くものまにまに【cacao 85%】@DakenQ
拙い腕ですが、一つ物語を紡がせていただきました。少しばかり長いですが、お付き合いくださるとうれしいです。
方向感覚も色彩の感覚もくるってしまいそうな、真白の部屋に無機質な音が響いていた。一定周期でなるそれは、しかしやがてその頻度を減らしていく。
そんな部屋の中で、一人の男が少女の手をぎゅっと握っていた。その目に浮かぶのは涙。顎を伝って、その涙が少女の病的ともいえる白さの腕にぽたりと落ちる。それでも少女は目を覚まさない。
――もう二度と、目を覚ますことはない。
◇
それは突然に訪れた。
カズが彼女のカツラギと下校しているときに、唐突にカツラギの足がかくんと落ちた。それはあまりに自然で、カズにもカツラギにもそれがさしたる異常であると気づかせることはなかったのだ。
ちょっと寝不足がたたったのかなぁ、とカズの隣で笑うカツラギに、ああそうなんだな、とカズはなぜか納得していた。
それからもいくらか不調は連続した。突発的に襲い掛かる頭痛。時折体を支配する脱力感。それらを全て疲労のせいにして、カツラギは高校生活を送り続けた。……それが破滅に対する警鐘であることは、まったく、彼女には知る術などなかった。
そんな警鐘がカツラギに警告していた最悪の事態が、ついに目に見える形となって二人に襲い掛かる。
カズは、白い病室でそんな日のことを思い出していた。手をつないで歩いた、ちらほらと雪が舞う公園。唐突に落ちるカツラギの体。いくら呼び掛けても返事をしない焦燥に、何をすべきかを一時忘れてしまっていた。
結局通行人が異常を察したのか、救急車を呼び事なきを得た。……いや、事なき、ということはない。そんなことを、カズはカツラギを見ながらふと思う。
流行のファッションに身を包んだ、どちらかというと清楚な雰囲気をまとっていた少女。それがカツラギだった。だが、今はどうだろうか。そんな雰囲気はどうやっても感じられず、薄い水色のパジャマがいっそい悲壮な雰囲気をまとわせている。
たった今も立てている寝息は、おおよそ安寧や平穏といったものではない。むしろその逆の位相。何かに苦しそうに、あるいは悲しそうに息を吐いている。
カズはそんなカツラギの頭を撫でて、せめて夢くらいは平穏で安全で幸せなものを見れますように、と願いを込める。そんなことしかない自分に、何か絶大で、巨大で、淘汰しようのない絶望を感じながら。
ゆっくりと、あやすように。愛情を込めながらカツラギの頭を撫でていくカズ。黒くて細い髪は、一切とどまることなく、その滑らかさをカズに伝えてくる。この髪とカツラギの心根だけが、いまだ残るカズの知るカツラギだった。
「……カズさん、こんにちは」
「あ、先生。こんにちは」
空いた扉のほうを見ると、そこには純白の白衣を着た、優しげな雰囲気をまとう壮年の男性がいた。この病院きっての医者で、カツラギの主治医でもあった。
そんな彼は、カツラギの容態を計器を見て確認し、それを逐一メモに書き記していく。そこに書いてある数値は、カズにはわからない。でもそれらが、心臓の脈動の数や血に関する情報を集積する機器であることは、何となくわかった。
ウィリス動脈輪閉鎖症。別名モヤモヤ病と呼ばれるその病気は、脳の血管に関する病気であることをカズは知っていたからだ。
ひとしきり計測を終えた先生は、カズに向かってゆっくりとつぶやいた。
「あと、二日だねェ」
「………そう、ですね」
「カズくん、万が一。万が一を考えておきなよ。――後悔がないように、ね」
「………」
その言葉が差す意味は、カズには理解できていた。あと二日。それはカツラギの手術までの残り日数である。四十八時間。それだけで、カツラギとカズのこれからはすべて零に還元されて終わりを迎えてしまう。
そんな現状に深い憂いと憤りを感じているが、しかしカズには何もできない。その歯がゆさが、カズの焦燥を掻き立てた。彼女のために何もできない自分が、ひどく恨めしいものに感じられたのだ。
