5
多岐には答えられなかった。
じりり、と蝋燭の芯が燃える音だけが、妙にはっきりと聞こえた。
桜ヶ淵。那智はそこまで掴んでいるのだと思うと、ぞっとした。たかだか一介の見習い影狩師のことなど、だれも――特に那智のような、高位の影狩師が気にかけることなどないと思っていたのに。
『わしはな、古種族と人間が馴れ合うのはよくないと思っておるのだ』
淡々といった、その口調に、特にせめる色はない。
『組織の存続のためには、ときに、敵と裏で取引を交わすことも必要かもしれん。それを責めるつもりはないのだ。だが、常に裏でなれあうのはいかがなものか』
暗さが、室内を満たしている。
書き物にもどった那智は抑揚なく、口を動かしながらも、手を止める気配はない。
那智は、清廉なのだと思う。
そして、とてもあやかしを憎んでいるのだと思う。
千早をかばいたい自分としては、やりにくいが、影狩師としては真っ当な心の持ち主なのだ。
『那智様……』
『あの娘がいかなものなのか、わしにはまだわからぬ。巻き込まれているだけならば、助けてやらねばなるまい』
助けてやらねば、という那智の言葉に、わずかに心が動いた。
桜ヶ淵から戻ってきた千早。変わった雰囲気――具体的にはわからなかったが、古種族よりになってしまったのは、なんとはなしに間違いのないような気がしていた。千早は何も言わなかったから、現状を把握できないのだ。
もし、千早の本意でなく、巻き込まれているのなら。
那智ほどの力と権力の持ち主なら、千早を助けてくれるのかもしれない。
『……』
口を開きかけたものの、多岐は結局何も言わずに唇を結んだ。
だが、もし万が一。千早が自身の意思で、古種族よりになっていたら、どうすればいいのか。
古種族を憎む那智のこと。
もし、そんな事実が判明すれば、間違いなく千早を処分しに動くに違いない。
『俺は……本当に何も知らないんです』
ためらったあげく、多岐はようやっと、それだけをいった。
自分だって、影狩師なのだ。古種族を憎む気持ちは多分、一般の人間よりも強い。
けれど。
けれど、もし。
大事に思っている相手が、古種族となんらかのつながりがあって、困っていたら。
どうすればいいのだろう。
どうすることもできない。
ただ、その相手を犠牲にしてまで、古種族を壊滅させたいほど、古種族がにくいわけでもない。
それなら、自分はただ。千早を守るように、動くだけだ。
『けれど、那智様。もし……千早が古種族に脅されて手先になっていたりしたのなら、助けていただけますか』
言葉をえらんで、ひとことひとことをゆっくりと問いかける。
ふと、顔を上げれば、那智が手を止めてこちらをみつめていた。その鋭い眼光を負けないように、まっすぐみつめ返す。
『もちろんだ。同胞は守らねばならぬ。その尽力は惜しまぬ』
那智が、どこまで本気で言っているのかはわからない。
那智は、大事に思っている相手が自らの意思で古種族とつながりがあれば。おそらく迷いもなく切り捨てるのだろう。それほどに、古種族に対する恨みが深いのだ。
けれど、自分が那智の手先として動けば、とりあえずは千早を那智の手から、守ることが出来る。
当面の間だけ、であったとしてもだ。
迷いながらも協力を申し出た多岐に、那智はこの札を渡してきたのだ。
『この札を用いれば、扉を開くことが出来る』
そう、那智は言った。
封じられた場所を、中からこじ開けることが出来る、と。
ごろん、と室内に転がって、多岐はその札をまじまじとみつめた。
つまりは、那智をこの鬼哭岳の主の館へ引き入れることができる、ということにほかならない。
「どうしたら、いいのかな……」
思い出すのは、先ほどのあやかしの冷たいまなざしだ。
千早にくちづけをしたふうだったあのあやかしは、多岐の苦悩などたやすく見抜いて、その上で嘲笑しているようにさえ思えた。
たとえ、千早があのあやかしの気まぐれにとらわれているのだとして。
那智をここに引き入れて救出をはかるのは得策でないように思えた。なにしろここには那智の天敵とも言える風視もいるし、なによりいくら那智が強くても、あのあやかしには勝てる気がしなかった。
那智がいなくなれば、白連塾も終わる。そんな気がする。
風視も那智と同様の位置にはいるはずだが、風視では白連塾を繁栄させていくことは出来ないだろう。たぶん、立ち位置が違いすぎるのだ。
まだ、出会って数日。わからないことも多いが、少なくとも、風視が目指しているのは、古種族狩りの組織としての白連塾の繁栄ではないような気がしていた。
どこを見ても、わからないことだらけで八方塞な気がする。
札を懐にねじ込んで、多岐はため息とともに瞳を閉じたのだった。