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バレンタインの知【cacao50.5%】@秋花

 そこは暗雲に満ちていた。戸は締まり、そこにいる者は誰もが口を閉ざす。許可がないからだ。黒いフードに身を包む数十人の彼らは、今日この日に限っては確かに心を通わせる信者となっていた。

 彼らは中央にいる少年を取り囲んでいる。まるで贄だった。少年は学生服に身を包み椅子に縛り付けられていた。


「かのソクラテスが好んで使った門答法に、ある有名な例がある」


 ただ一人、その中で口を開く者がいた。その男は教卓の前にいた。カツリと靴底を鳴らし、男は続けて口を開いた。


「『バレンタインに幸福はあるか?』だ。みな、誰もが『ある』と答えた。しかし、ソクラテスは『バレンタインに贈る相手はいるか』と言った。無論、悲しみを知る者は首を振り、頬を赤く染めるものは頷いた。再度、ソクラテスは問いを投げた。『バレンタインは悲しいか』――ある者は涙ながらに頷いた。ソクラテスは『幸福になるものもいれば虚無の者もいる。これは本当にバレンタインと言えるのか』と声高に謳ったのだ。感銘を受けた人々は、これを『バレンタインの知』と呼んだ」


「おい嘘を吐くんじゃない嘘を――ッ!」


 もはや我慢せずと一声挙げた中央の贄――矢部篤(やべあつし)は、黒フードの一人に大きく頭を叩かれる。


「黙れい! 貴様、木原隊長の御前なるぞ口を慎めい!」

「うむ、ご苦労である白崎よ」

「いやいい加減にして?! 俺起きたの! 起きて朝飯食ったの! 学校行ったの! なんでこんなところであほくさい目に遭わなきゃならないんだ?!」

「いい質問だ」


 木原はそのゴリラが如く太い腕でマントを翻し、矢部に懐中電灯を向けた。


「今のモーションいるの?」

「見えるか」

「眩しくて何も見えん」

「これが罪に目を眩ませた男の末路か……食堂のごみ箱にボッシュートしておけ」

「お前俺に何の恨みがあるの」


 木原が電灯の向きを変えると、矢部には彼の手元にあるものがようやく見えた。長方形の箱に、ご丁寧にリボンの飾りが取り付けてある。


「チョコ?」

「たわけめ。ここでは『ちょこ』などというハレンチな呼び方ではない! 『知恵の実』だ!」

「なんでよりによってそれなんだよ。蛇がチョコレート会社ってか」

「……実は、これが貴様の下駄箱の中に入っていたのだ」

「図星かよ! ……え?」


 矢部は思わず顔を上げた。そこにあるのはまごうとなき知恵の実(チョコレート)(はは)が矢部の肩を叩き、唯一入手カウントを増やしてくれたものではない。あの美しい包装、見間違いようのない――本命チョコ。


「え、まじで。え、だ、誰っ?」

「おっと勘違いするなよ乙(被告)矢部よ。決して貴様が中学から片思いをしているマドンナ麗華嬢ではない。そうであれば即刻焚チョコにしているわ」

「俺お前に何かした? ねえ俺何かした?」


 今も恋い焦がれる少女からのものではないと知り、矢部は人知れず肩を落としたものの、それでも誰かからチョコを貰えたという事実が彼の心を浮足立たせていた。


「手紙がある」


 仰々しく木原が懐から折りたたまれた紙を取り出した。


「おお」

「これを――白崎」

「はい、燃やします」


 ――一瞬で矢部に舞い降りた青春の風は真っ赤に燃える火の粉と共に羽ばたいていった。


「ああああああ!!!」


 絶叫だ。絶叫である。矢部は魂からの叫びをあげていた。

 燃えた紙切れは白崎の足元にある、水が浸った水桶の中に沈んでいった。


「間違えた。今のは白崎のロッカー内にあった手紙だ」

「隊長、聞き捨てにならない言葉が」

「うむ、白崎。実は今日母が弁当に納豆をくれてな……お前に――」

「おい! 誰ぞこの燃えカスをごみ箱に捨てろ! ちゃんと水を捨ててからだ!」


 ここで一言補足を加えるのであれば、白崎は納豆中毒者(ジャンキー)である。

 それは白崎の母であり父であり恋人であり家族である。

 赤ん坊の頃から納豆で遊び、幼稚園では朝昼晩食さねば落ち着かない体となった。

 ――とは日々白崎は口にしている言葉だ。その真偽は定かではない。だが、もし『恋人か』『納豆か』という二択があったとすれば、間髪言わずにこの男は納豆を選ぶだろうと誰もが思っていた。