だからこそかもしれない。そんな死にゆくカツラギに、自分ができることは何か。それは別に、病気の治療等に関するアプローチ以外に存在していることに、以外にも気づいてはいなかった。
悔しさに唇を噛む。拳が白くなるほど握られた。目は鋭く伏せられ、しかしその雰囲気は「敗北感」の三文字が似合うほどに悄然としていた。
「……カズ?」
「カツラギ」
「どうしたの? 何か心配なことでもあった? そんな怖い顔して……」
まるで、これから自身の身に起こることを知らないような態度。その態度にカズは、少しだけの怒りと惚けを顔に滲ませて返した。カツラギはそんなカズに、穏やかな笑顔を浮かべながら話しかける。
「………烏滸がましいかもしれないけど、自意識過剰なんだろうけど。もしもカズが私のことで悲しんでくれてるなら、心配してくれてるなら、あまり気に病まないで」
「でも……」
「でももへちまもないわ。そもそもこれはカズのせいでもなんでもないんだから。なるべくしてなった、そういうものよ、これは」
それでも、とカズは吐き出した。それでも、悲しいし、何もできない自分が悔しいと、そうつぶやいた。噛まれた唇からは血が滲み、握り締めた拳は、まるで痙攣を起こしているかのようにプルプルと震えていた。
瞠目するカツラギ。ここまで自分は思われていたのか、と。ここまで彼は、私の身に起こる不幸を自分のせいにしてしまっているのか、と。その心が嬉しくもあり、少し悲しくもあった。
――彼女は、理解していた。
自分の死期を。
どうせ長くは生きることができない、と。
そんな自分に。死に近づいて憔悴している自分に。彼はまるで、その不幸が自分の身に起きていることだといわんばかりに悲しみ、自分のせいだといわんばかりに後悔し懺悔していた。
優しい。底抜けにやさしくて馬鹿な彼に、自分に何ができるだろう。カツラギはそう考えて、ある結論に達する。
「そこまでいろいろ言うなら、ちょっと私からお願いしてもいいかな」
「……うん」
「じゃあ、売店に雑誌買いに行って!」
「わかった。ちょっと待ってろ」
一二もなく、カズは病室を出ていった。半ば冗談のつもりでそういったカツラギは、そんなカズの行動に少しだけの申し訳なさを感じた。そしてゆっくりと、息を吐く。
呆れの吐息ではなく、何かをおもんばかるような吐息。その憂いの対象は、もちろんカズだった。
カズはカツラギと恋人の関係だ。だからこそ親身に接してくれるし、自分の背負っている悲しみの一部を背負ってくれる。しかし、カツラギとしては、その苦しみや悲しみは自分で背負うべきもの。そして、親身にしてくれればしてくれるほど、カツラギが死んだ後に彼に残る絶望や悲しみは増幅してしまう。だからと言って、今この時期このタイミングで彼と自分を切り離せるはずがない。……何となく、カツラギはそう思っていた。
やがて、カズが扉に手をかける音が聞こえてきた。十数分の間があった。カツラギの気持ちは、少しだけある一定の方向へと決まりつつあった。それがたとえどんな結果になったとしても、カツラギが、カズが後悔しないように。そんな気持ちを胸にしながら、カツラギは一つ、自分の胸に決意を宿す。
「……よしっ」
「どうしたんだ?」
「ん? いや、何でもないよ。ただちょっとね。思うところがあっただけ」
「………何かお願いがあったら言ってくれよ? 俺にできる事なら、全力をもって遂行してくるからさ」
「ふふ、ありがとう。でも、今はその必要はないかなぁ。……そうだ、じゃあ、思い出話でもしようよ。それがお願いってことで!」
「お安い御用だよ。じゃあ、何から話そうか――」
カツラギとカズの一日は、こうして今日も過ぎた。かけがえのない一日だった。そんな一日を、彼らは思い出話でつぶしたのだ。……それは愚かしい行為だろうか? もったいない行為なのだろうか? ならばこそ、彼らは答えるかもしれない。――何もない一日こそが、一番幸せなのだ、と。
◇
