え始めていた。ラッシュが始まる時間である。道行く人がちらちらと、こちらへ視線を投げかけていた。

 何か気の利いたことを言わないと。焦る気持ちに駆られるも、世間話の一つだって出てきやしない。


「学校の友達は?」


 喉につっかえながら、ようやくそれだけ口にした。


「昨日、お別れの挨拶をしてきました。逆に用意されちゃってて、色紙とかハンカチとかいっぱいもらっちゃいました」


 やはり学校でも、彼女は人気者だったのだろう。

 太陽のように明るい彼女の周りには、たくさんの賑やかな仲間たちがいたに違いない。

 荷物を一つ失った彼女の手が、肩掛けカバンの中へ吸い込まれた。


「あのね、あたし……この駅から毎日学校に行くのが、本当に楽しみでした」



 がさごそ、がさごそ。

 その癖は最後の最後まで、変わらないらしい。


「うち、お父さんがずっと、家にいなかったんですよ。だから皆さんが本当のお父さんみたいで、すっごく好きだったんです。家では寂しいなんて、言えないから……最後に背伸びして買ってもらったこのカバンを、いまでもずっと持ち歩いちゃうくらいお父さんが大好きだったのに。気づいたら、お父さんは遠い遠いところへ行ってしまっていて」


 だからですかね、と、彼女の手が一瞬だけ止まった。

 

「行ってらっしゃいもおかえりも、とっても、とっても、嬉しかったんです」


 視線はカバンに落としたまま、声は明るい彼女のまま。

 僅かに震える声には、気づかないふりをしておこう。

 がさごそ、がさごそ。

 カードをあさる音が再開する。


「イギリスにいるお父さんに会えたら、おじさん達のこと、いっぱい話しますね。日本のお父さんのこと。それでいつか……会いに来ますから。お父さん連れて」


 とうとう、彼女の手が掴んだようだった。

 定期の期限は昨日で切れている。ただのICカードになったそれをぎゅっと握りしめ、彼女はしっかり顔を上げた。


「ありがとうございました」

「……こちらこそ」


 丁寧に、丁寧に下げられた頭。

 頑張れよ、無理はするなよ。様々な言葉が胸のうちでせめぎ合う。選べない。何を伝えればいいのだろう。彼女の何倍も別れを経験してきたはずなのに、どうしたらいいのか全く思い浮かばない自分が情けなくなった。

 だが彼女がもう一度視線をあげた時。

 ふっと思いもつかなかった言葉が、俺の口から転がり落ちた。


「風邪ひいても、チョコレートあげられないからさ」

「……はい?」

「元気でねってこと」


 きょとん、とした表情をしてから、彼女が大笑いし始めた。なにそれ、と言いながら、目尻の涙を拭いている。


「もう、五十嵐さん面白すぎ」

「そうかな」

「そうです」


 周囲の注目を集めながらひとしきり笑って、はあ、とため息をつく。

 そしてようやく決心がついたのか、定期を掲げて「それじゃ」と小さく呟いた。


「おう」

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 ちょうど人並みが途切れた瞬間だった。ピピッ、という軽快な音が、静まりかえった構内に響き渡る。


 彼女は改札を抜けて、ホームに向かってまっすぐに歩いていった。

 姿が見えなくなる、最後の曲がり角。

 ピタリ、と足を止め、彼女は俺の方を振り返った。


 大きく、大きく手を振ってから。

 

 ついに彼女は、その角を曲がって次の世界へと飛び出した。 

 




 


 俺は唇を引き結び、雪が連れてくる張り詰めた冷たい空気を思い切り肺に吸い込んだ。


「旅立ち、か」


 誰に聞かせるでもなく、そんな言葉を呟く。

 どうにも、取り残されたような喪失感が胸から消えない。俺は他の駅員たちが来るまで待たず、一旦奥に引っ込んでハート柄のラッピング袋をひとつ開けることにした。

 彼女の姿がこの目に焼き付いているうちに、どうしても食べておきたくなったのだ。


 型に流し込まれ、上にアラザンなどで飾り付けられた小さなチョコレートを、一つつまんで口に放り込む。

 

 雪の中で冷えきったチョコレートは、硬かった。

 がり、がり、と噛み砕いてしまってから、もっとゆっくり転がすべきだったと思ったがもう遅い。

 ほろ苦い風味と舌に残るほのかな甘さが、まるで彼女と俺たちの時間を象徴しているかのようだった。

 


 さよなら、いつかまた。

 次に会う時がもし、訪れたなら――

 その時はまた、俺からチョコレートをあげようか。

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