Love for a love【cacao98.9%】@Ria
最近愛されていないような気がするんです、と私は口にしたけれど、これを聞いている彼女は、大層恵まれた悩みだなんて言って聞き流してしまうだろうか。
「最近愛されていないような気がするんです。本当なんですよ、驚くことに私、愛を感じられないんです」
「……はあ」
「とても深刻なことだと思うんです。愛されていないなんて、生きている意味があると思いますか?」
彼女はぽりぽりと鼻の頭を掻く。困った時の癖だ。同時にこれは興味が無い時の癖なのかもしれない、なんて新たな可能性をみつける。
「ああー……あるんじゃない? 別にさ、誰かに認められなかったら生きてちゃいけないとか、息苦しすぎでしょ」
「そうでしょうか。でも誰だってひとりじゃ生きていけないじゃないですか。誰かに助けてもらうじゃないですか。それって、少なくとも助けてくれたその人は私のことを生きてていいと、」
「まあさ、詳しく話してご覧よ」
彼女はばっさりと話の腰を折って笑った。心地よい声が教室にこだましている。
行儀悪く、椅子の背を抱くような形で座っている彼女の気の抜けるような顔を、こんなに必死になって見つめるのが大切なんだろうか。
私にとってそんなに大切なことなんだろうか?
「何を相談したいわけ? 愛されていないだっけ」
「ええ、まあそうなんですが」
いいや、この会話に題をつけるならば、愛とか恋とか漠然としたワードは好ましくない。
確かに私は愛されていないのだと思う。それがとても、とても悲しい。手にした気になっていたものがとうとう失われゆく、その感覚と共に死んでしまいたくなるのだ。
だからこそ彼女に相談を持ちかけたこの話は、漠然としたタイトルであってはならない。
「バレンタインについて、でしょうか」
かの聖バレンタインの日はチョコレート業界の戦略だとか、そんなものに流されるのは良くない……なんてことを言いたいわけではない。
イベントには乗るべきだ。企業戦略にも乗るべきだ、それが自分にとって利益になるのなら。
「愛を感じられないので確かめたいんですよ。もうすぐバレンタインでしょう? こんなにうってつけなイベントもそうそうありません」
「ううん……愛ねぇ……」
彼女はぐるぐると首を回しながら呟く。
「バレンタインなんかで、愛が確かめられるかねえ」
「無理でしょうか」
「無理とは言わないけど」
バレンタインを考えうる限りで効果的に利用すれば、個人的には愛だって確かめられると思うんだけれど。
しかし彼女は違うようで、そんな単純な話じゃないかもよとブレーキをかけようとする。
「バレンタインは好意を持っている男性に、女性がチョコレートをあげる日です。愛を伝える日でもあります。少なくとも世間的にそうと認識されているのは大きいでしょう、何も無い普通の日にチョコをあげるのとは価値が違う」
「ま、確かに。バレンタインの告白ってだけで期待値は上がるし、付加価値もある気がする。広く知れたイベントの力ってやつなのかしら」
「そうなのです。これは非常に有利だと思うのです」
自分から行う、チョコレートをあげるという行為に大きな価値が生まれる。これは女性にとっての強みになるだろう。もちろん男性も利用すればイベントの力で大きな価値を得られるだろうが、私は男性ではないのでそのケースは考えなくて良い。
能動的に誰かの心を試すことが出来る、一年に一度のチャンス。
私はどうしてもこの日を逃したくなかった。
故に、問う。
彼女に。
「萌葱さんならどうしますか? バレンタイン、何かしますか」
彼女、萌葱さんはじっと私の目を見ていた。瞬きの回数さえ減らして、その瞳の揺れすら極端に少ない。真っ直ぐな視線だった。
一方言葉を紡ぐ速度は、何かに引っかかるようにして滑らかさを失う。一つひとつ噛み締めるように、吐き出すように萌葱さんは答える。
「そりゃあ、チョコくらいあげるさ。イベントは楽しむ主義なのよ」
「そうなんですか」
「まあね、当然でしょ」
「ですよね」