「それで、これが本物なわけだが、これが、我々にも読解が不可能なものでな」


 木原が再度懐から取り出したるは手帳であった。


「手紙じゃないな」

「うむ、手帳だ。読むぞ」


『一月一日 お雑煮は美味い』


「なあ?! それ誰かの忘れ物だよな?! 絶対にバレンタイン関係ないよな?!」

「馬鹿を言え。女の心を男が悟れるか。最後まで読むぞ」


『一月八日 今日、久しぶりにスカートを履いた』


 手帳の様子から、それは少女のものであることが伺えた。もしかしたら、チョコレートを渡してくれた少女の落とし物なのではないか。


『一月九日 矢部が牛乳パックを買った。なぜこいつは伸びない身長であるのに飲み続けるのだろう』


「落ち着け矢部。縛られている状況下で無理に立ち上がるな」

「白崎! 縄を解け! 燃やしてやる! 俺の身長はまだ発展途上だ!」

「知り合いとわかっただけいいだろう。この口ぶり、もしかしたら小野かもしれないぞ」

「じゃあこれ悪戯か?! あの女、幼馴染だとしても許せねえ!」


『一月十日 矢部の体操服が目に眩しい。今度何の漂白剤を使っているのかを訊いてみようと思う』

『一月十一日 矢部の寝ぐせがまるで魔法陣のように宙を泳いでいた。陰ながらスプレーを使って固めておいた。これで延命措置は十分だろう』


「一週間も寝ぐせが取れなかった原因はお前か?!」

「あの芸術みたいな髪型にはやはり創作者がいたか……」


『一月十六日 休日の間にスプレーの効果が切れたのか、矢部の頭が元の鳥の巣に戻っていた。かわいそうに。そういえば、気がつけばいつも矢部を見ている』


「どうやらここから恋の始まりのようだ」

「俺は既に終わったけどな」


『一月十七日 矢部が牛乳パンを買った』

『一月十八日 矢部が靴ずれを起こしたようなので、気づかれないうちに家に靴を持ち帰った。靴から矢部のにおいがした』

『一月十九日 矢部の家の前を通った。洗濯物が見えた。ブリーフは父の、可愛らしい柄のトランクスが矢部のものだ。判別がつけるようになった自分の才が恐ろしい』


「ここまでは……まあ変なところはあるけどまだ普通の日記じゃないか?」

「本番はここからだ。ここからは我々一団の頭脳でも理解が不能だ。……ここからは随分間が空いているんだが……」


『一月二十八日 息をしている』

『一月二十九日 息が、温かい。幸せだ』


「なあ、矢部。ここまで読んでなんだが、何も見なかったことにして手帳を閉じるつもりはないか。この手の中にある知恵の実も、ないものとしてゴミ箱に捨てないか?」

「急に何を……」

「一月の二十八日と二十九日だ。覚えはないか」

「さすがに一か月も前のことなんて覚えてねえよ」

「……休日(・・)だ」

「――っは!」


 次第に、日記の行方が不穏になっていくのを感じた。


『一月三十日 隣にまたあの女がいる。二つ縛りの女だ。いつもいる』

『一月三十一日 どうすれば彼に私を気づいてもらえるのだろう』


「待ってくれ」

「愛されてるな、矢部」

「なあ、なんで優しく縄を解く? どうしてフードを脱ぐ? おいどうして解散の指示をする?!」

「安心しろ、俺は最後まで付き合うぞ」

「し、白崎……!」

「さあ最後まで読もうじゃないか」

「もう何も見なかったことにして全て燃やさない? 今こそ焚チョコをするべきじゃない?」

「わかった、じゃあバレンタインの日まで捲ろう」


 白崎と共に残ってくれた木原がページを捲り、それを俺に見せた。


『二月十四日 こんにちは! 僕白崎です! 怖かった?』


 その一文を見た瞬間、矢部は迷わず白崎に拳を打ち込んだ。

 迷いのないボディブロー。流星が如く駆けた拳の動きに白崎は反応すら取れず、油断しきった腹部に一人の男の怒りが走った。

 白崎は呻き声をあげながら膝をつく。矢部、渾身の一発であった。


「――くっそ怖かったわ!!!!」


 そう叫ぶ矢部の目じりには、ほんの一滴だが涙が乗っていた。


「あーもうなんなんだよ! 朝っぱらから連れ去られたと思ったらチョコ見せられるわ! チョコ貰ったと思ったらサイコホラーだったわ! サイコホラーかと思ったら引っ掛けだったわ!」


 帰り道、矢部は未だに文句を言い続けていた。両端には木原と白崎がおり、木原は一向に笑いが治まらないようだった。


「まさかあそこまで引っかかってくれるとは思わなかった。お前は最高だ! 来年も期待している!」

「二度もやってたまるか?!」


 不服そうに口を曲げる矢部の背を叩き、木原が「じゃあ、俺は帰り道こっちだから」と別の道へ去っていく。帰り道とは一人一人が消えていくものだ。太陽に射された家々からできた影が、地面の上を動く。


「これって提案したのお前?」


 白崎は矢部の言葉に頷いた。


「よくこんな手間をかけるようなことするなぁ……後半で急に文体変えるのとか、あそこ特に怖かった」

「あそこは俺じゃない」

「そうなの?」


 白崎は一つ頷くと続けて言った。


「あれは俺の日記だ」


 日記、と言われて当初書かれていた寝ぐせ等々のことを思い出した。


「そういやあのスプレー、お前……」

「だが、一度どこかでなくした」

「は? どういう――」


 白崎は鞄から先ほどの手帳とチョコレートを取り出して、矢部に渡した。

 変哲もない黒い手帳と、バレンタインデーで好んで使われそうなチョコレートの包装だ。春を連れてこようと駆け足を早める風が、リボンの先を揺らした。


「次に見たのはお前の下駄箱だった。チョコレートも実際に入っていた。これは騙していない」

「え」

「途中から書いてある日記は、俺が知らない誰かが書いたものだ」


 「じゃあ」と、白崎は呆ける矢部に踵を向けて自分の帰り道に向かった。

 後に残ったのは、自分の下駄箱に入っていたとされるバレンタインデーの贈り物と、矢部本人だ。

 矢部は手帳を捲る。途中から明らかに筆跡の違う日記が、つらつらと続いている。矢部は、あるページで手を止めた。


『二月十三日 見てくれた?』


 空は快晴。天から落ちる太陽は直に赤くなる。長く伸びた自分の影の足元で、もう一つ長く伸びた細い影が近づいてくるのが見えた気がした。

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