そこに咲き誇るのは。【cacao90%】@凪狐
※この作品にはガールズラブ要素が含まれます。
私、樋野 茜は重大な分岐点に居た。
進めば待っているのは極上の至福。もしくは最悪の結末。
だけど、引くことは出来ない。許されない。
「……よし」
気を引き締め、丁寧にラッピングした小さな箱を鞄にしまう。中身が崩れてしまわないように、ゆっくりと、ゆっくりと。でも中身は熱で溶けてしまうもの。だからずっと持っているわけにはいかない。
「くしゅん!」
不意のくしゃみ。汚いとは思いつつも箱を両手で持っていたんだ。手で口を塞ぐことが出来なかったのは平にご容赦願いたい。
気を改めて箱をしまいきった。
そして付けっぱなしにしていたテレビの、左上に流れている天気予報と時計を見て気づく。
「……うわあ」
天気は晴れのちくもりらしいが、時間はすでに普段私が家を出る時間を過ぎていた。
こうしちゃいられない。
私は手早く寝間着から高校の制服に着替え、厚手のコートを羽織る。白いコートだ。
足は冷えないようにタイツを履く。いつもの私ならこれで家を出るが今日は違う。
『――本日はバレンタインデーと言う事もあり、○○公園では多くの恋人達が――』
そう。今日はバレンタインデー。
キリスト教が云々は私の知ったことではないし、なんならチョコレート業界の策略に手のひらで踊らされている気もしなくはないが、バレンタインデーなのだ。
バレンタインデー。それは女の子が好きな人にチョコレートを渡す日である。
つまり。私が遅刻しそうになりながらも、こうしてせっせせっせと準備しているのはバレンタインデーの事だ。
洗面所の鏡でほんのりとナチュラルメーク。少し跳ねた寝癖も直しリップクリームをサッと塗る。よし、完璧。
家を出る時間がいつもより十分程度遅れたが、準備万端。なに、あまりに慌てていたからと言ってコート着てからメークとかするものじゃないが、それでもそれが家の動線的に一番の時間短縮法なんだ。気にしちゃやってられない。
いつも綺麗にしているローファーは履き、マフラーを首に巻く。温い。
「……いってきます」
私の戦いは、今日。始まったばかりだ。
二月十四日。つまり冬真っ盛り。たとえ後二週間後には三月だとしても冬は冬。
息をほうっと吐き出せば、エクトプラズムみたいに白い息がほわわと広がる。
シャリ、と霜を踏み潰す。快音が小さく響いた。
でも私は、そんな事には構っていられないのだ。
少し早足でいつもの道を歩く。
通っている高校は私の家から徒歩十分程度ののどかな田舎道と、この地域にしては流行を取り入れたようなきらびやかな町との間。ごく普通の高校。
時間の流れとは振り返ると早いもので、私の高校生活は残り一年と少しといったところ。そして、大学で自由気ままなスクールライフを夢見る私には悲しい事に、三年生になれば過激な受験戦争に嫌でも参加させられ、一年後には死屍累々とした人々の山があちこちに築かれるのだろう。
是非とも私はその死体の山の一部にはなりたくないものだ。
「おはよー、茜」
「ん、おはよう。紬」
気付けば校舎の目の前。後ろから声がかけられて振り向く。
そこには、紬が居た。
現実世界でこんなに髪が綺麗で長い人は居るのかと言うほどに、丁寧に手入れのされた艶やかな黒髪は、腰はおろかスカートまで伸びていて先端で纏まっている。
私の名前を呼んだ小さな口は冬だと言うのに乾燥の陰は見られず、それどころかしっとりとしている。それは唇に限らず、決め細やかな肌にも言える事だ。更に言えば、そんな天使の頬はほんのりと朱が混じっていており、より一層美少女さを際立てていた。
「今日も可愛いな」
「えっ、あ、その……あり、がとう」
ポロリと本音がこぼれ落ち、紬がそれを拾ってしまった。それだからか紬の頬に表れていたほんのりとした朱は、赤。それどころか紅と言ってもいいほどに顔を真っ赤にしていた。
お互いに無言の状態で校門を潜り抜ける。なんとか遅刻にならずにすんだ。
と、そこで今更のように思い出す。バレンタインデーの、チョコレートの事。
「ねえ、茜」
紬も必死に話題を探していて、ようやくその話題を見つけたのか声をかけてきた。
「どうした?」
「その。今日、バレンタインデーじゃん?」
実にタイムリーな話題。教室に入っても未だに顔の熱が引かない紬は、更に顔を赤くさせても話を続ける。
「茜は、そのー……好きな人とか、居るの?」
「好きな人、か」
言われて悩む。どうしたものかと。
私が好きな人は、恐らくそれを気付いていない。だからこのチョコレートは本命ではなくて、友チョコとして渡せばこの先ずっとぬるま湯のような暖かい関係を続けていけるのだろう。
でも。それでも私が望んでいるものは、体の芯まで暖かくなるような熱。その熱を私のものに出来る手段なんてものは当然、その人と付き合うだけしか出来ず、だからこそ私はそれを望んでいるのだ。
しかし、物事いいことずくめではない。
失敗。失恋。そうして待ち受けているものは残酷なまでに冷たい現実。そんな酷い目を見るくらいなら、このままの関係を続けている方がいいだろう。
何せ、私が好きな人はこの学園の。いや、田舎だからこそなのか、この地域の一番のアイドル。いや、天使。紬。
「私は、居るんだ……えへへ」
照れ笑い。紬がいきなり私の横で嬉しそうにそう言った。
「……え、今、なんて?」
「居るの。好きな人。ずっと憧れていた人が」
ピシィッ!