愛を確かめるなんて大層な目標はないけどさあ、なんてひらひら手を振って笑う。ですよねと相槌を打つ。
私はいつもそこまで笑わないけれど、空気の違いでも感じたのだろうか、彼女は笑顔を引っ込めて目を細めた。慈しむような視線だった。相変わらずその瞳は真っ直ぐ私を捉えて離さない。
「ま、私のことなんてどうでもいいじゃん。今はあんたの話でしょ。出来ることなら何でもするよ……その、大層な目的の為でもさ」
「ありがとうございます」
「友達でしょ、当然よね」
「ええ、友達です。ありがとう」
いいよと笑って、彼女は男っぽく脚を開いて椅子から立ち上がった。教室の壁に掛けられた時計に目をやると、もう夕方の5時を過ぎている。
「そろそろ行かなきゃだ。流石に委員会をサボるのにも限度がある」
「時間を取らせてしまいましたね」
「いいのよ、せっかく友達になったんだもん。続きはまた明日にしよう。なんかあったらいつでも声かけてくれていいから、隣のクラスなんだし遠慮しないで」
萌葱さんは机の脇にかけて合った鞄を肩に引っ掛けて、コートを手に持ったまま立ち上がる。釣られて私も席を立ち、借りていた名前も知らない誰かの椅子と机を正した。
「萌葱さん、クラスって不思議ですね。たかが隣の部屋ってだけなのに、世界ごと違うみたいじゃないですか?」
「え? まあそうだね、不思議よね。お互い大した集団でもないのにさ」
それじゃあまた明日、と手を振って彼女は教室を出ていく。私もそれに続いて、廊下を走って遠ざかる背を見送ってから自分の教室へ戻った。
大した集団じゃないのに、たかが一年を過ごすだけの部屋なのに、自分の教室に入るだけで安心感があるのは何故なんだろう。大した人間じゃないのに、帰属した場所に帰った気になるのは憎たらしい。
教室に入ると、ぎょっとして立ち止まりそうになった。並んだ机の角に腿をぶつけながら、私は平静を装って「おや」なんて呟く。
「ああお疲れ、笹雪。なんか楽しそうに話してたな」
「……まさかいるとは思いませんでした」
「ははは! いちゃ悪いか、俺の教室でもあるんだぞー」
冗談きついぜと笑いながら、彼はリュックの中に教科書やらノートを詰め込んでいた。帰る準備をしているのだろうか、コートを既に羽織っている。
夏木くんもお疲れ様ですと答えながら、動揺のせいで裏返りそうになる声を抑えた。そのせいか、ただでさえ低い声がさらに強ばっている気がする。気のせいだろうか? そうであればいいのに。
「なあ、笹雪って萌葱と仲良かったっけ? 話してるとこ初めて見たんだけど」
わざわざリュックの中を整理する手を止めて、彼は問う。
「珍しい組み合わせだなって思ったんだよ。わざわざ隣のクラスで話してたの見たんだ、さっき」
「盗み聞きしました?」
「するわけないだろ!」
友達ですから話もしますよと答える私は顔も上げずに、熱中するふりをして机の中のノートを引っ張り出しては鞄に詰め込む。何も探してなんかいないのに、特に乱れてもいない机の中を手でまさぐるのは何故だ。
「へえ、友達か。知らなかった」
「私に友達なんて珍しいなと思いましたか? その通りです」
「勝手に話を進めんなよ……そんなこと少しも考えてないぞ」
帰る準備をとうとう終えた私は、教室の後方にある上着を取りに行く。
「そういやもう帰んの?」
「ええ。委員会とか部活とか、何も無いので。学校に残る意味とか無いので」
「じゃあ丁度よかった、早く帰ろうぜ。夜から雪だってよ」
コートを手に取る。私は振り返る。
「え、なに? なんか用事とかあんの」
「無いです」
「そうか。じゃあ早く出よう。学校に残る意味も無いんだろ」
「ですね」
彼は笑うと顔がくしゃくしゃになる。なんだか犬みたいだと例える人は多いけれど、そもそも犬は笑わないし、顔をくしゃくしゃにしない。
それなのに私も、よく見れば柴犬に似ているかもしれないなんて馬鹿みたいなことを思うのだ。彼は背が高いから、ころころした柴犬のイメージに合致する点なんて無いはずだが。
「帰ろ、帰ろ。外は寒いぞ、さっき部室覗いてきた時は寒さで死んじまいそうだった」