ある夜、カツラギは母と主治医を呼び出していた。そこにカズの姿はない。彼は面会終了時間に帰ったのだ。そのことはカツラギにとってとても心細く感じさせるものでもあったし、しかし都合がいいとも言えた。
なぜなら、今から話す願いは秘密のもの。カズには明かせない、明かすことは許されないお願いだからだ。それは彼女の一方的な好意で、かつ自己中心的とも言える願い。だからこそ、彼女は『押し付ける』。
それをカズはきっと悲しみを持って受け入れるだろう。よしんば喜んだとしても、それを真に好ましく受け入れることなど、ありはしない。
それでも。それでもカツラギはやらなければいけないと思った。愛の途中に彼を置いて逝ってしまうために。カズがカツラギの死によって恩讐の彼方に走ってしまわないように。
現世とあの世を結ぶ楔として、彼女はそれを作ることを二人に乞うた。それは甘やかで、されど儚い、一種菓子的で。
「……お願いが、あります」
そう切り出された声に、母は気づく。そこに否定の意思を認めないとばかりに込められた強い意思に。黒くぱっちりと開かれた目の中には、なにか爛々と光るものが感じられたからだ。それは彼女が強情を押し通す際に必ずと言っていいほど宿る光だった。
ゆっくりと本題を切り出す娘に、患者に。しかし驚きは返さなかった。返すことは愚かしいことで、生者であるこのカツラギという人間に、何か礼を失するような羞恥を覚えたからだ。
うわ言のように滔々と語られるその願いは、二人の耳に入る。幾ばくかの思考の後、最後だから仕方が無いだろうと、その願いに関しての許可を出した。
月夜に白いカーテンが翻った。今まで電気を消していて暗かった部屋に、一筋の月光が走る。そんな月光に照らされる彼女の顔は、少しだけ満足そうに見えるのだった。
◇
翌日。それはカズの心とは対照的に晴れだった。光り輝き、地上の人間を、ものを遍く照らす太陽は、カズの心だけは照らさなかった。寝不足のせいかな、とは思うカズだったが、なんとなくそれだけではない気がした。
重い足取り。なれど普段より進む速度は速い。それは焦燥からか、はたまた不安だからか。カズはその二つの感情が類似したものであるとは気付いていなかった。……否、判別することが出来ずにいた、と言った方が正しいだろうか。
そんな闇鍋にような心のまま、カツラギの病室の前に立っていた。扉を開けようとする手が震えた。なぜだかわからない。手術前日だから、一時も早く彼女と触れ合って、その心の枷から解き放ってあげなければならないのに。しかし、そんな焦りとは裏腹に、今ここで、カズの歩みは止まってしまっていた。
扉の取っ手に手をかける。しかしそこから手は動かない。動かそうとは思わない。……何故かは誰にも、ましてカズにも理解しようがない。その感情は、カズにとって未知で、故に戸惑いも深いものだった。
「……あら? こんなところでどうしたんですか?」
「カツラギの見舞いを、と思って」
「あー。いまカツラギちゃんは手術前のCT検査よ。ちょっと時間がかかるから、部屋の中で待ってたら?」
「……はい。ありがとうございます」
そう言いながら、カズは彼女の病室の丸椅子に座る。彼女が手術前日であるという事実は、そこに座って空虚なベッドを見ていると否応なしにカズへと突き刺さる。そこを延々と見ていられるような気もした。でも、体は割と正直だった。徹夜をして寝不足だったカズは、長椅子に座ると同時に睡魔に襲われた。何も出来ずに、睡魔に敗れたのだ。
閉じゆく意識に抗う術はない。ゆっくりと昏い海へと身を沈ませていく。一瞬、瞼の裏に彼女の笑う姿が見えたような気がした。
ああ、これが現実だったらどれほどよかっただろう。
夢の世界へと潜り込んだカズは、今目の前の光景を見て、本当にそう思った。これはカズとカツラギの思い出。一昨年の、最も輝いている思い出の記憶だ。
さんさんと光る太陽に白い砂浜、青い海。美しいそれらは、思い出補正という名のフィルターによって、より一層輝いて見えていた。はねる水滴、寄せる波。カズにはなんだか懐かしいような切ないような気持ちが生まれた。
