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静けさが匂いたつような夜だった。
淵はぽっかりと底知れぬ無をたたえ、煙るように咲き誇る桜は闇の中、ほのかに淡く浮かび上がってなまめかしい。静寂は澄みわたって、月光が降る音さえ聴こえそうなほどだった。
「夜斗さん……」
こんなにも美しい夜なのに、大気は濃厚な負の気配に満ちている。
血と、狂気と。にくしみと。
「夜斗さん……っ!!」
どこか空ろなその眼差しに、先ほどまでの優しさはどこにもない。
いくらその名をくちびるにのせても、その表情はうごかない。
胸の奥がずきりと痛んで、ほんのわずかに動きが鈍った。
胸から背へと、衝撃が貫いたのはその一瞬だ。
「…や、とさん……」
祈りをこめて、もう一度その名を口にすれば、吐息と一緒に朱がこぼれた。
男の銀鱗に覆われた腕が、己の体を突き抜けている。
けれど、その事実はあまりにも希薄で。まるで夢の中を漂っているような心地さえ、した。
男が無造作に腕を引き抜くのを、まるで他人事のようにみつめる。
朱が面白いように噴き出しても。足元にまたたくまにできた血溜まりの中にくずおれるのも。
どこか遠くから、芝居でも見ているように感じられた。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
銀色の月光が、ふりそそぐ。
あたりはいやに静かだった。
腕を赤く染めて、立つ男は美しかった。
痛みはなく、ただ胸からこぼれる朱ばかりが熱かった。思考はいよいよぼやけ、すべてが儚く、なにかしらの考えが脳裏をよぎる端から解けて。溶けて。自分さえも知らない、心の底の闇の中へと墜ちていく。命がこぼれおちていくぶんだけ、身体のなかに、虚ろななにかがふくれていく。
桜巳……
沈んでいく意識の端で、ようやく形をとれたのは、優しげな面差しをした親友の姿だった。
銀鱗の肌を持つ男の――桜ヶ淵の主たるあやかしの傍らで、少し頬を染めて、桜巳ははにかむように笑っていたのだ。そして、男も――夜斗も、そんな桜巳を愛しげに見下ろしていた。
ふたりはとてもとても幸せそうで。
自分は、あやかしを狩ることを生業とする影狩師だけれども。そんな二人を見ていれば、夜斗と戦う気などは起こらなかった。
夜斗はもともとあやかしにしては珍しく、人間に対して親切で、近くの里人たちからも主様と慕われているという話だったし、なにより親友の恋人なのだ。たとえ種族が違っても、ふたりが惹かれあっているのなら、祝福したかった。自分が所属する白連塾にも、報告などしないでおこう。
夜斗が狂ったのは、そう心に決めた、ほんの数刻あとのことだった。
『殺して、くれ……!」
完全に狂気に呑まれる直前の、夜斗の悲痛な叫びを覚えている。
『頼む、早く殺してくれ! このままでは、わたしは桜巳を、里の者たちを殺めてしまう……!』
あやかしは、古種族の中の最強種。永の時間を生き、天地の理を知り、呪を良くする存在。ときに人間さえ喰らう彼らは、いにしえの時代には荒ぶる神の眷属とさえ畏れられた種族だ。その身体能力ひとつをとってみても、一対一で人間に太刀打ちできる相手ではないのである。それはたとえ、あやかし狩りの組織である白連塾で厳しい訓練を積んだ影狩師でさえも同じこと。本来ならば、あやかしである夜斗をひとりで斃すことなど、自分にできるはずもないことだった。
けれど、夜斗の動きは明らかに鈍かった。
自分ひとりでも楽に斃せそうなほど。
幾度も幾度も、さあ殺せと言わんばかりの隙があった。
ただ、自分が殺せなかっただけ。
おそらく夜斗は必死に狂気と闘っていたのだろう。それを思えば思うほど、もしかしたら戻るのではという思いが頭をもたげて、止めを刺す手に迷いが生じた。そしてあげくが、このざまだ。
桜巳の泣く顔が見たくなくて、わずかな望みを捨て切れなくて。
結果、自分が死に掛かってては、世話はない。
自分が死ねば、桜巳の命も里の人たちの命も危ういというのに――誰も夜斗を止められなくなるのに。
おめでとうと、言いたかった。どうしても、言ってあげたかった。
ただその願いを捨て切れなくて、本当なら救えたかも知れない命を、無駄にする。里人たちからみればとんだ災難だ。
ごめんなさい
誰に向かって謝りたいのか、今となってはよくわからない。
どの道自分の命は残りわずかで、できることといえば、おっつけやってくるであろう白連塾からの応援が到着するまで、里人たちが生き延びられるように祈ることくらいだが、そうなれば動きの鈍い夜斗は事情を知らない応援の影狩師たちに情け容赦なく狩られることになり、桜巳はやっぱり泣くのだろう。
いったい自分はどうすればよかったのか。
桜巳にわらっていてほしいだけなのに、どうしてこうも上手くいかないのだろうか。
「なぜ、殺さなかった?」
死ぬ前の走馬灯、ではないが。
とりとめもなく流れていく、あやふやな思考を中断したのはひんやりとした男の声音だった。
一瞬、夜斗が正気に戻ってくれたのかと思ったが、そんな都合のいいことがおこるはずもない。なによりぼやける視界に映る色彩が違う。夜斗が淡い海の色なら、今視界に映っているのは新雪の白。
「桜ヶ淵の裡には、せめぎあう二つの心があった。狂気と理性……」
かすむ視界を懸命にこらせば、月明かりにたたずむ男の姿があった。
ましろい髪を無造作に束ねた、濃い黄金の双眸をしたあやかしだ。
「殺せたはずだ、影狩師。なぜためらった?」
あやかしは影狩師にとっても恐怖の対象だが、ここまで死に近づいていてはそんな心持にもなりはしない。男の声音がひっそりと闇に溶けていくのを、ただ、聞いた。