「生きてるんですね」
「これから死んじゃうかも!」
そうだなあ、死んでしまうかもしれない。
早足で階段を降りる夏木くんを追って大きな足音を立てる。放課後の学校には嫌に響くけれど、誰も聞いちゃいないだろう。
玄関から見える外はすっかり暗くて雪が降っていた。もうちょっと早めに出たらよかったなと、本気で後悔した顔をしている彼は鞄から折りたたみ傘を取り出して、ちらりと私に目を向ける。
それに気付かないふりをして、私も傘を取り出す。何も無かったような顔をして外へ歩き出すのを、誰も、誰も見ちゃいない。
「寒いな。雪に埋もれそうだ」
「ええ。そうですね」
あなたと並べた傘に柔らかい雪が降り積もる。歩くたびに滑り落ちて、また積もっていく。かじかんだ私の手に重さをかけながら、無かったことになってはまた積もり、再び落ちての繰り返し。
吐いた息が消えるところを見つめながら、彼の話を聞いている。
「それでさ、昼休みに職員室行ったんだ。わざわざ質問しに行ったのに、飯食ってるから後で来いなんて酷くないかー? 俺だって時間ないのにさあ」
「そうなんですか」
「そうだよ! 納得いかないだろ」
ややあって私は頷いた。それから、傘のせいで彼からは見えないだろうと思い至る。
「そうですね、納得出来ないです」
「うん。酷いよな……」
道路を徐行しつつ走る車のヘッドライトが、時折私たちを浮き彫りにする。
雪が傘にぶつかる音で騒がしいのに、なんだか今日は静かだと思った。そういえばいつもより彼の口数が少ない。喋りが上手くない私の分まで、流暢に、楽しそうに彼は話し続ける。それがいつもの帰路だった。
寒さは堪えるだろうか。
それとも。思い当たることに限りなんてない。
「笹雪はさあ……否定しないよな」
「否定、ですか。急ですね」
「いつも思ってたよ。誰に何言われてもそうですか、そうかも知れないデスネ、みたいな。全然否定しないよなあ、俺に対しても」
「そうかもしれません」
「ほら!」
あはは、と気持ちよく笑う彼に合わせて、白い息が漏れては消えていく。
「俺ってそんなに気が強いほうじゃないしさ、否定されることが多いんだ。でも笹雪は違うだろ」
「そうでしょうか」
「うん。変だなって思ってたんだ。みんな自分の意見を持ってるのに、お前はそういうのを言わない。合わせているんじゃないかって」
それは間違いだ。私は否定もするし、意見だって持っている。他人の言うことに異論を唱えないのは単純な理由に尽きる。
「たまには違うって言いたいだろ。こっちの話聞けよって、お前の言うことが正しいばかりじゃないんだぞって。いいんだよ言っても。慣れないなら俺で練習すればいいじゃん」
私は彼を見上げたりしないから、その表情を知ることが出来ない。必要すらないと思う。見なくとも分かるなら目に入れず、聞かなくても分かるなら聞かずとも。
「言ってくれよ。きちんと言わなきゃダメだと思うんだ、流されちゃダメだ。俺は笹雪に思っていることを言ってほしい」
ほら、こんなことをあなたは口にするのだ。
白々しいと、浅ましいと思う。必死になって話すあなたは浅ましい。
例えば私は、萌葱さんのことをそうは思わない。なんだこの人は人間くさいなあなんて思ったりしない。でも彼は違うのだ。
そこに人間的な差異があるかはどうでもよかった。問題なのはいつだって、どんな時だって自分しかいない。
あなたと向き合っている自分だけが、全ての根源だと知っていなくては。
「……私は、結構好きにやってるんですよ。好きなことを言ってます。好きなものばかり食べますし、好きな音楽ばかり聴く。それって悪いことですか?」
「悪いわけないだろ」
「ですよね。毎日好きな時間に眠るんです。好きな時に傘をさして、好きな人とばかり関わっている」
何も言わず、彼は苦しそうに全てを飲み込んだ。みんなそれぞれ個性と自我を持って生きているから、何もかも一緒くたにして棚に並べてしまうのはそれだけで酷い扱いになる。
知っている。好きなことばかり言っているのだから。