ああ、砂浜を走る君がいる。
胸あたりまで伸ばした黒髪に、白色のビキニと空色のパレオが映えていた。今とは違って程よく健康的に肉がついた、瑞々しいともいえる肢体だった。あまりにも今とは違うそれに、むしろカズは違和感を覚えてしまった。
でもなぜだかカズには、胸の中に、目の奥に、腹の底に。なにか熱いものが溜まっているような気がしてならなかった。
視点はそんなカズを慮るようにして、見慣れた通学路へとシフトしていく。季節は冬。枯葉が舞って、今しがた中央を歩いてきた二人に近寄っていた。
目に見えるふたりは手を繋いでいた。ゆっくりと連れ添って歩く二人の顔は、照れなのか寒さのせいなのか赤くなっていた。――初々しい。カズはそう思った。
ただ、こんな日常の、どこにでもある一コマ。それが今ではたまらなく愛おしく感じている。でもそんな日々に憧憬を抱くと共に、カズの胸中には恨み辛みが溜まっていた。
ただただ、こんな日々を送る人間たちは滅べばいい。カツラギの前に伏して謝罪するといい。そんなふうに思っていたのだ。でもそれは不可能で、まして自分にも返ってくる言葉だった。
自分たちがあの時のうのうと過ごしている時も、人の命はこうやって減り続けていたのだと。それらの憧憬を一心に受けたのだから、次はお前らが憧憬する番である――そう言わんばかりに。
また視界が変わる。……再び海だ。しかし今回は場所と時間帯が違った。以前とは明らかに違う砂浜の造形、そして橙色に染まった辺り一体。……去年の夏だ、とカズが判断するのにさして時間はかからなかった。
カズとカツラギの最大にして最後の思い出。カズはそれを愛おしげに見つめていた。視界の中の二人は、今しっかりと抱き合っていた。肌と肌が触れ合い、そして薄桃色のふっくらしたものと触れ合った。
じっくりと、何かを確かめるように行われたそれ。その日の思い出を、熱い唇の輪郭を、カズは指でなぞった。知らず、涙が出ていた。なんだか頬が暖かくて、だからこそ涙が溢れ出てきた。
切なくて、ただただ悲しくて。そして愛おしくて。再三に渡ってカズの胸中を支配したそれらは、今やカズの心を暖かく、残酷に包み込んでいた。
二人の影が長く砂浜に伸びているのを見て、ゆっくりと意識が覚醒していく。薄れていく夢の輪郭に手を伸ばすが、カズの手は空を切った。掴んだ拳は何も掴んでおらず、代わりに彼女の右手を掴んでいた。
「……おはよ、ぐっすりだったね」
「ぁ……。あ、うん、おはよう」
そう言いながら、カズの頭を撫でるカツラギ。ゆっくりと撫でて……ふと何を思ったのか、カズの目尻へとその指を持っていく。
「カズ、泣いてる」
「えっ――」
「いいこいいこー……ってやったらいいのかな?」
ゆっくりと、まるで赤子をあやす様な口調でカズの頭を撫でるカツラギ。その手の温もりが、そして思い出の時とは違った指の細さと白さが、何か言うようのない気持ちをカズに抱かせた。
甘やかで、でも悲しい何かを、カズはゆっくりとその胸にしまおうとする。カツラギの前では泣いてはいけない。何故か、そういう見栄があった。
でも、押し込んでも押し込んでもその気持ちは溢れてくる。ただ彼女に撫でられているだけで、カズの心は悲鳴をあげていた。自分の心を守れと理性が働き、涙を流そうとする。でもそれをカズは理性で踏ん張った。
涙を流すべきは彼女だ。自分ではない。でもそんな決意は、彼女の掌がカズの頭を右往左往するたびに溶けていきつつあった。今までの思い出、決意。それらが怒涛となって、彼の心を温かく溶かしていく。
気づけば、カズの目には涙が一筋流れ出ていた。それは頬を下って、やがてカツラギの白く細い指先にぬぐわれる。
「も、もう……あの日々には戻れないんだなって」
唐突に語られたその言葉にも、彼女は頷いて、なおもカズの頭を撫で続ける。夕日がカーテンの隙間からこぼれて、二人を照らす。