私の心に、ヒビが入る。弾丸のような言葉に私の心が射抜かれ、そこを中心として放射状にヒビが入る。
「うへへへぇ」
だらしない感じながらも、天使どころか女神のような笑顔の彼女。その紬の笑顔が、今は痛々しいほどに私のヒビの入った心を砕いていった。
私は放課後になるまで、チョコレートの事なんか忘れて、紬の言葉がリフレインしていた。
『居るの。好きな人。ずっと憧れていた人が』
「あー、うー」
駄目だ。考えちゃ駄目だ。紬の好きな人の事なんか考えちゃ駄目だ。
そう、私と紬は女友達。それなら私は紬の恋を応援すべきだろう。それが一番健全なんだ。だって、だって……!
「だって……私にとっては、紬が一番の存在。なら、紬が幸せならそれで……」
それで、いい。それがどうしても言えなかった。
それと同時にストンと心が楽になった。
「……そうか。私はやっぱり紬の事が好きだったのか」
誰も居ない教室で、自分の机にうずくまって言葉を漏らす。こんなこと、誰かに聞かれたら。そして広められたら。
きっと私だけではなく、紬にも迷惑がかかるだろう。
でも。分かっていても、口に出さない事が出来なかった。
「帰ろ……」
鞄を肩にかける。廊下を渡り、階段を降り、玄関口でローファーに履き替える。
そこで紬の後ろ姿が見えた。隣には楽しそうに笑う小柄な優男。
「なん、で……」
確かにいつも帰りは一緒とは決めてない。でも、酷く裏切られた気分で。
身勝手だとは思う。それでもそう思ってしまったのだ。ついさっきまでの応援しようという思いを蹴り飛ばしてまで。
私は徒歩十分程度の、整備が行き届いていないでこぼこ道を蹴り飛ばして走った。
一番の友達に裏切られたという感情を抱いたんだ。私とは縁も縁もない、晴れのちくもりと言った天気予報師の言葉が嘘で裏切られたとしても、私が咎める事はきっと出来ない。
私は流れる涙を冷たい雨で誤魔化し、水を吸って酷く重くなったコートとマフラーを身に纏って帰路へついた。
「う……寒い」
玄関でコートとマフラーを脱いで身震いする。濡れた体に誰も居ない家の、ツンと冷えついた空気が突き刺さった。
急いで暖房をたき、シャワーを浴びる。
湯気で曇った水垢一つない鏡をお湯でサッと洗い流してみる。そこには赤く腫れぼったい目をし、遺伝の影響で明るい茶色の短い髪をした女の子が居た。私だ。
「……はは、酷い顔」
自嘲気味に笑う。鏡の私は、そんな私を見て嘲るように笑う。……凄く、惨めだ。
それでも私の頭の中にあるのは紬の存在だけだった。
お湯に浸かる事なくただ、シャワーに打たれる。ジーンと体の中に熱が広がっていく。同時に、さっきまで止まっていた涙が、また流れた。
私は流れ落ちる涙が止むまでシャワーを浴び続けていた。
シャワーから上がり、湯冷めしないようにモコモコとした部屋着を着る。
いつもは後回しにしがちな勉強に取りかかるも、頭の中で私の勉強の邪魔をするのはやっぱり紬の存在で。
それからふと、気付く。
「チョコレート、食べなきゃ」
鞄の中に丁寧にしまったチョコレートは、さっき走ったせいで欠けているだろう。
鞄の中を漁ってみるとノートで少し形が崩れた包みがあった。包みを開けてみると、ボロボロになってしまった私作のチョコチップクッキー。今となってはその面影はなく、粉々だったりする。
仕方ないし捨てるのも勿体ないから、それをつまみながら勉強するとしよう。そう思って大きい一欠けを口に放り込む。
噎せた。
「うわぁ、なんでしょっぱいのこれ……」
苦々しげに呟く。しょっぱいのに苦々しげとはこれいかに。なんて心に余裕が出てきたのか、単に現実逃避したいのか。
ただ一つ言えることは、これを紬に渡さなくて良かったと言うことだ。だって失敗作を好きな人にあげるとか、考えたくないけど嫌われる可能性だって充分にある。
そうだ。これで良かったんだ。
泣いてるのは、悲しいのは、苦しいのは、心にポッかりと開いたこの虚無感は。
それはきっと紬に対しての、私の恋情で。
そして私の初恋は、誰にも気付かれる事なくひっそりと、息を潜めた。
あれから何回も考えた事がある。
もし。私が紬にチョコを渡せていたら、どうなっていたか。
もし。私が紬に告白していたら、どうなっていたか。
もし。私が紬とあのタイミングで付き合っていたら、どうなっていたか。
あくまでそれらは、たらればの話。
でもそのたらればを、何度も何度も考えてしまうのは、まだあの時の事件に未練があるから。
「ふぅ、こんなところかな」
あのバレンタインの日に使っていた鞄を使うのも、今日が最後。
卒業式だからだ。
私は支度を整えるといつもよりも少し早めに家を出る。
かつて雨の中で濡れて帰ったでこぼこ道は舗装され、綺麗な黒いコンクリートの道路を、ローファーを鳴らして歩く。
「おはよー、茜!」
天使が私に声をかける。
紬。三藤 紬。私の天使の名前。
今日も長くて綺麗で艶やかな黒髪を靡かせている。
一陣の風が吹いた。
「おはよう、紬」
頭の上では桜の花びらが紬の髪にそっと乗る。
そして、私はそれを見て微笑む。
道端には白い百合の花が二輪咲いていた。
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