「夏木くんはどうですか? 好きなこと、してますか。言っていますか」
「……うん」
「じゃあ私のことは好きですか」
「当たり前だろ」
「そうですか。私もです」
傘が重くて傾けた。ずるりと音を立てて、積もった雪が滑り落ちていく。
やはり愛が感じられないのだ。今まで享受していた愛がそこにない。
彼はその傘で自分の顔を隠して、俯いていた。きっと私の顔なんて見たくもないのだろう。全てわかっているくせに、私は彼が望むような言葉を口にしないから。
「もうすぐバレンタインですね」
だから私は唐突に話を持っていく。
「楽しみですか? 夏木くんはクッキーよりチョコが好きなんですよね」
「……うん」
「楽しみです」
こうして気持ちを踏みにじりながら生きていく。彼も、私もだ。押し付けあって生きていく。どんな時も目の前の人間に、自分の不手際を擦り付けて。
かつてあった愛は感じられないけれど、こんな状況はいつまで続くのだろうか。高望みなんて出来ない私は、こうして傘を並べて寒いねと白い息を吐くだけでいいのに。
それさえも長くないと言うのなら、どれだけ寂しいのだろう。いつ壊れてもおかしくない硝子の糸に立って歩くことが、震えるほど恐ろしいのだ。
「忘れ物、した」
彼は小さく呟く。
「忘れ物したんだ、学校に。今日も明日も必要なものだから、取りに行かなきゃ」
「そうですか」
「先に帰っててくれる? もう家も近いだろ」
「そうですね」
「じゃあ、また明日な。笹雪」
足早に歩き去る彼の背中をぼんやりと眺めて、やがて私も歩き出す。早くしないと雪に埋もれてしまいそうだ。
今日も明日も必要なもの、忘れ物。それが一体何なのか、私は誰よりも知っている。
リズムを刻むように一定の間隔で私を照らすヘッドライトが、さっきよりも眩しい気がした。浮き彫りにされるのはもう自分だけだった。悲しいと思うことも、もうこれきりにしたい筈だ。
悴む手で握り直した傘が、雪の重さに負けてしまわぬよう。どうかあと少しだけ。
バレンタインには、クッキーを作る。
毎年必ずクッキーを作る。理由は簡単に大量生産が出来て食べやすく、しっかり火を通すことが可能だから。普通のそれより細く棒状にした生地を切って、一気に焼いて適当な箱に詰める。それを学校に持っていっては、昼になるとクラスの女子に配るのだ。
それが彼女達との関係に何かをもたらすとは考えていなかった。結局のところ礼儀と、私はまだクラスの一員ですよと主張しているに過ぎない。
私の気持ちのなさを何より表しているのが、このクッキーである。一気に沢山作れて、大して美味しくもなければ金もかからない手作りのお菓子。
でも私は、バレンタインの前に売られているチョコレートを買った。何人もの女子に配るお菓子より、ずっとお金を使った。市販のものなんて心がこもっていないだろうと思う人も多いだろうが、私にとっては精一杯の愛情。
それを鞄の奥底に突っ込んで、上にクッキーが入った大きな箱を入れて学校へ向かう。何でもない日、何でもない天気なのに、今日はいつより特別になるのだろう。
なんてったって、バレンタインなのだから。
「あれ、夏木くんは?」
私が声をかけたクラスメイトの男子は、面倒くさそうにがりがりと頭を搔いた。
「さっき教室から出ていったけど。なんかせかせかしてた」
「そうですか……」
「なに、お前夏木と仲良かったっけ」
ちょっと不審そうな目を向けて、彼は私の顔をじろじろと観察する。
「まあ、普通に話はします。それが何か」
「別に」
「そうですか」
聞きたいことは教えてくれたので、早々に席に戻った。声をかけた男子は不服そうな顔をして小声で文句を言っている。
私は大人しく席に戻って、教科書を広げた。朝礼の時間になるまで夏木くんは教室に戻らず、殆ど教師と同じタイミングで帰ってきた。
授業と授業の合間も何故かすぐにいなくなってしまう。今日の彼はやけに忙しいらしく、声をかけるタイミングすらない。
なんか今日の夏木は変だな、とクラスメイト達が話している。
「やけにいないじゃん。次の授業の宿題、見せてもらおうと思ったのにさ」