橙色に染まる室内で、不意にカツラギがカズの頭を抱きしめた。ふんわりと香る石鹸のにおいと、昔に比べて少しやせた体。それらを頭で感じて死の香りをそこに感じてしまったカズ。もう、彼の理性の防波堤は決壊してしまっていた。
顔はクシャクシャだった。涙は滂沱として止まず、カツラギの淡い空色のパジャマを湿らせていく。
声は上げなかった。上げたら気持ちが逃げてしまいそうで、なんだか嫌だとカズは思ったからだ。そんなカズを、カツラギはまるで慈母のような目つきで撫でていた。ゆっくりと、何かを鎮めるように。
しかしその撫で方には、少しばかりの悲しさを感じることもできた。名残惜し気に、カズの髪に自分の指を巻き付けるカツラギ。指の間からするりと抜ける髪の毛が、余計哀愁を誘った。
「……私は、未来に生きるよ」
「……?」
唐突に頭上から降り注いだ声に、カズは疑問符を浮かべて返した。そんな反応すらもいとおしいと頭をもう一度撫でて、カツラギは続けた。
「きっとね、これは私がこれからを生きるための試練。成功する確率は三割で、失敗する確率は七割。……生か死か。どちらかと言えば、死のほうに私の天秤は傾いてるよね。でも、でも。それでも。私は生きるほうに賭けたいんだ。だから死ぬための準備なんてしないよ。私は生きるための準備をする。――それが、未来に生きるってこと」
「でも、それでもし死んでしまったら……」
「それでもね、一つ残るものがあるの」
何を言っているんだ、とカズは困惑してしまった。死ぬための準備をしないということは、すなわち何も残さない、残す用意がないということではないのか、と。
しかしそんなカズの疑念は、世の真理にも近い何かでかき消された。続く一陣の風。それは紛れもなく、カツラギの声だった。
「――想い」
「っ!」
「私が死んでもね、想いは残るよ。私がカズを愛し続けたという想い。私が生きたいと願っていた想い。きっとそれらはね、誰かの胸に必ず宿ってくれるはず。だから何も残らないなんてことはない」
「……」
「あれ、生きるって言ってたのに、なんで死ぬ前提に話が向かっちゃってるんだろうね……あはは」
「それは……」
――カツラギが、絶死の確信を抱いているからだろ
そう言いかけた言葉は、続けられなかった。それを続けてしまえば、もう未来はないような気がして。三割が零になってしまうのではという恐れがカズを襲ったから。
苦い顔をするカズを、真上から見下ろすカツラギ。その顔はやはり少し寂しそうに見えた。
何かカズが口に出そうとした瞬間、病院中にアナウンスが響いた。面会時間の終了を伝えるそれは、残り少ない彼女との時間を体現しているようで。
しかし、病院の規則には従わなければならない。カズはゆっくりと起き上がって、今日の最後にと、彼女の細い体躯を抱きすくめた。
彼女は小さく声を上げる。そんな彼女が堪らなく儚いものに見えて、力を少し弱めた。
◇
甘い香りが立ち込める。
金属が擦れ合う音が聞こえた。
くつくつと、何かを沸かしている音が聞こえた。
カツラギは手にしたものを見つめつつ、今日の自分の発言を思い出していた。
死んでも残るものはある。それは想いだ。そして、自分は未来を生きると、生きるために何も遺さない、そうカズに対して告げた。………カツラギにとってそのような嘘をつくことがどれだけ辛いことだっただろうか。
彼女は今、「死ぬために」自らの腕を振るっていた。
成功率が三割あるというのに、何故。カズが知ればきっとこういうだろう。しかし事情はそこまで簡単ではなかった。
そもそもカツラギの病気は脳の病気。しかも細かい血管に関する病気で、さらに言うならば難病指定を受けているものだった。それに追い打ちをかける真実も、もう一つある。……つまりそれは、カツラギのその症状の進行度合いがかなり深いものであるという事実。
故に、カツラギはすでに自分の死期を悟っていた。だからこそ、今こうやって彼に――カズに遺すものを作成していた。
それは、ただただ甘やかにカツラギの心を満たしながら。
◇
永訣の朝。
カズはやはりその隈の出来た目をこすりながら病院へとやってきた。現在は朝の六時で、カツラギの手術が始まるのは午前七時。つまりこの一時間後だった。
カズが病室に入ると、そこには医者が二人いて、何かをカツラギと話していた。それを聞くカツラギは、やはり昨日と同じ空虚な表情をしている。
やがて二人の医者がこちらに気付くと、何か申し訳なさそうな顔をして病室を離れた。去り際に投げていった「では三十分後に」という言葉が、明確な刻限として今カズに刻まれた。
その具体性を伴った時間は、カズの心を最大限にざわつかせる。それは緊張として、彼の掌に集まっていた。
「……おはよう」
「おはよう、カズ」
「……今日は、いい天気だね」
「……そうだね」
「…………怖い?」
「怖くないって言っちゃ、嘘になるよ。でも、なんでだろうね。先生に怒られるよりかは、まだ怖くないかもしれない」
「………」
「………」
静寂が、病室を支配した。
ちく、たく。時計の針が時を切り刻んでいく音だけが響いていた。
カズと、カツラギだけ。おそらく最後の、そんな場面で彼は、何も話ができなかった。
どんな話をしたらいいだろう。どんな話をしたら、カツラギは勇気を持ってくれるだろう。どんな話をしたら――。そんな言葉だけが、カズの頭の中で反響していた。
そんなカズの頬に、何かが触れた。どうやらカツラギが車椅子でカズのそばに寄ってきていたらしい。その白い指で、カズの頬の稜線をなぞっていた。
その温かさに、優しさにカズの心が満たされていく。しかし、それが空虚で、これから失われるかもしれないものだと考えた瞬間、心はがらんどうなってしまった。
もう満たす者は、誰もいない。
「……」
「……カズは、暖かいね」
「そうかな」
「うん、暖かい」
そうやって弱弱しくにこりとほほ笑むカツラギの姿は、もう正直見ていられなかった。
まるでこの世全ての後悔や慚愧をそこに集めたような、そんな空虚極まりない空間がそこに存在していた。
そのことを理解すると、なんだか心にぽっかりと大穴が開いたような気がした。思わず呻き声があふれだす。ゆっくりと、されど着実に。その痛みは広がっていった。
いつしか呻き声は嗚咽に、痛みは悲しみへと変わっていた。泣いちゃいけない、などと家を出る前に決めていた。しかし、現実は、予想以上にその胸を抉り取ってしまっていた。
「……そろそろ時間です」
無情にも、扉が開いた。
手には錠剤。そしてぬるま湯。
近寄る。
手渡される。
飲む。
意識が混濁して、カズの頬に添えられていた手がストンと落ちる。
からからと、妙に乾いた音が、カズの耳に残った。
◇
赤い、どこまでも赤いランプが点いた。
手術中。光るランプの前で、カズは崩れ落ちる。
さいごのときに、じぶんはこえをかけることができなかった。
そのことが、カズの頭の中でごうごうと息を巻いて彼の心を叩いていた。
もう彼が、声をかけるべき相手はいない。
なぁ、カツラギ。
言葉は静寂に巻き込まれた。
なんで最後まで、俺は声をかけてやれなかったんだろう。
懺悔の言葉も、すでに届かない。
俺は、なんでカツラギを安心させるような言葉をかけられなかったんだろう。
疑問も懺悔も慚愧も慟哭も怒りも悲しみも憐憫も焦燥も倦怠も愛情も問いかけも謝罪も後悔も何もかも。
もう意味はない。
ランプが消える。
遍く星の光すら、飲み込んでしまいそうな闇を携えた夜のことだった。
医者が出てくる。
追いすがる。
首を、振った。
追いすがる。
首を振った。
疑問も懺悔も慚愧も慟哭も怒りも悲しみも憐憫も焦燥も倦怠も愛情も問いかけも謝罪も後悔も何もかも。
――何の意味も、成しはしない。
◇
カズがカツラギの現在の状態を知ったのは、手術が終了した午後十」時から八時間後――実に二月十四日午前六時のことだ。
それだけ状態の周知が遅れた原因は、カツラギの状態にあった。
彼女の状態は非常に危ないものだった。満足に体も動かせず、どう手術がうまく運ぼうと――たとえ神がそのメスを取ったとしても、半身不随は免れぬ。そんな難儀な手術だった。