「分かる。何してんだよ」
「ほら、バレンタインだから他クラスの女子にチョコでも貰いに歩き回ってるとか。羨ましいんだけど」
「いや、それは無いだろ……だってあいつ、」
ガラガラと大きな音を立てて扉が開く。夏木くんだった。もうあと一分もしないうちに授業が始まってしまう、ギリギリの時間だ。
「……だってあいつ、彼女いるしさ」
何も聞こえないふりをして宿題を机の上に出す。そもそも誰一人として、私に注目を向ける人なんていないだろうが。
時間は過ぎていく。昼になって、女子がそれぞれお菓子を配るために机の間を縫ってウロウロし始める頃にも彼の姿はなかった。どうやら弁当を持ってどこかへ行ってしまったらしい。
避けられているのかもしれない。
わあ、ありがとうと言いながらみんなが私の箱の中に手を伸ばす。クッキーを一枚ずつ取って、それで終わり。たまに交換しようと言ってお菓子を貰う。それだけ。
ぼんやりと意識を失ったように徘徊して、余った分を近くにいた男子に分けて終わりだった。特に感動も達成感もないけれど、これで仕事が終わったという安堵感だけが残っている。夏木くんが教室に戻ってきて男子達にバッシングを受けるのは、やっぱり休み時間が終わるスレスレのことだった。
元々放課後に渡すつもりでいたけれど、時間を空けておいてくれと打診することは出来ないだろうなと諦めた。ぼうっと黒板を眺めながら思う。愛さえ失った上に避けられるとは、どうすればいいのだろう。
失ったものを取り戻すこと、確かめることさえ許されないだろうか?
私のような存在には。
いつの間にか放課後になっていて、私は相変わらず何も考えずに座っている。部活だ委員会だと忙しいクラスメイト達は、早々にどこかへ消えていった。
雪が降る冷たい外を力なく眺めているだけの、虚しい自分に嫌気が差す。きっと限界までこうしていて、いつか諦めて帰るのだろう。一人で歩く冬の道は冷たくて堪えるというのに。
カチ、カチと刻む時計の音に急かされながら、それでもなお動けない私にやっと声をかけたのは夏木くんではなかった。
「あれっ、何してんの」
「……萌葱さん」
「一人ぼっちで座ってさぁ。帰んないの?」
書類を腕いっぱいに抱えた彼女は、教室の外で目をまん丸にしていた。委員会が忙しいらしい。
「そろそろ帰ります」
「そう? あ、誰か待ってんの? この前言ってた愛を確かめるだの何だのって人か」
「いいえ、それはもういいんです。萌葱さんは委員会ですか。重そうですね、それ」
急に話を振られて動揺したのか、慌てたように書類に目を落として笑った。
「まーね、今日も遅くまで頑張りますよ」
「引き止めてしまってすみませんでした。委員会、頑張って下さい」
「え? ああ、ありがと。笹雪さんも早く帰んなよ、遅くなればなるほど雪が酷くなるってさ」
分かりましたと頷くと、萌葱さんはパタパタと大きな足音を立てて遠ざかる。無感情に耳を傾けながらため息をついた。
何をしているのか分からなくなる時は頻繁に訪れる。こんなことに意味はあるのかと問いかけたい。もっと大切なものがあるんじゃないのか。
すべて分かっていながら、幽霊みたいに客観性を持って私を弾劾する私自身を弾いて、凍えながら、孤独に苛まれて生きてきた。隣に友達がいようと関係なかった。隣にあなたがいようと、何も関係なかったのだ。
そんな自分だから、こんなにも虚しいまま座っているんだろうか。これでいい筈がない。でも、これでいい。
今より落ちていかないなら、虚しささえ愛せるだろう。
「まるで、本当の友達みたいだったな。笹雪」
声をかけたのは彼だった。どこか疲れたような顔をして、教室の後ろに立っている。萌葱さんと入れ替わるように帰ってきたのだろうか? 私が無駄なことに思考を費やしている間に、いつの間に。
「友達だと言ったじゃないですか」
「嘘だよ、そんな筈ない。笹雪はあいつと友達になんてなれないよ」
「酷いじゃないですか。私はそこまでコミュ障でもないですよ」