だからこそ、カズ以外は執刀医をほめたたえた。死にゆく彼女を、その可能性を極力減らしたうえで手術を『成功』させたのだから。
ああ、名医だろう。世間的に見れば、名医のそれ以上に適切な言葉はない。枕詞に伝説的とついてもおかしくないくらいの神業だった。
でも、それでも。カズは彼のことを暗愚と認めてやまない。藪医者だと、何のためにその腕はあるんだと。そう問いかけたくて、たまらなかった。
……結論から言おう。カツラギは現在生と死の狭間をさまよっている。先んじて述べた通り、これは別に執刀医が悪いというわけではない。ただ、彼女の状態が悪かっただけ。カツラギの体力が、手術に勝てなかっただけ。
それでも、カズはその責任を医者に押し付けた。そうしなければ、まるでカツラギが悪いと、心の中の自分にいわれるような気がしたからだ。
そして、ゆっくりとカズの心をむしばんでいたのは、一つの報告だった。
『危篤』
愕然とした。膝から地面に崩れ落ちた。床の冷たい感触だけが、カズが今ここにいる証明だといわんばかりに伝わっていた。
そして一時間後。午前八時。遂にその報告は届けられた。
『万が一』
『覚悟』
『お別れ』
ああ、夢であってくれ。カズは一心不乱に祈り続けた。祈り続けるしか方法はなかった。それ以外は許されない。許されるはずもない。
カズはカツラギの苦しみに触れなかった。悲しみをわからなかった。それは大きな罪科だ。社会的には何も問われずに済む。だが、カズの背中には常に大きな十字架が括りつけられている。そんな未来。
過去と未来に挟まれて押しつぶされそうになりながら、カズは彼女との邂逅を果たす。そこはICUではなく、ただただ白い病室だった。
方向感覚も色彩の感覚もくるってしまいそうな、真白の部屋。そんな部屋に無機質な音が響いていた。一定周期で電子音を鳴らすそれは、しかしやがてその頻度を減らしていく。
それが、死の福音であると。理解が及ばないはずがない。否、及ぼすほどカズは暗愚でなかった。暗愚だったらどれほどよかっただろう。阿呆だったらどれだけ救われただろう。
しかしカズは、聡明で、人の心がわかる、普通の人間だった。ああ、されど、ゆえに。この状況に心を折らずにはいられない。
知らず、カツラギのほうへと手が伸びた。いつか美しいとほめた黒い髪はそこにはない。手術できりとられたからだ。いつか触れた白い柔肌はいまや青白くなっている。血を大量に失ったせいだ。いつか撫でた頭には、大量の包帯とガーゼ、それに金具が存在していた。……手術の結果であることは、言わずともわかるだろう。痛々しくて、つらくて苦しくて、触れるに至らない。
そんな中、ただ一つ変わらない場所があった。美しい、人懐っこいといつかカズが称した顔だ。あまりにも綺麗だった。綺麗すぎて、彼女が今死に逝く体であるとは信じられないほど。
しかし、機械音の脈動はやはり回数を減らし続けていた。それだけが、カツラギの命の行方を知っている。
ああ、と。カズは、無力な少年は膝をついた。地面に、カツラギに、そして自分の心に。
いつかカツラギと約束した花見にはもういけない。いつかカツラギと語り合った夢あふれる将来設計を遂行することはもうない。いつかカツラギと一緒に歩んだ道を、もう二度と一緒に進むこともない。
彼女に触れた時の温もりも、与える愛も、与えられる愛もすでに忘却の彼方へと放られた。
触れたい、もう一度彼女に。
見たい、もう一度彼女の笑顔を。
誓いたい、もう一度、彼女への愛を。
そして、それらは、見事に自分勝手な妄想であることを、カズはすぐに理解した。カツラギはどんな気持ちだったか、どういう考え方をしていたか。そういうことを、思考の埒外に置いてしまっていたのだ。
その愚かしさに胸を自傷しながら、瞳からは滂沱の涙を流す。許して、懺悔の声も。戻ってきて、嘆願の声も。漏れ出す声は、とことん情けなく、かつ悲哀に満ちていた。
「……カ、ズ」
――そんな哀れなカズに、天は奇跡を与えたもうた
もう二度と目ざめないだろうと予測されていたカツラギが、その目を覚ました。それはまさしく奇跡。麻酔の効果が残っているにもかかわらず起床できるのは、もはや人間の能力を飛び越えている。
いまだに手を伸ばしたまま固まっていたカズは、目の前で起きたその奇跡にただただ瞠目した。
困惑するカズの手は、しかして暖かいものに包まれた。それは紛れもなくカツラギのもの。その温かさに、カズは意識を取り戻した。
「……おか、あ……さん。あれ……」
「あ、あれって……あ、アレね!」
そういいながら、カツラギの母親は手元にあったバスケットから一つの箱を取り出した。丁寧に包装されたそれは、この殺風景な病室にあまりにも似合わなかった。
「これは……」
「……あの子から、あなたにって。預かってたものよ」
「……ぇ」
声がこぼれた。
まさか、カツラギは。カズがその意図に思いが至り愕然とする中、カツラギはその唇をか細く動かしていた。
「カ……ズ。耳、寄せて……」
「……うん」
風前の灯火。
今のカツラギの状態をこれ以上に表した言葉はないだろう。一つ風が吹いたら掻き消えそうな炎。
カズがそんなカツラギの口元へと耳を寄せた。儚い吐息が耳にかかり、その脆さを如実に伝える。
唇を動かした。機械音だけが鳴り響くこの部屋の中で、ひどく小さく、か細く、そして儚い声はカズにしか聞こえなかった。目を見開くカズに、カツラギは精一杯の笑顔を向けた。
その笑顔は緩やかに崩れ、瞼が閉じられる。ゆっくりと。ゆっくりと……。
「待って、待てよカツラギ! 目を閉じるな! 閉じないでくれ……!」
カズのそんな叫びとは裏腹に、機械の脈動も又弱弱しくなっていく。目を覆う闇の面積を大きくするたびに、その鼓動は細く小さいモノになっていく。
「なぁ、お願いだから……!」
願いは叶わない。これ以上の奇跡は起こるはずもない。奇跡に奇跡は重ならず、瞼は完全に閉じられる。目の端から、透明なしずくをこぼしながら、甘やかに、はかなげに笑みを浮かべながら。
◇
あれから一年が経った。
カズは就職して、花屋の従業員になった。それは、カツラギの将来の夢の一つ。そんな夢をかなえることで、彼女の願いを自分も背負って生きていきたかったからこそ。
そんなカズは、現在喪服を着て、カツラギの自宅にいた。今日はカツラギの一周忌。二月十四日の午前十時だ。手に大きなバスケットを持ちながら、カツラギの遺影へと手を合わせる。
「……もうあれから、一年たったんだな」
目の前の遺影にゆっくりと話しかける。
カズの心の傷はいえていない。一年たった今でも、カツラギの死去は、大きな傷を彼に与えていた。それこそ回帰不可能なほどの。
しかし、それでもカズは立ち直った。それはひとえに、あの時渡された包みが原因だった。
「なぁカツラギ。お前のチョコ、クソにがかったぞ」
遺影に対して笑いかける。返答はもちろんない。
「だからさ、俺のチョコも苦く作ってやったよ。お前、俺が甘いもの好きだって知ってただろ? そのお返しだよ」
そういいながら、バスケットから一つの包みを取り出す。綺麗に包装されたそれは、いつぞやあの病室で見た包装と寸分違わぬものであった。
「だからさ、お前も味わって食べろよ。苦さに顔をしかめながら、な」
にっと笑って、もとの場所へと戻っていく。その後姿には、いくらかの暗い感情がうかがえる。しかし、絶望はそこには存在していなかった。
(……なぁ、最後の言葉ってさ、こんなにも人をたきつける効果があるんだな、カツラギ)
中空に向かって、ゆっくりと息を吐く。
(お前の最後の言葉さ、今でも引きずってるし。だからとりあえず俺からも答えとくよ。そっくりそのまま、お前の言葉を借りて。俺のこれからの誓いとして)
もう一度、ゆっくりと息を吐いて。
「――愛してる」
それは、一年越しのバレンタインの青空に。もう一度。
マイページ
http://mypage.syosetu.com/604617/