「だから、そんなの一言も言ってないだろ……酷いのは俺だ。いつだってそうだった。今日も昨日もそうだったんだ」
そうですね、と私は答える。
そして、鞄の底から箱を取り出す。チョコレートが入ったそれは美しかった。私が投げやりに作った美味しくもないクッキーを、適当に選んだ箱に詰めたものよりずっと価値があったのだ。一目見てそれが伝わるように買ったんだから当たり前だ。
あなたを愛しているのだから。
「受け取れない」
ぽつりとそんな一言だけを口にする。
「何故ですか?」
「言わなくても分かるだろ」
「私が好きなんじゃなかったんですか?」
「もちろん、好きだよ」
私もです、と答えながら箱を差し出す。
「どうして受け取れないんですか?」
「それは、だってそれは……」
「夏木くん」
今日はバレンタイン。あげるものはすべて、イベントによって特別な付加価値を背負っている。
「これ、ただの箱ですよ。その中にただのお菓子が入っているだけです」
彼が目を見開いて、やがてやるせなく視線を落とす。
「単なるお菓子をどうして受け取れないんですか? 買ったものを誰にあげるのも私の自由でしょう? たまたまあなたにあげたかっただけなんです」
「でも、」
「受け取ってください。断るのって、失礼ですよ」
その言葉がとどめになったのかどうかは分からないけれど、やっと彼はチョコレートを受け取った。見ただけで本命のためのものだと分かる箱を、泣きそうな顔で。
私がなんと言おうと今日はバレンタインで、チョコレートの付加価値は本命への愛だった。夏木くんは痛いほど感じているだろう。しかし私にここまで言わせてしまったという状況が、恐らく彼を苦しめながら動かす。
どうしようもない痛みを抱えているのは私の方なのだが。
「俺は……どうしようもないなあ」
「そうですね。そうだと思います」
「申し訳ないと思うんだ、心底。それでいて本当に笹雪のことが好きなんだよ。ずっと好きだし、これからも多分好きなんだと思う」
「でも最近迷っていたでしょう? 私に、それを断ち切る言葉を言わせたかったんじゃないですか?」
ぐっと押し黙って生まれた沈黙が答えだった。
「それなのに、チョコレートは受け取りたくなくて避けるんですね」
「こんなはっきりしたイベントは、力が強いんだ。心が折れてしまいそうになって辛くて、つい逃げてしまった」
夢見るように、私はまだ意識を手放している。私の幽霊が天井にいて、その指から糸を垂らす。
私の指と、足と口と目と、心と結んだ糸を動かして操る。
彼はこんなに真っ直ぐな愛を持っているのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
「でも、いいんですよ。バレンタインの役割は果たした気がします。」
「……そうなのか」
「これだけ苦しんでくれるなら、それは愛でしょう。見失ってしまって申し訳ありませんでした」
泣かないようにするためには、謝ることが大切だ。そして感謝の気持ちを言葉に出すこと。
「笹雪」
「彼女さんを適度に大切にしつつ、こちらも大切にしてくださいね。今日は譲りますけど、たまには私とも一緒に帰ってください」
「うん……うん、ありがとう。ごめん」
心ごと埋めてしまいそうな雪が外を真っ白に染めている。それなのにゆっくり夜が近付いてきて、すべて黒く消えていく。
私は凍えるように、その向こう側へ。
歩いて、消えて。
「ああそうだ、夏木くんに頼みたいことがあります」
鞄を背負ってコートを持ち、帰る準備を整えてから彼に声をかけた。命を失ってしまったみたいに立ち尽くす夏木くんは、少し意識を手元に取り戻して首を傾げる。
「萌葱さんに。愛は確かめられました、ありがとうございますとお伝えください」
「それは……」
残酷だな、と笑った。
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酷い豪雪の日に、すっかり押し潰されている笹を見てこの不親切な話を思いつきました。冬らしく愛を雪に例えたので、是非2度ほど読んで頂ければ笹雪の愛が伝わるかと思います。